夢月夜

第一夜(一)


 麗らかな春の昼下がり。
 都のはずれ、九条邸の当主である賀茂浅葱(かものあさぎ)は一人の式神を傍に置いたままで、黙々と文机に向かって筆を持っていた。
 手元を見れば、霊符を作り足しているようだ。
 齢十四の幼き陰陽師・浅葱は、その実力から都一と謳われる存在である。
「浅葱さま、今のうちに少しでもお休みください」
「……うん、もうちょっとだけ。昨日消費しちゃった枚数だけでも戻しておかないとね」
 側近も兼ねている黒髪の式神が、主を心配して静かに声をかけたが浅葱はその言葉をやんわりと跳ね返し、作業を続ける。
 陰陽師と言う職柄は、不安定な時間を作り上げることが多い。夜になればほぼ毎日、都を徘徊する妖(あやかし)と呼ばれる物の怪を鎮めに出向かなくてはならない。戦闘になることも珍しいことではなく、それが長引けば当然のごとく彼らの休まる時間は削り取られていく。
 ここにいる浅葱も例に漏れず、昨夜は殆ど眠ることが出来なかった。
 不眠不休を続けさせるわけにもいかず、式神などが先ほどから休めと言っているのだが浅葱は一向に首を縦には振ろうとはしないのだ。
「…………」
 黒髪の式神は、浅葱の背中を見つめながら静かにため息を吐いた。
 名を賽貴(さいき)というこの式神、人の姿をしてはいるが元は陰陽師にとっては敵に当たる妖であった。浅葱に仕える式神達は皆、元は妖という変わり者だかりだ。
 意見が合った、感銘を受けた――理由は各自様々ではあるが皆、歴代の賀茂家の陰陽師に惹かれているという点では共通している部分がある。
 手を差し伸べてくれたからこそ、彼らはそれに応えるべく陰陽師に――浅葱に従う。
 周りに奇特だと言われ様とも、浅葱はその信念を変える事はせずにいた。自分が尊敬する祖父の意思を継いでいるからこその行動である。
「よし、あと一枚……!」
 暫くの沈黙が続いたあと、浅葱が再び口を開いた。
 そして、次の瞬間。
「……わっ……!」
 浅葱の対屋を吹き抜けたのは、一陣の春風。
 くるり、と円を描いたかのようにその身を躍らせる風は、浅葱の手元にあった符の束を半分以上抱き込み、舞い上がる。
「え、ちょっ……待って!!」
「浅葱さま!」
 浅葱は風の先を追いながら、右手にしていた筆を放り投げて立ち上がる。
 制止の声を掛けた賽貴の声は、彼の耳には届いていないのであろう。
 そのまま脇目も振らず走り出した主を、賽貴はため息混じりに追いかけ始めた。
「…………」
「――風が悪戯に乱れておるの」
 西に位置する対屋では、二人の男女が『主』の変化に動きを止める。
 僅かな風の乱れに最初に気がついたのは、鶯色の髪を持つ狩衣姿の青年のほうであった。茶色の瞳には光が宿っていない分、聴覚が他の者より優れているのだ。それには生まれ持っての能力も含まれて入るのだが。
 そして、その青年に静かに声を掛けたのは雪のように白い肌、そして蒼白色の髪と瞳を持つ小袿姿の美しい女性だ。
「季節による偏風であったとしても……浅葱さまを惑わすとは」
 青年は独り言のようにそう言った。そして様子を伺うべくゆっくりと立ち上がる。
 と、同時に。
 庭先から聞こえてきたのは、派手な水音(みなおと)だった。
「――――」
 否応無く訪れる沈黙。
 青年も美女も、言葉無くお互いに溜息を吐く。
「どうやら……妾(わらわ)も出向かなくてはならぬようだの」
 そう言いながら、優美な仕草で立ち上がる美女は青年の隣に歩みを進め、庭先へと視線をやった。
 青年の名を颯悦(そうえつ)。美女の名は白雪(しらゆき)。
 二人とも浅葱を主とする、式神である。
 その、二人の視線の先にあるものは――。
 風に巻かれた符を追いかけ廊を抜け、足場を失い無様にも池に飛び込む形となってしまった主の姿があった。
「……あぅ……また、やっちゃった……」
 池の中、体の半分以上を水に浸したままの当の本人、浅葱は罰の悪そうに独り言を漏らす。
 そしてその背後には、なんとも言い難い表情をした賽貴の姿があった。
 そんな間の抜けた主人と、付き人の行動を全て見ていた者がいる。
 『毎度』のこととはいえ、ああも見事に同じような行動を繰り返されるともう、笑うしかない。
 浅葱は頭上に降ってくるそんな控えめな笑い声に、頬を赤らめながら瞳をめぐらせた。
「朔羅(さくら)……」
「……災難だったね、浅葱さん。早く池(そこ)から上がらないと風邪を引いてしまうよ?」
 まるでその場が特等席、と言わんばかりに木の上に腰掛けながら浅葱に声を掛けるのは朔羅という青年だ。
 中性的なその姿は、見るものを惑わせる魅力がある。優しさを湛えた水色の瞳と、柔らかそうな薄茶色の短い髪が印象的だ。
 言わずもがなだが、彼もまた、浅葱の式神という立場にいる。
「お手を、浅葱さま」
 いつまでたっても自分で立ち上がろうとしない浅葱へと、賽貴が静かに手を差し伸べた。
「……あ、はい…っ」
 すると浅葱は慌てて立ち上がり、彼の手を取る。
 賽貴の手を借りたまま、池から上がる主の姿を確認してから、今度は颯悦が言葉無く手を差し出した。
 すると、ばら撒かれた状態になってしまった数十枚の符が、ふわりと宙に浮く。
 すぅ、と自分のほうへと手を引くと、宙に浮いた符は颯悦に従うように身を寄せ始めた。彼は風を操る能力を持ち合わせているらしい。
「符が……っ」
「ご安心を。颯悦が風を操っているだけですから」
 浅葱が札の動きを目で追い始めると、それを断ち切るかのように賽貴は彼を抱きとめる。びしょ濡れになってしまった浅葱を心配しているのだろう。
 すっぽりと賽貴の腕の中に納まる形となってしまった浅葱は、再び頬を紅潮させながら、符が流れていく方向へと瞳をめぐらせる。
 するとその先には賽貴の言ったとおりに、符を集めている颯悦の姿があった。
 彼の隣にいる白雪の視線が、心なしか痛いと感じるのは気のせいではないのだろう。
 白雪には『己の行動に責任を持て』と、常日頃から言われ続けているからだ。
 気を取られるたびに目先が見えなくなり、余計な行動を起こしてしまう自分の性格に、浅葱は深い溜息を吐いた。
「……ご気分でも?」
「ううん、違う。ちょっと……自分が嫌になってるだけ」
 濡れた着物を換えるべく、賽貴に手を引かれながら階に足を掛ける浅葱は、かっくりと頭を垂れながらそう応えた。
 ――直後。
 バタバタと目先の廊から足音が響いてきたかと思えば。
 浅葱はその足音から、こちらへと向かってくる人物の気配を読み取り、思わず賽貴の後ろへと身を隠した。所謂(いわゆる)、条件反射というものだろう。その態度だけで、今回のような失敗が度々繰り返されてきたと言うことが良く解る。
「浅葱」
 毅然とした態度で姿を表した足音の主は、一人の女だった。
 浅葱の様子を目に留めたとたん、彼女の柳眉は跳ね上がる。
「……母の言わんとしている事は、熟知しているでしょうね?」
 静かな怒りを湛えた言葉。
 チクチクと突き刺さるその言葉に、浅葱は応えられずにいる。
 名を桜姫(おうき)というこの女は、浅葱の実の母親にあたり、そして――先代の陰陽師であった。浅葱と同じ髪色と、同じ黒い瞳を持つのが何よりの親子の証と言える。
「答えなさい、あさ――」
「風邪を召されると、困ります」
 一歩踏み出し、浅葱の返答を求めにくる桜姫に割り込んだのは、賽貴だった。
 揺らぎのない金色の瞳で真っ直ぐに、彼女を見据える賽貴。それは、自分の主を誰よりも大切に思っているからこその、行動である。相手が浅葱の母親であろうとも、彼の行動は変わらない。
「…………」
 桜姫の周りの空気が賽貴の態度一つで、一瞬にして変わった。
 怒りの瞳は憎悪へと変わり、冷たい表情は現役の頃の厳しさを彷彿とさせるほどだ。
「……同じ事を繰り返すのは、愚か者のすることですよ」
 僅かの間の後、桜姫は静かにそう告げた。賽貴にではなく、浅葱に対してだ。彼女は、『賽貴』という存在を認めてはない。
 それだけを言い捨てると、彼女は身を翻しその場を去っていく。
 浅葱はそんな母の後姿を見ながら、言葉を失ったままでいた。
 自分が叱咤されるより、賽貴に対する母の態度が――何より悲しいからだ。
 いつまで経っても賽貴を理解してくれぬ母。それを感じ取るたびに、心が軋みそうだった。
 何故、母が賽貴をそれほどまで忌み嫌うのかは、理由を聞かされてはいない。誰に聞いても、浅葱に真実を告げてくれる人がいないのだ。
 憎むべき対象。だが、その事実は屈折している。桜姫もまた、真実を目の当たりにしているわけではなく、彼女の母親が告げた言葉が全てだった。
 そんな――『悲劇』の真実を知るのは賽貴と朔羅のみだ。
「母上……」
 賽貴の着物をきゅう、と握り締めながら浅葱がぽつりと母を呼ぶ。だがその声は、桜姫には届かない。
「浅葱さま、白雪が着替えを用意してくれています。室へ戻りましょう」
「……うん」
 俯いたままでいる浅葱に、賽貴がそっと背中を押しながらそう言った。
 見上げれば、賽貴は淡く微笑んでくれている。浅葱はそんな彼の優しさに感謝しながら、自分も微笑を返して頷いた。



 部屋に戻ると、着替えを手にした白雪が実に『良い笑顔』で浅葱を出迎えた。
 そして小一時間ほど、氷の微笑と共に説教をとくと聞かせ彼女は部屋を後にしていく。
 白雪がこのように微笑を浮かべる時は、用心しなくてはならないのだ。その後に待ち受ける『お叱り』には誰も逆らうことが出来ないのだから。
 妖の立場においても式神の立場においても、白雪は一番の長寿なために、誰からも一目置かれる存在であった。彼女がどれ程の時を生きてきたかは、誰も知るよしもない。
「……うう、やっと開放された」
 かっくり、と頭を垂れながら浅葱は深い溜息を吐いた。
 未だに乾ききっていない髪の毛が、ひやりと首筋を撫でる。
「浅葱さま、僅かな時間だけでもお休みになりますか」
「うん……ちょっと、体が重いや……」
 常に浅葱の傍にいる賽貴は、白雪の気配が完全に消えてから静かに膝を進め目の前で項垂れている主に声を掛けた。
 脇息にもたれたままで返事をする浅葱は、どことなく気力が落ちているように見て取れる。
「…………」
「浅葱さま?」
 ちらり、と賽貴に視線を移した浅葱が、そこで考え込むようにして眉根を寄せた。
「――ああ、そっか……今日は朔(さく)だっけ。だから重いんだ」
 独り言のようにそう言う浅葱。
 深い溜息と共に並べられら言葉に、賽貴は困ったように笑うのみだ。
「ついてないな……符も補給しなおししなくちゃいけないのに」
 毎月のこととは言え、浅葱にとっては苦痛極まりない、『朔』。あの『痛み』に慣れる日はいつ訪れるのだろうか。
 ――月が空に昇らない夜。要するには新月のことなのだが、浅葱にとってはその新月が物忌みと言ってしまっても過言ではない。
 賽貴が浅葱付きの女房に目配せで床の用意をするようにと合図すると、控えていた女房は深々と頭を下げて立ち上がる。
 その彼女と入れ替わりのように、姿を見せる者があった。
「ただいま戻りました」
 几帳の手前、浅葱がいる場より畳一枚分下がったところで、頭を下げる蔦色の髪を持つ女性。
「……ああ、おかえりなさい。どうだった? 京の様子は」
 手招きしながら、浅葱はその女性を傍にまで呼びそして声をかける。
 都人らしからぬ真紅の露出の目立つ着物に、黒い帯。髪を首の後ろで一纏めにしたその女性は浅葱の五体いる最後の式神、紅炎(こうえん)だった。
「玄武の方角の結界に、綻びが生じておりました。日を置かずに早期の強化が必要かと思われます」
 紅炎の静かな報告に耳を傾けながら、浅葱は視線を落とす。
 良くないことは重なるものだ、と思いつつ再び溜息を吐いた。
「そう……警戒しておかないと。結界の強化は賽貴に任せます」
「かしこまりました」
 浅葱の傍らで、賽貴は主の言葉に従うかのように頭を下げた。
 侭ならない自分の体。置かれている立場との隔たりに、浅葱は自嘲気味に笑う。
 都一、と謳われる陰陽師。
 賀茂家は代々、『そう』であり続けなくてはならない。
 幼い頃に家人が口にしたその台詞を、浅葱は未だに忘れ去ることが出来ない。
 常に高みに君臨し、崩れてはならない。
 その重圧に、何度押し潰されそうになったことか。
「……紅炎はお疲れ様、自由に休んでね」
「浅葱どの」
 俯きがちにそう紡がれた言葉。どう見ても落ち込んでいる主に、紅炎は眉根を寄せて名を呼ぶ。
「大丈夫だよ」
「ですが……」
 力なく笑いながらそう言う浅葱に、紅炎が膝を進めようとしたその時、賽貴がそれを片手で制して首を振った。
 任せろ、という事なのだろう。
 紅炎はそれを察して、ゆっくりと体勢を戻し頭を下げた。
「それでは、御前失礼いたします」
 主の気持ちが解らないはずはない。だが今の状態の浅葱を支えられるのは、賽貴のみ。
 だから紅炎は、その身を引いたのだ。
 そして彼女は静かにその場を後にする。
「……浅葱さま」
「うん、大丈夫だよ。ちょっと考えすぎただけ」
 紅炎の姿が見えなくなって、浅葱は起こしていた身を再び脇息へと戻した。その背に、賽貴の大きな手のひらが触れる。そしてそのまま、自分へと引き寄せるようにして賽貴は浅葱を腕の中に収めた。
「さ、賽貴……あの、もう少しで変わっちゃうから、その」
「黙って」
 賽貴の行動はいつも読むことが出来ない。
 幾度も彼の腕の中に身を落ち着けることがあるが、それでもこのような展開にはいまだに慣れる事が出来ずにいる。
 隠すこともせずにいる二人の関係。陰陽師と式神、という枠を超えた浅葱と賽貴。
 他の式神たちにも周知の仲となっているために、誰も関係を反対するものはいない。……桜姫を除いては。
「一人で抱え込んではなりません。何か思い悩むことがあれば、いつでもぶつけて下さって良いんですから」
「うん……ありがとう、賽貴」
 賽貴がそう言いながら、浅葱の額に口唇を落とす。
 頬を染めて素直にその行為を受け入れる浅葱。ままごとのような間柄だが、二人はそれでも幸せだった。
 もうすぐ日が落ちる。
 それまでの僅かな間、浅葱は賽貴の腕の中で浅い眠りについた。