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第五夜九話(終)

 浅葱がヒトでは無くなってから、体の変化というものが少しだけ変わった。まずは、朔の影響を受けなくなった。つまりは、『少女』としての変容が無くなってしまった。
 それから、ヒトであった頃に培った霊力が、やはり極端に減った。かつては都一と謳われた浅葱は、その名実の格を落とす事となった。
 だがそれでも、浅葱は『陰陽師』であり続けた。本家の当主の力添えもあり、依頼は減るどころか逆に増えている。
 ――妖しの光をもつ陰陽師。
 いつしか彼は、そう呼ばれるようになっていく。
 霊力が減った代わりに、それを補うようにして体を満たしたものは妖力であったが、浅葱はそれを上手く転用して陰陽術へと変化させていた。力を使うたび、どうしても紫を帯びた光を放出してしまう為に、印象としては悪しきモノと捉えられてしまうことが多かったが、それでも浅葱は都人に尽くし続けたのだ。
 瞳の色は、やはり碧色から戻らないままであったが、依頼ごとに朔羅が術を施し、その色を誤魔化してくれていた。
 母の桜姫(おうき)はその事実に僅かに悲しんでいたようだが、それでも浅葱には何も言ってはこなかった。厳しいだけだった母は、いつからか優しく我が子を見守る存在となっていたのだ。そして父の蒼唯(あおい)は、やはり少しだけ複雑な心境であったようだ。自分と同じ妖気を纏わせる浅葱を、哀れと感じたのかもしれない。だが、父もやはり浅葱には何も言わず、変わらぬ笑顔で接してくれた。
 親であり子であることには、変わりはない。それが二人の答えでもあった。
 ヒトと同じ時間を生きれなくなってしまった浅葱は、これから先、いくつもの命を見送っていくだろう。不変となってしまった自身の体を、いつかは悔やむかもしれない。それでも彼は、微塵も憂いてはいなかった。
 諷貴の子を身ごもっていた紅炎は、無事に赤子を出産した。黒髪に赤目の、健やかな女子(おなご)であった。
 縁戚になる琳と藍は、その赤子の髪の色を気にかけていた。もし双子であった場合は、片方に必ず銀の子が生まれてくる。そうなれば、母子ともに不幸になってしまうだけだと思っていた。だがそれは、杞憂となった。
「諷火(ふうか)は、どちらの姿に寄るのかな」
「生まれた直後は、炎狼の気が強かったようですが……どうなるのかは、私にもわかりません」
 眠る赤子をのぞき込みながらそう言う浅葱に、紅炎は静かな言葉を返してきた。
 事の顛末を見届けることが出来ず、悔やんだり悲しんだりもしていたようだが、今はとても穏やかな表情をしている。気持ち的にも、落ち着いているのだろう。
 子の名前は父である諷貴から一字をもらった。紅炎自身がそう決めたようだ。
 そして浅葱も、その響きをとても褒めて、受け入れた。
「……大丈夫。この子はきっと、美しくて立派な娘になるよ」
 浅葱はそう言いながら、小さな赤子の頭をそっと撫でた。
 紅炎はそんな主の姿を間近で見て、最近一段と、大人びた表情をするようになったと感じていた。
「浅葱どの、お疲れでは無いですか?」
「ああ、うん。大丈夫だよ」
 紅炎からの、思わずの問いかけだった。それでも浅葱は、何も疑わずに笑顔で返事をする。
「……私だけが良くして頂けているようで、少々気が引けます」
「そこは、気にしなくていいよ。諷火がもう少し育つまでは、あなたには『母』であってほしい」
「浅葱どの……ご無理だけは、どうか」
「うん。心配かけてごめんね。ありがとう」
 浅葱はそういうと、ゆっくり立ち上がった。紅炎は赤子を抱いているので、そのままでと合図を送り、室を出る。
「そろそろ乳母(めのと)に預けて、あなたも少し休みなさい」
 主としての言葉が、遠くに聞こえた。
 浅葱の姿は、いつもどこか緊張したままのように見えるのだ。
 だが、紅炎は何も言える立場になかった。
 それが、少しだけもどかしい。それでも彼女は、母でなくてはならないのだ。愛する我が子のために。
「紅炎さん、小姫さまをこちらに」
「……ああ、ありがとう。では私も、浅葱どのの言う通り、少しだけ休ませてもらおう……」
 几帳が風によりゆらり、と揺れた。
 そして浅葱と入れ替わるようにして姿を見せた一人の女房に声を掛けられ、彼女へと娘を預ける。
 紅炎には、浅葱の計らいで乳母がつけられている。生まれた娘も『姫』と呼ばれ、大切にされていた。過分な配慮と紅炎自身が思い、遠慮もしたのだが、結局は押し切られてしまっている。それに伴い計らずも娘には乳兄弟が出来ることにもなり、縁も結ばれていく。
 紅炎はそれを静かに噛みしめ、用意された床へと姿を消した。
「浅葱さん」
 庭を眺めつつ渡殿を歩いていた浅葱に声をかけたのは、朔羅だった。
「屋敷内の見回りを主自らやるのは大変結構だけど、時間切れだよ。部屋に戻ってね」
「でも……母上の様子も気になるし」
「紅炎の今までを見てきて、分かってるでしょ? 僕たちに出来ることは少ないんだから、素直に頷いてよ」
 朔羅はそう言いながら、浅葱の返事を待たずに彼の肩を抱いた。そして半ば強引に、浅葱の自室へと導く。
 夜に依頼があり、殆ど眠っていなかった浅葱の体を気にかけているのだ。
 ちなみに浅葱の母は、驚いたことに現在懐妊中であった。
 それが判明したのは、一月前ほどであったか。体調を崩し寝込む日々が続いていたところに、白雪が判断した故の事だ。悪阻が酷いらしく、あまり面会もままらない日が続いている。
「……弟かな、妹かな」
「浅葱さんはどっちが良いって思ってる?」
「どちらでも、嬉しいよ。諷火ときょうだいみたいに育ってくれたらいいなって思ってる」
 そんな会話をしつつ、浅葱は自室へと戻り、几帳の向こうにある帳台へと進まされた。その間にも、付き女房たちが言葉無しに御簾と格子をおろし、主の休息を他の家人たちに知らせる。
「……明るいうちに眠れというのは酷かもしれないけど、今晩だってきっと依頼が来るだろうからね」
「うん、そうだね……」
「さぁ、おやすみ」
 帳台の中に押し込むようにして、主をその場に収めた朔羅は、手前の帷(とばり)をゆっくりと下ろして、優しくそう告げた。
「…………」
 浅葱のそばに、賽貴の姿は無いままだ。
 それ故に、浅葱の側近の役を、朔羅が担っている。
 浅葱は、泣き言一つ漏らすことはなかった。
 朔羅と二人きりの時であっても、それは変わらない。
 強がっているわけではなく、享受した末の姿なのだろうと朔羅は思っていた。
 それは、誇らしくもあり、そして悲しくもある。
「……昔から、あなたは我慢する子だったね」
 浅葱には届かないように声を小さく絞りながら、朔羅は呟いた。
 物心つく頃には厳しい母について、陰陽師の空気を全身に受けていた。
 それ故に、妖を見ても怖いと言ったことも無かったし、定められた立場を拒絶したこともなかった。
 模範のような『出来た子供』。
 その中に見つけた唯一の存在が、賽貴だ。
 浅葱が初めて自分の意志で欲しいと言った。
 小さな指先が、行き先の見えない賽貴へと向いた時、その隣りにいた朔羅はとてつもなく感情を掻き乱された。悪い側ではなく、それは『感動』であった。
 その感動を、朔羅は崩されたくはなかった。永い時の中、あれほどまで心を動かされた光景は無かった。だからこそ、守りたかった。
 彼が頑なまでに浅葱と賽貴が離れることを反対していたのは、こういった経緯ゆえなのだ。
「僕の勝手な、理想の押し付けだけどね……」
 そんな独り言を再び漏らしつつ、朔羅は浅葱の室内の角に歩みを進め、そこで腰をおろした。
 賽貴がいたころ、彼が同じようにして浅葱に仕えていた。それをなぞるに過ぎないが、朔羅もそのようにして過ごしている。
 『彼』が戻るまでは、朔羅はその姿勢をずっと変えないままであった。



 そこからまた、少しの時間が流れた。
「……あ、あれ……なんだか、今日はうまく髪を纏められない……」
 そう言いながら、自分の髪を鏡の前で弄っているのは藍であった。
 いつもは簡単にまとまるはずのそれが、なぜか今日は上手く出来ないらしい。
「位置がいつもより下、だからでは無いのか」
「え、そう……かな? うーん……あ、本当だ、出来た。ええと、組紐は……あれ?」
 右耳の僅かに上の位置で丸く纏めて、一房を出す。それを仮止めしたあと、いつもの赤い紐でくくるのだが、その紐が見当たらなかった。
「紐は、同じものでは無くてはならないのか? 琳と同じものを使っていたようだが」
「あ、うん……でも、いい加減古くなってたからちょっと新調しようかなって……」
 藍の言葉に答えを返してきていた一人の影が、ゆっくりと藍の神に手を伸ばしてきた。そして彼女の続きの言葉遮るようにして、紐を結ぶ。ちりん、と小さな鈴の音がした。見る限りでは、藍が使っていた以前の紐と、形状は同じであった。
「……颯悦さん、これ」
「新しく用意した。琳へも、同じものを」
「そ、そうなんだ……えっと、……その、ありがと……」
 藍が顔を真っ赤にしてそう言った。
 隣にいるのは颯悦で、彼と藍の距離は随分と近いものになっているようだ。
 言葉も行動もあまり多くはない。
 それでも今の『贈り物』は予想外であり、藍はそれがとても嬉しかった。
「ねぇ、颯悦さん」
「なんだ?」
「あたしの色、見つけてくれた?」
「……そうだな、お前は時折その色を変えるところが不思議だ。今の私が感じているのは、花葉色だな」
 藍が彼により掛かると、それを小さな笑みで受け止めつつ、彼女の『色』を語る颯悦。彼の目には光が灯らないままだが、何も困らない。
 見えないものは補える。空気や匂いや気配、そして藍の存在そのものがいる限りは。
「午後からね、諷火と一緒に市を見に行くよ」
「そうか。彼女も好奇心旺盛に育っているようだな。私は、若君のお世話をさせて頂く」
「まだほんとにお小さいのに、全然泣かないね若君は。我慢強いのは良いところだけど、変なとこ浅葱と似てて、ちょっと可哀想だよ」
 若君とは、浅葱の弟のことであった。
 二歳になったばかりだが、藍の言う通り我慢強く、あまり泣くことのない子であった。やはり母が厳しく育てているのもあり、それゆえの藍の言葉でもあった。
「……だがそれでも、兄君も父君も甘くていらっしゃる。それくらいで丁度いいのかもしれん」
「そうだよね……あたしもついつい甘やかしちゃうし……可愛いよねぇ、若君」
 藍がそう言うと、颯悦も同意するようにして頷いた。浅葱には厳しかった彼も、どうやらその弟には甘いようだ。
「ところで、お前の兄の気配を感じぬが」
「――あぁ、うん。琳は今、『あっち』にいるよ。賽貴さま、やっと帰ってこられそうだから」
「そうか、ようやくか……。仕方の無いこととはいえ、長かったな」
 颯悦の言葉が、しみじみと響いた。
 皆がそれぞれ、出来る限りで浅葱を支えてきた。特に藍は『友』として、以前以上に浅葱といる時間を増やして過ごしてきた。
 浅葱はやはり、殆ど弱音を吐くこと無く、ただひたすらに生きて、一人の存在を待ち続けている。
「幻妖界のほうも、変わりつつあるようだな」
「……そうみたい。浅葱が関わったのと、諷貴さまのおかげでもあるんだと思う。昊の色なんかもね、最近は青い時もあるんだよ。こっちの世界みたいに」
「永遠に相容れぬと思っていたものが、目に見えて変化するというのは……良いものだな」
「うん」
 王帝が全回復するのには、随分の時間を要した。浅葱と面談した時の無理が影響していたのか、あの後彼は昏睡状態に陥っていたのだ。
 息子である賽貴は、父の代わりを淡々とこなした。嫌がっていた割によく動く姿は、『次期王帝』という立ち位置を広く知らしめることになり、それが賽貴自身の悩みの種になってしまったのだが、これもまた仕方のない流れであった。
 だがそれでも、王帝と賽貴は出来る限りで自分の世界を変えていった。
 人間と妖の『相互不干渉』を掘り下げ、妄りに互いの世界に入り込む者には厳罰を。それ以外は互いの使者を通して訪問の許可を得る事など、様々な取り決めを行った。
 使者として、賽貴の配下である鴉も、目立たないながらも実によく働いた。その為に、浅葱とも彼とよく顔を合わせる事となり、気づけば談話などもする仲になっていた。
 それから、天猫族としての長年の悩みであった双子の病も、僅かではあるが良い方向へと兆しが見えているらしい。白雪の助力もあり、王帝の指示の下、新しい薬や治療法が編み出されているのだ。将来的には、『王の補填』たる銀の子自体を生み出すことが無くなる方法を、探す方向だ。
「さて、あたしはもう行くね。きっと諷火も待ってるだろうから」
「そうだな。私も若君のところへ行くとしよう」
 藍はそう告げると、元気に立ち上がった。そして笑顔でその場を離れていく。見送る側となった颯悦も、彼女の足音が遠のいていくのを感じてから腰を上げて、踵を返すのだった。
 浅葱を取り巻く世界も、あちらと同じように少しずつ良い方向へと変化している。
 そうやって、月日が過ぎ去っていくのを実感していくのだ。

「――では、『道』を繋ぎます」
 美しい衵扇を開き、しっかりとした口調でそう言うのは、門の番人を変わらずに務める白雪だ。
 彼女の背後には一つの鳥居があり、それを潜れば人間界と幻妖界を繋ぐ道がある。
「潜れば、そなたであっても当分は戻れませぬ。宜しいか?」
「――ああ、俺は元々、浅葱さまの一の式神だ。それはこれからも、変わりはない」
「うむ、良いお返事だの。妾も安心ぞ」
「あなたにも、随分と世話になった。負担をかけてしまい、すまない」
「良いのだ。妾は妾の好きなように動いた。そして浅葱どのも、それを許してくださった。だから妾も、これからも変わらぬ四の式神としてあの方にお仕えするつもりじゃ」
 白雪は楽しそうに微笑んでいた。元々の美しい風貌がより一層美麗に輝き、賽貴はそれに目を細めた。
「……浅葱さまは、変わらずにおられたか」
「それは、そなたが何より解っておるのだろう」
「そうだな」
「さぁ、行かれませ。主は今か今かと心待ちにしておられる」
 白雪はそう言った直後、扇を仰いだ。ふわ、とゆるい風が生まれる中、賽貴はそれに導かれるようにして一歩を進む。
 視界は光に包まれ、懐かしい空気が全身を覆った。

「賽貴!」

 聞き間違えることのない声音を、耳にする。
 数回の瞬きのあと、視界に飛び込んできた影に、賽貴は表情を歪ませた。
「――浅葱さま。遅くなりまして申し訳ございません。ただいま戻りました」
「うん……おかえり、おかえり賽貴……!」
 浅葱は迷わず賽貴の腕の中に飛び込んだ。そして賽貴も、そんな主を受け止めて抱きしめる。
 浅葱はこの時、久しぶりに皆の前で泣いた。
 周りの式神たちは、その光景に安堵し、それぞれに満足そうな表情を浮かべる。
「さて、これで元通りだね」
 そう言う朔羅に、皆が頷く。
 個々の立場は、それぞれが小さく変わった。だがそれでも、一人と五体、双子の兄妹の立ち位置は変わらない。浅葱が浅葱である限りは、ずっと。

「――浅葱さま、依頼のご使者が参っております」
「分かりました。お通しして下さい」

 陰陽師・浅葱としての日常が、ゆっくりと繰り返されようとしていた。

 終

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