rough wind

03.



「おーい、潤いが来たぞーー!!」
「うおおおおっ!!」
 隊員たちの歓声が上がった。
 野営地から駐屯地へと戻ってきて、次の日の出来事であった。
 広大な駐車場を囲うフェンス向こうから、一人の女性の影が見える。
 一台の装甲車がその後ろにあり、彼女はそれに乗って此処までやってきたようであった。
「女神だ!!!」
「女神さま!!!」
 若い隊員がそう言いながら腕を振り上げる。
 すると周りの者達も同じようにして腕を振り上げつつ、女性の出迎えに向かった。
「……あらあら皆さん、相変わらずお元気ですね」
 ふわり、と花の香が漂う。
 その芳香に、男たちは骨抜きになったかのような顔を浮かべた。
「マリー、こっちだ」
「あなた!」
 押し寄せる男の波にもひるまずに笑顔を振りまく女性に、そんな声がかかった。
 女性は声の主にすぐさま反応して、溢れるような笑みを見せる。
 そんな笑顔がまた、周りの男達の視線を釘付けにした。
 マドンナ的な扱いを受けているその女性の名は、ハイデマリー・ダヴィド=ファウスティノ。その名が示すとおり、ルーカスとの関わりが深くある存在である。
「こっちに帰ってくるって聞いたから、パイを焼いてきたのよ。アップルとチェリー」
「うおおおおっっ」
「女神様からのお恵みだーー!!!」
 その場がまた沸き立った。
 だが、ハイデマリーの視線の先は先程の声の主にしか向いてはいない。
 ルーカスである。
 彼はいつものように咥え煙草で彼女を出迎えた。
 周りの男達の叫びにも近い声を右から左へと受け流しつつ、ハイデマリーに一歩近づく。
「……俺の分もあるんだろうな?」
「もちろんよ。あなたの分はちゃんとミートパイにしてあるわ。ザシャ君とヒルデちゃんにも食べさせてあげてね」
 ハイデマリーがそう言いながら、持ち込んだバスケットの一つをルーカスに手渡した。中身は焼きたてパイと果実酒である。
 背中辺りまであるふわりとしたブロンドの髪。それを首の後で軽く束ねただけなのだが、何故か艶がある。
 美しい面立ちに映えているからなのだろう。瞳にはデイドリームの青が綺麗に輝き、宝石を思わせる。
 類稀なる美貌に恵まれ申し分ない立ち振舞いが出来るこの女性は、ルーカスの元妻、という立ち位置にあたった。年齢は35歳だが、全くそうは思えない面立ちで、いつも年齢よく若く見られている。
 そう、確かに離婚しているはずなのだが、ルーカスとハイデマリーは仲が良いままであった。
「こっちのバスケットと、あと二つくらい……車に積んだままなんだけど、そっちは隊員さんたちの分よ」
 ハイデマリーが笑顔を崩さずに、自分たちに比較的近い距離で女神を待つ姿勢でいる男にバスケットを手渡すと、また大きな歓声が上がった。
 駐屯地は、彼女の存在一つでこれほどまでに左右されるのだ。
 それらを黙って見ていたルーカスは、紫煙とともにため息を吐き出し、やれやれと言いたげであった。
「マリー!」
「まぁ、ヒルデちゃん!」
 出入り口の奥から、鉄を蹴る音が聞こえてきた。
 それを確認して立ち位置を変えるルーカスがいた。ヒルデが姿を見せたためだ。一歩を横に出て、彼女のために道を作ってやる。
 ヒルデは両腕を広げてハイデマリーに抱きついた。
 ハイデマリーもそれを笑顔で受け止め、うふふ、と笑う。
「久しぶりね。元気そうでよかったわ」
「ああ、こっちはいつもどおりだ。マリーも元気だったか?」
「ええ、変わりないわよ。……ヒルデちゃんは少し疲れてるみたいね」
「まぁ、戻ってきたのが昨日の夜だったしな。でも、元気だよ」
 まるで姉と妹のようなやりとりだ、とルーカスが思う。
 血の繋がりなどまるで無い二人だが、年が離れているせいもありヒルデはハイデマリーを姉のように慕っているし、ハイデマリーもまたヒルデを妹のように可愛がっていた。
「マリー。ここまで誰の車で来た」
「ザシャくんの弟さんよ。途中で通りかかってくれたの。随伴してるチームが帰投中だったのね」
 ハイデマリーは実は一般人ではない。
 今は基地を離れてはいるが、元はこの軍の技術開発チームに所属していた。
 ルーカスが声を小さくさせてそう聞いてきたのには、それなりの理由があるらしい。
 そして、彼女を拾って此処まで運んできたチームの車も、ザシャが手配したものらしかった。
 彼の弟は現在医療チームに身をおいている。兄とは似ても似つかないほどの好青年で、爽やかな笑顔がトレードマークのちょっとした人気者でもあった。
「……マリーはいつでも元気だな」
「ヒルデちゃんほど私は強くないわ。これでも、怖くて堪らないの」
 ヒルデがぼそりとそう言うと、マリーが笑顔を湛えつつ言葉を返してきた。
 彼女のなりの気遣いでもあった。
 ヒルデも知らないわけじゃない。ハイデマリーの過去を。
 そしてハイデマリーもまた、ヒルデの事情を知り尽くしている。
 だからこそ、二人の信頼関係は絶対的なものがあった。
「あー……イチャついてるところ悪いが、そろそろ俺に譲っちゃくれないか、エフラー曹長」
「あっと、ごめん。マリーといると癒やしオーラ半端ないからさぁ」
 ずっと抱きしめ合い、互いを気遣う姿勢を崩さずにいた二人に、横槍を入れたのはルーカスであった。
 そんな彼を見て楽しそうに微笑むのはハイデマリーである。
「妬いたの?」
「馬鹿言え。……あー、いや、その……ちょっと、散歩に行かねぇか」
「ええ、そうね。行きましょう」
 ルーカスの照れ隠しな誘いに、ハイデマリーはやはり嬉しそうにしながら答えた。
 夫婦間が険悪になって別れたわけではない。
 その証拠に、彼女は未だにファウスティノ姓を名乗っている。
 そしてルーカスもまた、彼女がプレゼントしてくれたイヤーカフを、右の耳に付けたままでいる。
 二人はずっと、思い合っているのだ。
 そんなことを考えつつ、寄り添って歩いて行く二人の後ろ姿を、ヒルデガルトは暫く眺めていた。
 羨ましいという気持ちと、少しだけの寂しさを感じながら。



 基地内の高い位置から、ハイデマリーを見下ろす存在があった。
 女かとも見紛う姿だがれっきとした成人男性である。
 絹糸のような長い髪は灰桜色という珍しいもので、一見すると白髪ではあるが、そう見なしてはいけないと思わせるオーラを纏わせている。
 緑の瞳は片方は眼帯で塞がれ、常に見ることは許されない。
「……泥棒猫が」
 その男が思わず吐き出した言葉は、誰にも届いてはいない。向けられた先は地上をルーカスと並んで歩くハイデマリーであったが、当然それも届けられることはなかった。
 首を傾けると、サラ、と美しい髪が肩を滑る。
 女性であればさぞ自慢であっただろうその髪は、彼にとってはどうでもいいことの部類の一つであった。
 ただ、表情を隠すには丁度よいと感じているらしく、長く伸ばしているにはそういう理由があるらしい。
「――あぁ、世界は無情だね」
「全く、その通りで」
 次の言葉は、強くハッキリとしたものであった。
 それ故に、彼の後ろに立つ部下が遅れずに返事をする。
 後ろで手を組み、規則正しく立つ。表情すらも変えることが許されないその空間は、針のむしろのような雰囲気でもあった。
 だがそれでも、部下たちは従わなくてはならない。家族のため、そして何より、自分の命のために。
「ベックフォード准将、準備が整いました」
「そう、分かった。じゃあ出ようか」
「はっ」
 別の部下が挙手の敬礼をしつつ、そう告げてきた。
 呼ばれた男は静かな口調で返事をしながら、くるりと踵を返す。その仕草さえ、まるで花を思わせるかのような優美さで、その場にいるもの全てが心が奪われそうになる。
 そんな雰囲気を常に持ち合わせるこの男は、現在この軍を取り仕切る立場にある。
 名をキルシェン・ベックフォード。ミドルネームに珍しい響きのものがあるのだが、明かすにはもう少しの時間が必要であった。
「そう言えば……なんだっけ、あのオレンジの髪の子」
「エフラー曹長の事でしょうか」
「そうそう。最近、随分と功績を上げてるね。上を狙ってるのかな?」
「……それは、私共の口からは何とも」
 部下たちに動揺の色が広がっていた。
 言葉選びを間違えれば、ここで死が訪れることを熟知しているからだ。
 キルシェンの気性は激しく、つい数秒前まで笑っていたかと思えば、突然激昂したりするので、常に周りの空気は張り詰めたものであった。それはとても居づらい空気であるはずなのだが、キルシェン自身は気に入っているらしく、いつも口元を緩めて薄い笑みを浮かべている。見た目が全てではないということを、このあたりで表しているようだ。
「女の子の身で、よくやるよね。僕なら絶対、こんな所から出ていくよ」
 乾いた笑みを付け加えつつ、キルシェンがそう言った。
 その響きは独り言に近いものであったので、部下は誰も返事をしない。これを区別することも、彼らの中では重要とされるものであった。
 冷たい鉄の廊下をわざと音を立てて歩くキルシェンと、規律を乱さない部下たちの歩みはどこか不思議な光景にも見える。
 そして彼らは用意された専用車両に乗り込み、基地を離れて『視察』へと出かけていくのだった。

 同じ頃。
 どこまで続くかもわからない途方の果てから、風と共に悲しげな『声』を聞いたような気がした。
「………………」
 それは単独調査で外に出ていたザシャが受け止め、その表情を変えることなく薄い青空を仰いで、風の流れを読んでいた。