夢月夜

第一夜(三)


「……、は……っ」
 子供の足とは思えぬ速度で浅葱の前を走る少年は、見る間に遠ざかっていく。
 浅葱とて力を抜いているわけではない。必死に追いつこうとしているのだが、近づく事が出来ないのだ。
「紅炎、追って……!!」
 走りながら、浅葱は胸元にしまいこんであった紅炎の符を取り出し、それを空に投げつける。すると符は一瞬のうちに炎狼に姿を変え、浅葱の前方を掛けていった。
「はぁ……っ」
 見る間に小さくなっていく式神の姿を見ながら、浅葱はそこで足を止めた。既に息は上がっている。
 肩を揺らし荒い息を吐きながら、月の無い空を軽く睨みつめた。
「しっかりしろ、浅葱……っ」
 震える膝を、どん、と拳で叩き己を叱咤する。
 こんな所で、悠長にしている時間は無いのだ。
 浅葱は深く息を吸い込み、再び駆け出した。――直後。
「……う、わ……っ!?」
 視界ががくん、と揺れ、襟首から体が後方へと引っ張られる。否応なしに、浅葱はその場で尻餅をついてしまった。
「見ていられなくて、出てきちゃったよ。浅葱さん」
「朔羅……?」
 声の主は朔羅のものだった。肩越しに振り向こうとしたが、再び浅葱の視界が揺れる。
「!?」
 あっと言う間に、彼女の体は白い毛並みの上へと移動させられた。
「僕が紅炎の後を追う。だから浅葱さんはその間に少しでも休むんだ。辿り着いた時には疲れ果てて体が動かないじゃ、話にならないからね」
「ご、ごめん……ありがとう」
 浅葱が乗った白銀の毛並みの正体は、朔羅の本来の姿である白狐だった。浅葱の式神たちは己の意思で符から出てくることも可能なのだ。それは浅葱の優しさから来る、式神たちへの配慮であった。
 手にした毛皮をきゅ、とつかんだ浅葱は、駆け出す朔羅に小さく謝罪する。
 目に映るのは、流れる景色。紅炎の背の上にいる時の映像と大差ない。それらを横目にしながら、浅葱は若君の状態を思い出していた。
「……若君は、妖に体を乗っ取られていた。昨夜からか、衰弱されていたところを狙われたのかは判りかねるけど……」
「見てたよ、厄介な相手だね」
「………………」
 小さな溜息と共に、朔羅がそう言う。
 短いながらも、その言葉には深い意味があった。浅葱も気が付いていたが、認めたくない気持ちが勝り押し黙る。
 そうこうしているうちに、浅葱を乗せた朔羅は都の外れまでやってきた。そこで足を止め、主を降ろして自分も人を型どる。
 辺りは異様な静けさに包まれていた。先にたどり着いているはずの紅炎の姿はそこには見受けられない。
「……近い」
 浅葱が右手に符を携えそう言うと、朔羅が言葉なく狐火を生み出し前方を照らしてやる。
 じわりじわりと歩みを進める浅葱。するとその先から突如、気の高まりを感じ、身構えた。
「!!」
 僅かな間の後に訪れたものは、衝撃波のようなものだった。
 そして爆風に飲まれるようにして、浅葱の横を通り過ぎていった存在がある。
「――紅炎!!」
 衝撃波に吹き飛ばされたのであろう、紅炎は身構えの姿のままで地面へと叩きつけられた。
 浅葱が慌てて、彼女の元へと駆け寄る。
「……、くっ……」
 己の力で起き上がろうとするが、それは敵わない。浅葱が紅炎の背を支えながら、仰向けに寝かせると目に付いたのは腹部の裂傷だった。真紅の着物を見る間に染め上げていく鮮血が、傷の深さを物語っている。
「紅炎、しっかり!」
「だい、じょうぶ……です。この程度の傷……治すのにそう時間は、かかりません」
 主に向かい、紅炎は務めて明るい声音で言葉を紡ぐ。だが、笑みを作ろうとした次の瞬間には、口から血を吐いていた。傷が臓腑にまで達している証拠だ。
「やられたね。紅炎がこれほどまでの傷を負うなんて……」
 紅炎の傷を確認しながら、朔羅は小さくそう言った。
 その傍らで、浅葱が怒りに肩を震わせる。
「ゆるせ、ない」
 紅炎に治癒の符を手渡しつつ、彼女はゆっくりと立ち上がった。
「浅葱さん、ここは僕が――」
 朔羅のそんな言葉を遮る形で、浅葱は地面を蹴る。
 主の行動に僅かに遅れた朔羅と紅炎が、顔色を変えた。
「浅葱さん、だめだ!」
「いけません、浅葱どの!」
 二人の声が重なったと同時に、朔羅が主の後を追った。紅炎もボロボロの身体を引き摺りながら、その後を追う。
 今の、本来の能力が落ちている浅葱にとっては、危険すぎる相手だ。朔羅と紅炎はそれを確信している為に焦りを見せているのだ。
 もちろんそれは、浅葱自身も解りきっているはずなのだが。
 先に進む浅葱は、音もなく闇の奥から現れた『若君』と対峙していた。
「……若君を、返してくれないか」
 極力抑えた声音で、彼女は口を開く。
 すると言葉を受け止めた『若君』が浅く嗤った。
「返す……何を、返すと? 若君は俺だ。……いや、『僕』が、と言うべきかな」
「ちがう! その身体はあなたの物じゃない! 大人しく若君から離れるんだ!」
 激昂する浅葱に対して、若君は目を細めて楽しそうにニタリ、と嗤うのみだった。もうそこには、本来持つべく幼さなどはどこにも感じられない。
「無駄だよ浅葱さん。……解ってると思うけど、姿を喰われた時点であの子はもう……亡くなっている」
 そう言いながら浅葱の背後に現れたのは朔羅。彼女の背中を守るようにして肩に手を寄せて、眉根を寄せている。
「それじゃダメだよ。若君を傷つけるわけにはいかない……っ」
「どちらにしても、もう助かりません」
 朔羅に対してぶつけた言葉に応えるようにして、続けたのは紅炎だった。腹部を手のひらで押さえながら、それでも彼女は気丈に己の力のみでその場に立っている。
「……ククッ、こんな姿だから攻撃できないと? お前は甘いなぁ、陰陽師。そいつらの言うとおりで、これはただの『器』じゃないか」
「!」
 三人の会話を聞いていた若君が嘲笑しながらそう言うと、浅葱の肩がビクリ、と震えた。
 手を添えていた朔羅にはそれが直に伝わり、僅かに表情を変化させる。本能でよくない状態だと感じたが、それでも彼は主の動きを待った。
 すると浅葱は言葉なく朔羅の手を軽く払い、一歩前に出る。「手を出すな」と言うことなのだろう。
「あなたは、人間界と魔界との契約を知らないのか?」
「契約ぅ?」
 浅葱の言葉に若君は一瞬訝しみながらも、思い出したかのように「ああ」と返事をした。
「相互不干渉のことか?」
「そうだ」
 相互不干渉――。
 それは、この都を治める『帝』と、妖が住まう魔界の『王帝』が取り定めた契約のことを指す。
 人間が魔界の事に干渉しないかわりに、魔界の者も人間に害を与えないというものだった。浅葱が生まれるよりもずっと前に結ばれたものだが、それでも未だにその契約は確かな物だとして伝わっている。
「……知らないなぁ」
「なっ……」
「俺が交わした約束じゃない。……他の連中だってそうだろ? 俺たちは人間よりも横の繋がりが少ない。情が深いわけでもない。だから上が勝手に決めた事にだって従う理由が無いんだよ」
 若君が、浅葱をからかうような口調でそう続けた。
 それを耳にしていた朔羅と紅炎が、言葉なく静かに怒りの感情を育てていく。
「ところで、『君』は都一の陰陽師なんだろ? 『僕』は退屈なんだ、少しは楽しませてくれよ」
 本来の子供の声音でわざとらしく浅葱を煽る若君。
 そんな挑発的な言葉に、戦慄(わなな)く体。ギリ、と僅かに歯軋りを起こすと、それを確認した若君はさらに続けた。
「そいつじゃ相手にならないんでね」
「……っ」
 若君が顎でつい、と示した相手は紅炎だった。
 冷たい瞳に一瞥され、彼女はきつく己の拳を握り締める。
 確かに、手も足も出なかったのは事実だ。だが、相手を傷つけてまで捕らえる気は無かった。その判断が結果的には誤りであり、自分は深手を負った。
 若君に対しての怒りと言うよりは、紅炎は己の過信が招いた結果を悔やんでいるようであった。
「退屈、だって……? そんな理由で、何の罪も無い若君を巻き込んだのか? そして、紅炎をこんな目に……」
「なぜ怒る?」
 食って掛かる浅葱に対して、若君は眉根を寄せた。心外だ、と言わんばかりの表情で首を振る。
「貴様等だって、戯れに小さき物を手に掛けるだろう? それと同じだよ。俺たちにとって人間など、虫けらにしか見えんのだからな」
「……黙れッ!」
 若君の言葉に浅葱は、ついに怒号を飛ばした。
 そして己の怒りに任せて印を組み、彼に向かって攻撃を仕掛ける。
 だがそれは若君にはか弱いモノにしか捉えられず、するり、と簡単に交わされてしまった。
 新月のために本来の十分の一も能力を具現化出来ていない。呪符を使わずに術が発動したこと自体が奇跡にも近い状態だ。
 今の攻撃で多くの精神力を消費してしまったのだろう。浅葱は上がる息を抑えながら、若君を睨み付ける。
「……期待はずれだな。本当に都一の陰陽師なのか? たったこれだけの事で随分と疲れているようだし、力も微々たるものだ。式神のほうがよっぽど強いじゃないか。どうやって仲間に入れたんだ?」
 若君はそう言いながら浅葱に近づいた。
 朔羅と紅炎がそれに反応するが浅葱が『手を出すな』と命を下している以上、手出しが出来ない。音にならない歯軋りは、どちらの物なのだろうか。
 浅葱は近づいてきた若君を捕らえようと手を伸ばすが、それすらも目の前の存在にはゆったりとした動きに映ったようだ。わざとらしくため息を吐きながら、若君は残念だと言いたげな態度を取った。
「都一の陰陽師の力がこんなものなら、お前らの力など畏るるに足らぬモノだな。せっかく楽しく遊べるかと思ったのに……」
 彼はそう言いつつ、軽く手を払う。空圧となったそれは、浅葱の頬を掠めて彼女の皮膚に一筋の傷を生み出した。
「……浅葱さんっ!」
 次の瞬間、朔羅が名を呼んだ。主の身の危険を見ていられなくなったのだろう。その後に彼は地を蹴ったが、その判断は一瞬だけ遅かった。
「楽しませてくれないのなら、お前に用は無い。抵抗することも出来ずに死ねばいいさ」
「あぶない!!」
 同じ言葉が、同時に重なった。
 若君が薄ら笑いをしつつ続けた言葉の後、その右手から妖気が放たれたのだ。
 当然、目の前に居た浅葱が巻き込まれる。
 朔羅と紅炎の叫びに近い声よりも先に、彼女の四肢は妖気により引き裂かれ、痛みを感じる間もなく瞬時に血を噴出した。
「……、っ……!」
 次に襲ってきた激痛に、声も無く倒れこむ浅葱。朔羅が駆け寄り、紅炎が遅れて歩みを進めて、両側から彼女を囲むようにして腰を下ろした。
「浅葱どの! しっかり!」
「浅葱さん!」
 二人の式神の表情には微塵の余裕も見られなかった。とにかく主の体からあふれ出る血を、それぞれの持ち合わせる力で止めぐったりとしたままの浅葱の顔を覗き込む。
 痛みの為なのか、彼女の意識は途切れてしまっている。
「……頼むよ」
 僅かな沈黙の後、浅葱の体を紅炎に預ける形で、朔羅がゆらりと立ち上がった。
「…………?」
 己の勝利を確信しているのか傍観を決め込んでいた若君が、そこで感じた何かに眉根を寄せる。だがそれでも、余裕な態度は変わらずにいた。
「賽貴さんは、こんな時に何をしてるんだ……」
 ぽそり、と生まれる朔羅の呟き。
 浅葱の傍を離れたままの賽貴には、彼なりの役目がある。それを果たすまでは戻ることは出来ない。
 所詮は言っても仕方ないことだとわかりきっているのに、苛立つ気持ちは止められなかった。
 だからもう、朔羅はその『限界』に制御を解く。
「だめだよ浅葱さん……もう、我慢できない」
 そう呟いた彼の双眸は、優しい水色から怪しげな光を放つ金色に変化していた。