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第四夜十四話

 目の前が赤く燃えていた。ゴウ、と音を立てて燃えていた。
「――クッ……ハハ、呆気ないもんだ……!」
 炎が生み出す光を全身に浴びながら、一人の男が嗤っている。
歪んだ表情、狂気の瞳のその男は、かつてこの屋敷に住んでいた禁忌の子――諷貴であった。
「おい貴様、そこで何を……ぐぁっ!」
 彼の背後に、一匹の鬼のような姿の妖が姿を見せた。明らかに不審者である諷貴に言葉を投げかけた直後、その鬼は体が裂けてただの肉塊となってしまった。
 諷貴の妖力で吹き飛ばされたのだ。
「……クク、手ぬるいぞ。雑魚ばかり置きやがって! この俺を屈服させてみろ、王帝め!」
「――お前の仕業か、息子よ」
 ガラガラ、と大きな音を立てて屋敷の梁が崩れ落ちた。その向こうから声が聞こえ、炎の中から姿を見せたのは、一人の男であった。
 体格の良い男であった。短い黒髪と金の瞳は、対峙している諷貴を息子と言った。
 つまりは、賽貴と諷貴の父親、天猫族の長であり王帝と呼ばれる者、その本人が現れたのだ。
「こうして姿を見るのは、何年ぶりか……」
「今日で見納めだろうさ。俺はいい加減、色んなものに飽きた。もう終わりにしたいんだよ」
 親子とは思えぬ会話が続いた。諷貴のほうが一方的に父を拒絶した物言いであった。
 禁忌の双子であり、諷貴は『堕ちた者』と呼ばれた存在だ。狂気に触れたものは、この世界でも排除される。それが例え、王族であろうともだ。
「諷貴、お前は……!」
「――父上、ここで死んでくれ」
 諷貴がそんな事を言った、その視線の先は、父には向けられてはいなかった。ゆらゆらと揺れる視点の定まらない金の瞳は、父の姿を目に留めることを拒絶していたのだ。
 そして彼は、口元に笑みを浮かべながら地を蹴った。
 燃え盛る炎の中に飛び込んでいくような、そんな光景に見えた。
「――――!」
 バチン、と派手な音がその場で響く。間を置かずに何度かその音が繰り返され、また屋敷の一部が炎に包まれ地に沈む。
「……、諷貴ッ!」
「ははッ、やはりそう簡単には殺されてくれないか! だが、それでいい!」
 諷貴は笑っていた。実に楽しそうな笑みだ。
 右手に集中させた己の力を、刃のように見立て父親に向けている。だが彼は、すんでのところでそれを交わされていた。
「息子よ、話を聞けっ!」
「今更、何を話す? 俺を散々拒絶しておいて、何を話す!」
「……ッ」
 父である王帝は、息子の力に若干押されていた。否、押されていると言うよりかは、息子の言葉に動揺しているのだろうか。
 この世界で最強を誇るはずの男が、銀の髪の男に平常心を乱されていた。
 相手が実の息子である為に、本来の力も出せていないというところでもあった。
 だが、諷貴にはそれは伝わらない。
 銀色は狂気そのもの。
 それを最初に唱えたのは、誰であったか?
 王帝は、息子の力の刃を両手で遮りつつ、そんな思考を巡らせた。
 息子の誕生の喜びは、今でも鮮明に憶えている。双子であっても、それは変わりなかった。だから彼は、父として今日まで諷貴を信じていた。
 そして、限られた命であるその時間を、彼なりに救えるすべはないのかと、密かに薬などの研究もしていた。
 浅葱に救われた琳が、始めの頃に服用していた薬が、それの初期段階に当たるものであった。
(これが、報いというものか……)
 王帝は心でそう、静かに呟いた。
 その直後。

 ――ドッ。

 鈍い音が、間近で聞こえた。
 王帝の視界は、そこで朱(あか)に染まった。
「……息、子よ……」
「アンタも賽貴と同じように、腑抜けたな。最強の名が汚れるぞ!」
 眼前で笑みを浮かべ続ける諷貴は、尋常のそれではなかった。最後の最後までわかり合うことの出来なかった息子と、人間界に居続けるもうひとりの息子の姿を思い浮かべながら、王帝の意識はそこで途切れてしまうのだった。



九条邸の上空に暗雲が立ち込めた。
 それまでは陽の光を感じていたために、屋敷内の誰もが眉を寄せた。
「……、……」
 文机に向かっていた浅葱は、黙ったままで右手にしていた筆を置いた。そして、立ち上がろうとしたその時に、声が掛かる。
「浅葱どの、どうかそのままで」
「琳……?」
 御簾の際には琳が座しており、彼は静かな口調で、なおかつ厳しい瞳を向けながら、そう言った。
 只ならぬ事が、起きようとしている。
 琳の表情を見て、浅葱はそう察した。
「手荒になりますが、ご容赦を」
「……え?」
 琳はそう言いながら、主の返事を待たずにその場で行動を起こした。手にしていたのは賽貴の持ち合わせる結界石。それを彼は、床に突き刺したのだ。
 そしてそれは既に他の場所にも施されていたらしく、直後にキン、と音を立てて浅葱の室を取り囲むかのようにして結界が張られた。
「――動くなって、事なんだね。琳がこんな行動に出るって言うことは、賽貴に関する事が起きているんだ」
「あなたに隠し事は出来ませんから、正直にお話します。あちら側――しかも天猫の長の屋敷で、暴動が起きたようです」
「!」
 浅葱の言葉に対して、琳は常に冷静であった。そこは、賽貴と似たような印象がある。どちらも天猫に属するもの。彼らの性質なのだろう。それを感じ取りながら、浅葱は改めて周囲の気配を探った。
「…………」
 家人以外の『誰』か。この九条邸に訪れている。浅葱の知らない気配だ。だとすれば、繋がっていくのは、あちらの世界の――妖だ。
「鴉です」
「からす……」
「賽貴さまの配下に、鴉の姿をした伝令役がおります。その者が、こちらに来ているのです」
 余程、あちら側は切迫しているのだろうと浅葱は思った。
 普段であれば、『妖』は全てにおいてこの屋敷には立ち入ることすら出来ない。賽貴が常に結界を張ってくれてるという事もあるのだが、九条邸は主である浅葱も、そして母の桜姫もこの屋敷を守る結界の構築は常に継続させている為だ。
 掻い潜ってきたとなれば、その鴉は無事なのだろうか。浅葱はそう思って、表情を曇らせた。
「……不法侵入だ、と先に思うのが普通だと思いますが」
「うん……そうだね。でも、妖も人間も、根本的なものは変わりないから。みんな平等に、生きてるんだもの」
 琳の言葉に対して、浅葱は静かな口調でそう返してきた。
 受け止めた琳は僅かに苦笑して、次の言葉を繋げた。
「『鴉』は大丈夫です。異変を察知した賽貴さまが、彼を通しました。事前にこちらに確認を取れずに勝手な行いをしました事、お許しくださいと言われていました」
「そう……。賽貴は、あちらに戻ってしまうのかな?」
「なぜ、そう思われるのです」
 琳は冷静であった。
 浅葱はそれを見てから、寂しそうに笑う。
「だって……賽貴は王帝のご子息でしょ? それに、次代の長でもあるんだから、何かあったのなら、戻らないと」
「やれやれ、その洞察力には感服しますよ。賽貴さまからは口止めされていましたが、仕方ないですね。……あなたの仰る通りです。ですが、あの方は、とても迷うでしょうね」
「琳……」
 浅葱はそんな琳の言葉の意味を、瞬時に察知してしまった。
 自分のために、賽貴は迷う。その直感は驕りかも知れないが、間違ってはいないようだ。
(……、どうしよう)
 浅葱は内心で思わず、呟いた。
 疚(やま)しい気持ちが溢れてくる。
 いずれはこの現状が訪れてしまうと、心の何処かで覚悟をしていたはずだ。
 自分は京(みやこ)を守る陰陽師。そして賽貴は、本来であればこの世界には異なる者であり、ゆくゆくは妖たちの全てを導くものとしての立場でもある。
 ――そう、いずれは。
「浅葱どの、実は相談があるのですが」
「……え、あ……何?」
 間を置いての琳の問いかけに、浅葱は素直に動揺した。思考と現実が一致せずに、目が泳ぐ。
 琳はそんな様子を見つめながら、敢えてそれには触れずに言葉を続けた。
「僕と藍に、一時的ではありますが、お暇(いとま)を頂きたいのです」
「え……」
 予想もしない響きに、浅葱は瞠目した。
 彼の行動が一切読めずに、困惑もする。
「……あなたが必要以上に憂いることはないですよ。賽貴さまの名代(みょうだい)として、まずは僕らがあちらの様子を伺ってきます」
「り、琳……」
 目の前の少年は、いつの間にか自然と大人びた笑みをするようになった。出会った頃は狡猾にしか見えなかったそれは、優しさで満ちたものになっていたのだ。
「この際だから言っておきますけど、僕からすると、あなた方は普段から我慢しすぎだと思います。もっと我侭を言ったほうが良いですよ。陰陽師である前に、一人の存在……それを忘れないでください」
 琳はそう言い終えると、頭を下げてからゆっくりと立ち上がった。そして御簾の向こうの気配を読み取り、一呼吸の後に自身が施した結界石の効果を指で払うようにして消す。
「……鴉が帰ったようです。後はどうぞ、ご自由に」
 利発な少年は、主である浅葱にそう言い残して、室を出ていった。
 浅葱はただ、その場で彼の行動を見ていることしか出来なかった。
「……、……」
 言葉が出てこない。琳の先回りした気遣いに、思考が追いついていないのだ。
「……我侭、か……」
 ぼそりと、漸く零せた独り言が、それであった。
 我慢をしているという自覚はない。これが当たり前の日々だと思っていたし、それでなくとも自分は色んなものに恵まれている。母がいて父がいて、自分の立場と、仕えてくれる式神たち。そして、賽貴という何者にも代えがたい存在だ。
 だから、これ以上を望む事は無い。浅葱はずっと、そう思ってきた。
 ――だが。
(でも、だからといって……こんな事態でも、それは許されるものなの?)
 心の中で、問いかける。当然、答えるものはいない。
どうしても、それ以上を願えない自分がいるのだ。心はこんなにも貪欲なのに、それでも、色んな事を当たり前のように想像して、一歩を引いてしまう。
「浅葱さま」
 思考に思考を重ねるうちに、頭が横に傾いた。
 そして、新たにこの場に現れた誰よりも知る声に、反応も出来ずにいた。
「……浅葱さま」
「いや……こうやって考え込んじゃうのが駄目なんだよね……」
 二度目の呼び声にも、浅葱は気づかずに独り言を繰り返すのみになってしまった。
 声の主はその姿を見て苦笑しつつ、膝を進めて浅葱の傍へと身を寄せる。
「――よろしいですか?」
「っ、さ、賽貴」
 とん、と背中に手を置かれたかと思えば、浅葱の体はそのまま声の主である賽貴の腕の中に治まってしまう。
 本当に、そうなってしまうまで浅葱は、賽貴が傍に寄ってきたことすらに気が付かなかった。
「深く考え込まれていたようですが、大丈夫ですか」
「……賽貴こそ、大丈夫なの?」
 背後での温もりを確かめつつ、浅葱は賽貴の問にそう返した。すると彼は、僅かに動揺したように見えた。
 良くない事が、あったのだろう。
「琳から、どこまでをお聞きになりましたか」
「あちらの屋敷で、暴動が起きたって……」
「……そう、ですか」
 最期の言葉並びは、歯切れの良くないものであった。伝令役の『鴉』は、賽貴に何を告げたのだろう。そう考えつつも、浅葱は次の言葉を待った。
「兄……諷貴が、動きを見せたようです」
「……っ、それって……」
「逆に、今までそうしてこなかったのが不思議でもあるのですが……どうやら、父が倒れたらしく……」
「王帝が……?」
 浅葱の顔色が変わった。
 この事態は、もうすでに取り返しのつかない状態なのではと思考が走る。
 そしてそこには、自分の感情などを前面に出せないという事も。
「……さっき、琳が暇願いを出してきたの」
「私の名代を、と言ってきたのでしょう」
「でも、この事態は……賽貴が戻らなくちゃ、いけないんじゃないの?」
「……そうだと思います。ですが、実を言うと『俺』は、あちら側に大して興味が無いのですよ」
 賽貴の意外な返答に、浅葱は素直に驚きを見せていた。だが、それと同時に、心の奥底で安堵を得てしまっていたのも、確かなことであった。
(……駄目だな、わたし)
 こんな状況であっても、自分の感情を優先させたがっている自身がいる。そう自覚するだけでも、嫌な気持ちが心に広がっていく。
「あなたという存在を知ってから、無限である自分の世界や寿命や立場……そんなものが、逆に疎ましいと感じるようになりました。……今回の事態も、まさにそんな感じなのです。ですから、琳の申し出とおりに、まずはあれらに様子を見てもらってきます」
「賽貴……」
 聞き手があちら側だとすれば、とんでもないことを言っているのだろう、と浅葱は思う。
 目の前の彼はまさに自分のためにここに残ると言い切り、故郷すらを厭う感情を見せた。
 この判断は、果たして良いことなのだろうか?
 ――今の浅葱には、解らなかった。
「愚かだと思われますか」
「ううん……賽貴。だって、私だって……」
 浅葱はそこで口を噤んだ。
 今、ここにいる自分は浅ましい感情を優先している。陰陽師という立場を遠くに押しのけて、目の前の男の事だけを考えてしまっている。
 だがこれは、長引かせてはいけないのだ。
「……今、この時間だけの我侭を言わせて。私の傍に居てほしい」
「出来れば、その願いを永遠のものにして頂きたいですね、浅葱さま」
 浅葱の言葉に、賽貴は満足そうな表情をしてそういった。もちろん、彼の心中も穏やかではない。それでも、今だけは――この時間だけは、と思わずにはいられないのだ。
 手に手を取り、軽く握り合う。そして感じた温もりを記憶に刻み込んでいく。
 そんな事を暫く続けたあと、浅葱も賽貴もそれぞれに、一度強く瞳を閉じて、それを開いた後にはしっかりとした表情を作り上げていた。

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