午前零時の刻印

二話

 月の光に照らされて、一つの斬馬刀が夜風を切った。弧を描くような動きは『鮮やか』の一言に尽きる。
 柄の先に飾られたピンク色の組紐がひらり、と舞えばその後に響くのは小さな鈴の音だった。
「ほい、一丁上がり!」
 石畳の上、自慢の本革の靴をタン、と鳴らしてそう言うのは金の髪の青年だった。
 黒のスーツに派手なシャツ、いくつもの銀のアクセサリーを身に付けるその姿は闇に潜むには若干目立つほどだ。
『相変わらず扱いが派手なんだから。レディにはもっと優しくしなさいって言ってるでしょ?』
「なんだよ、いつも優しくしてるだろ、ハニー」
 足元の息絶えた『獲物』を確認しつつ、肩口で聞こえる女性の声に彼は口の端を上げつつ答えた。
 彼の周囲に、女性の姿など見当たらない。
『その自信過剰なところ、直しなさいな。命取りになるわよ。……ついでに、本命には相手にもされないわよ』
「だぁぁっ、一言多いっての! 俺の相棒なんだから少しは俺の活躍を褒めてくれたっていいじゃん」
 甘美な声音は青年に容赦なかった。
 会話の内容から付き合いは長いように感じられるが、女性の方が彼より上手のようだ。
『――ノエル、誰か来るわ』
 周囲の空気の変化を読み取ったらしい女性の声が、会話を途切れさせた。
 ノエルと呼ばれた青年は青い瞳を巡らせて、踵を返す。軽い足取りで彼はその場を離れて、細い路地へと身をすべらせた。
「処理班、手ぇ抜いたな」
『要報告な案件ね。最近たるんでるんじゃない?』
 彼は後ろを振り返らずに、歩みを進める。
 人ひとり通らない、静まり返った路だ。
 任務のあとは、ただひたすらの『矛盾』に心をかき乱される。それを誤魔化すために、彼は努めて明るい態度で女性との会話を進めていた。
「……ハニー、おつかれさん」
『なによ改まって、気持ち悪いわね』
 相変わらず口の端は上がったままだが、目が笑えていない状態の彼に、女性はそんな言葉を返してくる。
 彼がどんな表情をしているのかを解っているからだ。
 名前を、ノエル。
 苗字は無く、親の顔も知らない。幼少をスラムで過ごし、気がつけば今の組織で『執行者』の立ち位置にいる。
 何も見えない上からの命令に黙って従って、誰にも知られずに要人を屠る。
 今日の相手は、幾度か新聞で記事を取り上げられていた政治家だった。
 ノエルにとって、彼らがどれだけの人物かは知る由もない。興味すら抱かない。
 ただ、人として――人が人の命を奪い取るという行為にこの組織の誰しもが異論を示さないという事に、矛盾を感じずにはいられないのだ。
『ノエル。……こう言っちゃ酷かもしれないけれど、確信には触れないことね』
「ははっ、今更だって言いたいんだろ? ハニー」
 リン……と小さな鈴の音が再び耳元で鳴る。
 それはピンクの組紐に付けられている青色の珠から、聞こえるような気がした。
 彼が手にしている斬馬刀は鮮やかな刀身としなやかな曲線を描いている。女性の声の主は、この斬馬刀なのだ。
 ノエルは彼女をいつでも『ハニー』と呼ぶ。名前ではなく愛称のようなものだ。
『……いつもはもっと素直なおバカさんなのに。仕事のあとは痛々しいくらいナイーブになっちゃうんだから。割り切っているんでしょう?』
「もちろんだ。何年、俺と連れ添ってる? ……今更な話を、俺が勝手に蒸し返してるだけだよ」
『ほんとに、おバカさんなんだから』
 カツカツと響くのは、ノエルの靴音。
 彼は細い路地を歩き続けて、その先にある教会へと進む。元より身寄りのないノエルにとっては、安住とも言える場所だ。
 呆れたような、それでいて愛情のある響きがノエルの耳元に落ちた。そこからふわりと花の良い香りが広がり、首に回されるしなやかな腕が彼の歩みを一旦止めさせた。
 褐色の肌に、鮮やかな縹色のふわふわとした髪。柔らかな肢体を惜しげもなく露出させた濃厚な魅力を持つ女性が、ノエルを後ろから優しく抱きしめる。
 彼女はいつだって、優しかった。
 ノエルの愛用している武器――斬馬刀の真の姿が、彼女なのだ。正しい名前はラダと言い、遠い昔にロマと呼ばれる移動民族を経由して現在の立ち位置に収まっている。理由はまた、深い真相の中だ。
 彼女にとってノエルは主であり、そして大切な弟のような存在らしい。『男』としてカウントされないのは、彼女よりノエルが年下だからだ。
「ありがとな、ハニー」
 ノエルはゆっくりと目を閉じてそう言った。
 いつも何かと一言多いラダだが、やはり誰よりも信頼しているし、心の拠り所にもなっている。
 それを改めて自覚して、彼は気持ちを入れ替えた。
「――さて、戻るか」
「そうね。アイリのほうも、きっとそろそろ終わってるわよ」
「アイリ!! そうだ、アイリのためにも早く帰らねーと!!」
 たったそれだけの言葉で、ノエルの顔色が一気に変わった。
 そして彼は、一気に走りだす。
 その間にラダは呆れ顔で斬馬刀に姿を変えて、彼の左手に収まった。
(――まったく、現金なんだから)
 心でそう呟く彼女の響きは、ノエルには当然届くことのない言葉だった。

 ノエルの戻る場所は、アイリと同じ場所だった。
 誰もいない教会の扉を開けて地下への階段を下り、窓口でシヅルに任務完了の旨を伝えて自室へと戻る。
 間にほかの執行者たちとの交流を目的とした談話室や図書室なども設備されているが、それらにアイリはいなかった。
「……もう寝てるんじゃないかしら。二時回ってるわよ」
「やっぱそうかなぁ。……今から部屋行ってもサイラスがうるさいだけだよなぁ」
 廊下を歩きつつ、人の姿に再び戻っていたラダとそんな会話を交わす。
 角に差し掛かったところで前方に気配を感じて、ラダの眉根が揺れた。
「あら、聞こえちゃったみたいよ、ノエル?」
「げっ、マジかよ……」
 うっ、と苦い顔をあからさまに作ったノエルはそこで足を止めた。
 すると角の向こうから音もなく一人の男が現れる。
「――私がなんですって?」
 長身の男が静かなトーンでそう言ってきた。ノエルたちとは顔なじみの存在――アイリの従者であるサイラスだった。
 冷たい紫色の瞳が、ノエルに重く突き刺さってくる。
「あ、いや……アイリ、もう寝てるよな?」
「当然です。何時だと思ってるんですか」
 瞳と同様、サイラスの声音はとても冷たいものだった。ノエルに対してあまり良い感情を抱いていないのか、手厳しい言葉が返ってくる。
 ノエルより十センチほど背の高い彼の視線は、いつもとても威圧感があった。
 顔の角度も変えてこないその態度に、ノエルは若干の苛つきも感じるのだが、どこをどう見ても『完璧』であるサイラスには二の句が告げられない。
「……何か用があったのなら、私からアイリに伝えておきますが」
「遠慮しておきマス……」
 これ以上関わると自分の立場が悪くなる一方だと感じたノエルは、彼から視線を逸らしてそう言った。
 するとサイラスはわざとらしくため息を吐いたあと、踵を返しその場から去っていく。
 そのやりとりを黙って見ていたラダは、完全に呆れ顔だった。
「ほんと残念なボウヤね」
「追い討ちかけるなよ、ハニー……」
 自分にとっては『ライバル』にも当たるサイラスと言う人物。
 今現在では、到底太刀打ちできない大きな存在だ。
 ラダに包み隠さずの駄目出しをされたノエルは、かくり、と頭を垂れた。
 その直後、ボーン、と遠くの談話室から低い鐘の音が響いてくる。
 二時半を告げる時計の音だった。
 その音を耳にしたノエルは益々憂鬱な表情を作り上げて、はぁ、と大きなため息を漏らして首を振る。
「一日一アイリが俺の目標だったのになぁ……」
「その変態じみた発言、よしてちょうだい」
 がっくりと肩を落としてそう言うノエルに対して、ラダもため息を漏らしつつ指摘を入れる。
 そしてパシンと彼の背中を叩いて、行動を促した。
「永遠に会えないわけじゃないんだから、今日はもう寝なさいノエル」
「ん、そうするわ……」
 ラダの言葉に、ノエルは素直に従う。改めて自分の体調を顧みれば、やはり疲れを感じているのだ。
 そして彼は、自室に向かって歩みを進めた。
「おやすみ、ノエル」
「んー、おやすみハニー。お前もゆっくり休んでくれな」
「ええ」
 ひらひら、と背を向けつつ手を振るノエル。
 ラダはそれを見やりながらやれやれ、と言いたそうに両手を軽く上げて肩をすくめた。
 そして『主』の姿が完全に見えなくなってから、彼女も自分の部屋へと戻っていく。
 
 執行者として『晦冥の狼』と称される彼も、蓋を開ければごく普通の青年だ。
 ひとりの少女に恋心を抱きながらも、我に返れば言い知れぬ不安や違和感を綯交ぜにしながら過ごしている。
 葛藤とともに生きる彼の時間は、そこで眠りの世界へと誘われひとときの休息へと繋がるのであった。

    -続-