午前零時の刻印
一話
「――逃げても、無駄」
夜の闇に、染み入るような声音でそれは響いた。
前方には、荒い息で必死に手足をバタつかせ、距離を図ろうとしている者が存在している。
「アイリ」
「うん。……平気、見えてる」
男の声が静かに頭上で響くと、小さな声音の持ち主はこくり、と頷き返事をする。
古い街灯に照らされたその姿は、まだ幼い少女だ。長いストレートの黒髪と、金色の目。その身を纏う露出の高いキャミソールドレスが印象的だ。
そして、少女はその場に『一人きり』のように見えた。
ただ、彼女のその右手に握られている身の丈ほどある大鎌だけが、あまりにも不似合いで不釣合に存在しているのみだ。柄と刃の間に在る目玉のような装飾が、一層の不気味さを醸し出している。
その『目玉』が、ふいにぎょろり、と動いた。
「アイリ。これ以上距離を取られると厄介です」
「……そうだね」
アイリと呼ばれた少女は、表情を変えずに男の声に答えて黒のショートブーツに包まれた足でポンと地を蹴る。
ふわり、と宙に彼女の黒髪が舞った。
「……ひっ」
ものの数秒で距離を縮めてきたアイリの姿に前方に逃げていた存在が、そんな声を上げた。
表情は余りうかがい知れないが、初老の男のようだった。かなり走り続けたのか、肩を上下させてアイリを見やる。
「覚悟は、決まった?」
「た、助けてくれ……」
手にしたままの大鎌を持ち直し静かにそう言う彼女に対して、男は後ずさりながらそう言った。それは懇願の響きだった。
だが、アイリはその言葉にわずか程も感情を動かさない。
「――神に、祈るくらいの時間はあげる。だけどその先は、眠るだけ」
「し、死にたくない……っ助けてくれ……ッ!」
「…………」
アイリの言葉に男はただただ、助けを乞うだけだ。
――死にたくない、という気持ちは、アイリにも多少は解る。
だがそれでも彼女は、その大鎌を振るわなくてはならない。
どんなに生を願っても、『アイリ』という少女からは逃れられないのだ。
「ごめんね。……おやすみなさい」
「――――……ッ!!」
その言葉の数秒後、大鎌は、ヒョオと風を切る音と同時に振り下ろされた。
アイリの目の前にいた男は、そこで生の時計を無理矢理に止められてしまう。
僅かな静まりのあと、遠くでごとん、と響いたのは男の首が落ちた音であった。
「お疲れ様です、アイリ」
「……うん」
猫の目のような瞳で微動だにしない息絶えた骸を見つめていると、彼女の背後からそんな声が聞こえた。そして、その声と同時に影が生まれ、アイリの頬に真っ白なナプキンを充てがう存在があった。
少女の頬には、一滴の血があったのだ。男の返り血なのだろう。
それを丁寧に拭うのは、長身な一人の青年だった。口調と声音からすると、先程からアイリに声をかけていた本人であるらしいのだが、一体どこから現れたのだろうか。
ピチョン、と何処かで水のはねる音がした。
アイリはその音に、ビクリ、と肩を震わせる。
すると傍にいた青年が、自分の着ていたロングコートをおもむろに脱ぎ、そっと肩に掛けてやった。
「サイラス」
「――はい」
「これ、重い……」
「体を冷やしては後々厄介ですから、我慢してください」
くすんだ青の髪と、紫色の瞳。僅かに尖った耳と、その青年の容姿は少しだけヒトから逸脱していた。
立ち振る舞いなどから彼はアイリの従僕かそれに近い立場の存在なのだろうが、どこか『不釣合い』だ。
――名を『サイラス』と言うこの男は、先程まではアイリの持つ『大鎌』であったのだ。
それゆえの、僅かな不調和なのかもしれない。
「……時間です。離れましょう」
「うん」
懐から出した時計に目をやりサイラスが静かにそう言うと、アイリは素直にこくりとうなづいた。
そして、重いと口にしつつも彼のコートをしっかりと両肩に掛けて、彼女は踵を返す。
アイリと、サイラス。
夜の街外れに、度々出没する『執行者』と呼ばれる二人組であった。
レトロな建造物が立ち並ぶ中、古い電灯と、わずかに湿った空気。そんな空間の中に、二人は存在する。
だがそれは、一般人にはにわかに理解し得ないものであった。
アイリの帰る場所は、一軒家やアパートのような住まいではなく、静かにひっそりと息をひそめるようにして闇の中に溶け込む『組織』だからだ。
エクイリブリオという名の、大きな教会がその街の中心部に存在している。バロック様式の外観も美しい建物だ。
この教会は太陽神フェレヌスを信仰する団体が所有していて、このあたりでは有名であった。
人あたりの良さそうな司祭と、彼を慕う街の人々。
ごく普通のどこにでもありそうな教会ではあったがただ一つ、夜の間の『顔』が違っていた。
「アイリ、どうぞ」
重い扉を開けてその奥へと促すのは、サイラスだ。
教会にたどり着いた彼らは、当たり前のようにしてその中へと身を滑らせる。
シン、と静まり返った空間と、冷え切った空気。長時間その場に人が居なかったという証拠でもある。要するに司祭は夕方になれば自宅へと帰り、この教会には人がいなくなるのだ。
そんな人気のない冷たい空間に、アイリはためらいもなく歩みを進めていた。
長い通路を歩ききり、祭壇の前で足を止める。
すると、その直後に祭壇が静かに動き、足元には地下へと続く階段が現れた。明かりもない真っ暗な闇の底のようなその階段を、軽々と降りはじめるのはやはりアイリだった。
そしてあとに続くサイラスは彼女の背中を見守りつつ、背後に視線をやり誰の目にも止まっていないことを確認してから、自分も階段を下り始める。
二人を完全に飲み込んだあと、祭壇は自動的に元の位置へと戻っていた。
「登録番号02。アイリ、戻りました」
「お疲れさま、アイリ。今日はもう部屋に戻ってオーケーよ」
「うん」
長い階段を下った先には、アーチ型の窓がひとつ存在していた。そこに手をかけアイリが小さくそう述べると、奥から顔を見せたのは青い瞳が印象的な女性だった。書類を手にしたまま彼女はアイリにそんな言葉を返し、目配せで通路の奥を見やる。
アイリはその女性の言葉に短い返事をしたあと、サラリ、と漆黒の髪を揺らしてまた歩みを進めた。
彼女のあとには当然のようにして、サイラスが続く。
何度、この行動を繰り返してきたか、わからない。アイリにとってはこれが日常であり、それ以外があり得なかった。
静かな夜の闇と、廊下を照らすランプの灯り。
しばらく歩き続けて見えてきた扉の向こうには、彼女の部屋があった。数段の階段を上がった先であるので、地上になっているのか、室内には窓も存在している。だが、それには常にレースのカーテンがかかったままだ。
無駄に広い空間の中、天蓋付きのベッドと豪華な作りのソファ。そして多くの本棚。積み上げられた分厚い本。
「…………」
小さなため息が漏れた。
それを自覚した彼女は、なぜ己の口からそれが漏れたのか分からずに、小首をかしげる。
「……アイリ。今日はもう休んだらどうですか」
「読みかけの本がある」
「明日でも読めるでしょう」
「…………」
会話を続けながらサイラスは彼女の肩にかかったままの自分のロングコートをそっと手にする。そして素早くたたんで己の左腕にそれを掛けて、アイリを見やった。
彼女はわずかに不満そうな表情をしている。
サイラスの返してきた言葉に、異論があるのだろう。それでも言葉が見つからないのか、それ以上がない。
「――午前二時。休むにはちょうどいいですよ。昨日もあまり眠っていないのでしょう。温かいミルクを入れて差し上げますから」
「ハチミツ、多めでね……」
「わかっていますよ」
サイラスが自身の懐中時計に目をやりそしてアイリにそう告げると、彼女は半ば諦めたようにしてベッドへと足を向けた。
頭の上に存在していた茶色いリボンをするりと解き、それをおもむろにソファへと投げやると、綺麗に整えられた自分のベッドに身を投げる。
ぽすん、という空気の抜ける音のあと、ゆっくりと沈みゆく感覚に、アイリは目を細めた。
おそらく、一般人には探し当てることもできない、アイリたちの居場所。
教会の名である『エクイリブリオ』は、本来は彼女が属する『組織』の名前であった。
『天秤』を意味するそれは、人の命を左右するこの組織には似つかわしい。
決して表には出てはならない、闇の世界の暗殺組織であるためだ。
多くの著名人や、政治家がリストのみでこの組織と繋がっている。彼らの『依頼』があって初めてそこで、アイリたちが『執行者』として呼び出され、標的となった人物を屠る。
先程の窓の向こうの女性――名をシヅルという彼女が、この組織の『窓口』で、依頼と報告を全て取りまとめる存在であった。もちろんその奥には彼女を動かす存在もいるのだが、執行者たちはほとんどそれを知らずにいる。
「アイリ、ミルクを……」
「…………」
部屋の傍らで、温かいミルクを入れていたサイラスが少女に目をやれば、当の本人は眠りに落ちていた。
サイラスはそれを確認して、小さく笑をかたどる。ミルクは無駄になってしまったが、彼にとってはそれ以上に『アイリ』が大切だ。
ことり、とサイドテーブルにカップを置いた彼は、アイリの体の上に柔らかな上掛けをかけてやり、そして最後に額へとキスを降らせた。
彼とアイリの、毎日の日課だからだ。
「――おやすみ、マイマスター」
小さくそう告げると、彼はゆっくりと自分の体を起こし、アイリの放ったままのリボンや衣服などを静かに拾い上げて丁寧に所定の場所に戻していく。
大鎌という武器でもあり、そして、誰より従順と自負するほどの、アイリの付き人でもあるサイラス。
彼にもまた、様々な半生がある。だがそれは、今はまだ深い闇の底だ。
そうして、アイリの部屋の中を軽く片付けた彼は、静かにその空間を出る。となりに存在する自室へと戻るためなのだろう。
扉のすぐ傍にあるランプの灯りは、ギリギリの明るさまで縮められ、音もなく扉が締められる。
決して眠りが深いわけでないアイリだが、その日だけは久しぶりにゆっくりと安らかな眠りを得るのであった。
-続-
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