夢月夜

第一夜(四)


 弧を描くように空を舞う血が、美しいと思った。
 目の前で人間を手に掛ける瞬間、それが『若君』にとって最も興奮する。
 彼女の返り血を浴びた形となる彼は、傍に居た式神の若干に変化に小首を傾げるも溢れ出る高揚感を止めることが出来なかった。
「いい色だ。もっと見せてくれ」
 そろり、と再びの右腕が上がる。
 醜い笑みを浮かべながら、若君は浅葱のみを見やり、彼女に再び己の気を放とうとする。
 だが。
「!!」
 一瞬にして、全身が震えた。
 一変された空気と、変容。
 それに『ようやく』気づいた若君は、今度は別の意味合いで戦慄する。
「――許さないよ」
 ぽそり、と呟かれたその声音は紅炎でさえ身震いするほどの凍てついたものだった。
 自然な物なのか、それとも彼自身が生み出しているものなのか。朔羅の周囲がじわりじわりと冷たい空気になっていく。
 他人からではあきらかに『異常』と思えるその空気に、紅炎に抱えられている状態の浅葱が身じろいだ。
 意識が浮上したようだ。
「浅葱どの」
「……紅炎? わたし、は……」
「動かれてはなりません」
 僅かに首を動かし様子を伺おうとするも、紅炎が彼女の体を押さえつけて制御する。
 止血は施せても治癒を施したわけではない浅葱の体は、危険な状態には変わりないのだ。
「死にゆく君の願いを、ひとつだけ叶えてあげる。さあ、君はどんな風に死にたい? 君の望むままに殺してあげるよ……」
 金の双眸をまっすぐに若君に向けながらそう言う朔羅の言葉。
 彼の口元には薄い笑みが浮かべられていたが、眼には微塵も笑みを感じられずに、それが一層の恐怖を感じさせる。
「お前……何者だ……?」
 若君の声が、震えていた。元は同じ属であるものですら、異常と思えたのだろう。
「自分の立場がわかっていないようだね。その質問に僕が答えるとでも? どうせ死んでしまうのに……。君は僕を怒らせた。だから僕は君を殺す。理に適っているだろう?」
 饒舌に語る唇。
 その声音を耳にした浅葱が、朔羅を見やる。半ば無理やりに首を動かした為に、肩口の傷から血が再び滲み出した。
 紅炎がそれを目にして、慌てて止血を施す。
「朔羅……だめ……」
「浅葱どの!」
 自分の体の痛みなど忘れているかのような表情で、朔羅にゆっくりと腕を伸ばそうとする浅葱。実際はそれが出来るほどの力は彼女に残ってはいない。裂けた着物から見える白い肌が、小刻みに震えていた。
 朔羅はそんな主の声を背にしつつ、それでも振り向かない。彼は若君だけを見据えて、ゆらりと右手を伸ばした。
 流れるような仕草に見えて、一瞬の動作であったそれは、ひとつの瞬きの後には小さな若君の頭を捕らえている。
「だめだ、朔羅!」
 浅葱が再び朔羅を呼ぶ。
 彼女が制したいのは、『若君』を傷つけること。だがそれ以外に、今の現状を変える手立ては無い。その矛盾を解っていても、どうしても浅葱にとっては避けたいと思える現実だった。
 僅かな間のあと、ふう、と小さなため息が聞こえた。朔羅が口から漏らしたのだ。
「賽貴さんがいたら、きっと同じことをするよ……。説教は、後で聞く」
 僅かに困ったような表情と薄い笑みを浮かべたままで、彼はそう呟いた。
 その言葉の響きは、主の命に反することを意味している。だがそれでも、今は構わないと朔羅は思っていた。
 浅葱が傷つくことを、傷つけられることを式神の誰よりも敏感に厭う彼には、若君の所業を許せずはずも無かった。いつもは賽貴の手前、遠慮はしているがそれも限界だったらしい。
 歪んだ愛情の形は、いつもこんな形で朔羅を暴走させる。
「……馬鹿な……」
 そう漏らすのは、頭を掴まれたままの若君だ。
 いくらもがいてもその右手から逃れることが出来ずに、顔色がどんどん悪くなっていく。
 一気に心に広がる物は、死への恐怖だった。
「これでも僕は慈悲深いほうだと思うよ? だって君に死に方を選ばせてあげてるんだからね」
 にやり、とそう言いながら嗤う朔羅は、残忍そのものだ。
 その狂気を、主である浅葱は知り尽くしている。だが、無力さゆえに彼を止めるすべを知り得ない。悔しさに歪む視界をそのままに、浅葱は紅炎に静かに口を開いた。
「紅炎……朔羅を、とめて……」
 力無い浅葱のそんな言葉に対して、紅炎はゆるく首を振る。
「申し訳ありません、浅葱どの。私には……朔羅は止められません」
 彼女の言葉には、深い意味合いがあった。
 浅葱には決して伝えられないことであるが、紅炎には今の朔羅を止める気が無かったのだ。彼女も、自分の主をここまで傷つけられたことに対して、憤りを感じているということは確かだった。
 次の瞬間、ゆらり、と浅葱たちの傍で空間が歪む。
 それは何者かが移動してきたことを示している。状況からして、西の結界の強化のために姿を消していた賽貴が戻ってきたのだろう。
 徐々に歪みが人の形を造りだし、影が出来る。
「浅葱、さま……?」
 黒髪の影が浅葱の姿を認めて、そんな声音を口から零した。そして完全に姿を現した直後に彼は紅炎へと駆け寄り、彼女が抱く主の体を静かに受け取る。
「……、賽貴さんは……止めないよね」
 ぽそり、と呟かれるのは朔羅のものだ。
 それを耳にした賽貴はその場で状況を判断したのか、言葉無く浅葱の額にそっと手のひらを添えた。
 直後、彼女の意識がすとん、と堕ちる。
 無言の肯定を意味するそれを、目の前で目にした紅炎は静かに瞳を閉じた。
 朔羅はその間にも行動を起こしていた。右手で若君の頭を掴んだまま、彼の胸の辺りに左手を刺すように入れ込み、ゆっくりと『何か』を引き出す。
 それは、『若君』の体を乗っ取っていた妖の本体であった。そして中身を失った若君は、朔羅の右手から逃れて力なく崩れ落ちていく。
「……馬鹿な……ッこんなこと、普通の式神に出来るはずが!」
 醜い小鬼のような姿の妖が、驚愕に満ちた声で叫ぶ。
 朔羅はそんな相手の反応にすら変化を示さず、口元にうっすらと笑みを湛えたままだった。
「助けてくれ……」
 全身を震わせながら、妖が続ける。
 その言葉を受けて、朔羅はうっすらと目を細めて口を開いた。
「それは、叶えられない望みだ。君が選べるのは、死に方だけだと言ったはずだよ」
「もう人間に害を与えないと誓う! ……だから……」
「……なにも望むものは無い、か。残念だね。無欲な君に、安らかな死を……」
 妖の言葉に対してどこまでも静かな口調だった朔羅は、そう続けると左手をぐしゃり、と握り締めた。瞬時、目の前に飛び散るものは鮮血だ。
 断末魔の叫びすら与えられずに、妖は消えた。
「――……はっ」
 歪んだ金色の瞳が、ゆらりと揺れる。直後、朔羅は笑みを音にしてその場で漏らす。
「あははははは……ッ!」
 鈍い血の色で染まった彼の左手。それを自分の顔にあてながら哄笑する朔羅の姿は、異常でありながらも壮絶な美しさがあった。返り血が金の瞳に良く映えて、酷薄な『美』を浮かべている。
 その姿を改めて確認した紅炎ですら、身震いするほどであった。
「!」
 そんな朔羅を『止めた』のは、彼の手を取った賽貴だ。
 それまで哄笑を続けていた彼が、賽貴に右腕を捕まれただけでピタリ、とそれを止めたのだ。
「もう、終わった……」
 静かな言葉が朔羅に投げかけられる。
 すると彼は、まるで憑き物が落ちたかのように大人しくなり、瞳の色も元来の水色へと戻っていく。
 『狂った朔羅』を正気に戻せる人物は、どうやら賽貴のほかにはいないようだ。
「桜姫さんには、報告できないな……」
 はぁ、とため息が零れた後での、そんな言葉。
 そこでようやく、妖との戦いが終わったのだとその場にいる誰もが感じた。意識の無い浅葱ですらも。
「……、助けら……なくて、……ごめ……なさ……」
 地面に横たえられた状態で、浅葱は小さくそう言った。閉じたままの瞳からは、涙が零れ落ちる。
 その雫を自分の人差し指に納めつつ、賽貴が浅葱の体をゆっくりと抱き上げた。そして「遅くなり、申し訳ありませんでした」と告げながら、小さな体を抱きしめる。
 彼は僅かに主の体温を確かめるようにした後、自らの力で浅葱の意識を浮上させた。
 その間に朔羅は返り血を拭い、なるべく浅葱の視界に入らないようにと紅炎の後ろに回っていた。
「…………」
 紅炎の手によって仰向けに寝かされた状態の若君へと、目覚めた浅葱はゆっくりと視線をやる。そして賽貴の腕から自分の力で抜け出し、地にしっかりと足をつけて、立ち上がった。
 冷たくなった小さな体。浅葱が右大臣家に駆けつけた時点ですでに手遅れであった今回の依頼に、彼女は瞳を暗いものにする。
 未来のある子供を守ることが出来なかった。どうにかして助けてあげたかった。
 後悔ばかりが、浅葱の心を締め付ける。
 幾度も経験してきたことであるが、やるせなさや憤りは慣れるものではない。
「――浅葱どの。若君の亡骸を右大臣家に……」
「そうだね……」
 その場から動こうとしなかった浅葱を気遣いつつ紅炎がそう促してやると、彼女はこくりと頷いた。
 そして紅炎が小さな骸を抱きかかえ、一向は足取り重く依頼主である右大臣家へと戻った。

「若君は妖に取り憑かれてました。おそらく昨夜から、もう……」
 ひたすらに平伏したままで、浅葱は若君の母である女性にそう継げた。
 右大臣家に戻るや否や、『陰陽師浅葱』を出迎えた言葉は激励のそれではなく、数々の罵倒と悪口雑言であった。
 決して理解される仕事ではない。
 解りきっていることだが、それでもその現場に居合わせると辛さばかりが募る。
「力及ばず、申し訳ございません」
 それだけを言い切りもう一度深々と頭を下げて、浅葱は右大臣家を後にした。
 その隣に支えるものは居ない。いつも傍に付き添う賽貴を初めとした式神はこうした場には本来出られないので、皆それぞれに札に納まっているのだ。
 主の切なる気持ちを、感じ取りながら。
 東門を潜り、浅葱がゆっくりと顔を上げれば空が白んでいた。もう夜は明けている。
 そして彼女は質素な牛車に乗り込み、自分の屋敷へと戻るのだった。


「そこをお退きなさい、颯悦」
 浅葱が屋敷に戻るなり、彼女の室である西の対へと足を向けたのは、浅葱の母親である桜姫(おうき)であった。
 その彼女を阻むのは、浅葱の室の入り口である妻戸の前で座する颯悦だ。
 主の母君である存在にすら、彼は凛とした自分の態度を変えることはない。そして僅かな間を作った後、無駄の無い所作で頭を下げて、口を開く。
「申し訳ございませんが、お通しするわけには参りません。どうかお戻りを」
 よく通る声音に、桜姫は柳眉を逆立てた。そして彼女が何かを訴えようと唇を開いた直後、背後から戒める声音がかかる。
「桜姫、やめなさい」
「蒼唯さま、しかし……」
 桜姫に制止の声をかけたその人物は、穏やかな容姿を持つ金糸の髪の男性。浅葱の父である蒼唯(あおい)であった。
 普段は容姿どおりの優しい彼であるが、今日は僅かに厳しい表情をしている。それは己の子の心情と、そして妻の心情を両方感じ得ているものがあるためなのだろう。
「今日は、そっとしておいてあげなさい。……あなたにも、同じような記憶があるだろう?」
 蒼唯にそこまで言われて、桜姫は自分の気持ちを静める努力をした。
 解らないわけではないのだ。浅葱が今抱えているその思いを。親であるからこその叱咤が必要だとここまで歩みを寄せたが、彼女は言葉無く踵を返した。
 そんな彼女の後ろ姿、そして蒼唯に対して静かに改めての頭を下げるのは颯悦だった。
 その扉の向こう、室の中では当の浅葱が白雪に傷口の度合いを診てもらっている最中であった。
 細く小さな手を取りつつ、白雪が僅かに目を細めている。
 血は止まっているが、傷は深い。それが一つではなく体中に残されている現状に、彼女の表情は歪んでいた。
 治癒能力が高い白雪は、普段からこうして浅葱の手当てをすることが多い。主の職業上、常に傷の耐えない日々だが、それでも嫌な顔一つせずに事ある毎に癒してくれる。
「ありがとう、白雪」
「相当量の血が流れておりますゆえ、しばしの安静が必要とお見受けいたします。傷は癒えても失せた血は戻りませぬ。せめて月が満ちるまではご自愛なさりませ、浅葱どの」
「うん、気をつけるよ」
 自分の視界に写るだけの傷が消え去っていくのを不思議そうに見ながら、浅葱は白雪の言いつけに素直にこくりと頷きそう言った。
 白雪はそんな主の姿を見やり多少は安堵したのか、優美な所作でゆっくりと立ち上がり、そのまま退出していく。その後に浅葱に頭を下げたのは、同じく室に控えていた紅炎だった。
「お役に立てず、申し訳ありませんでした」
「紅炎のせいじゃないよ。相手の力量を見誤って、貴女にも怪我をさせてしまった。……謝るのは、私のほうだ」
「私の怪我など、すぐに癒えます」
 目の前で深々と頭を下げ、そう告げる紅炎に対して、浅葱は困ったように笑みを作りつつ頭を振った。その笑みが痛々しいほど自分を責めているのだと思わせて、顔を上げた紅炎の瞳が曇る。
 ――あの妖を、自分の手で殺してしまいたいと思った。そんな気持ちを持ち合わせる自分は、主にここまでの表情を作らせる価値も無いはずだ。
 だが、それでも。
「どうか、ご自愛くださいませ」
 今の紅炎には、浅葱の心を癒す言葉が見当たらない。そして、その立場にも無い。
 だから彼女は、自分が言葉に出来るだけの声音を空気に乗せた。そして、もう一度頭を下げる。
 浅葱はそれを受け入れて、こくりと頷いた。
「私は少し眠ります。紅炎もゆっくり休んでね」
 それは、遠まわしに退出を促す言葉だった。
 紅炎は一歩後ろへと身を下げた後、軽く頭を下げて静かに彼女の室を後にする。
「…………」
 一人、静まり返る室の中、浅葱は脇息にもたれて深いため息を吐いた。
 最悪な結果しか示せなかったが、それでも一件を片付けたことには変わりない。それなのに達成感は得られないまま、そこに残るのは自分の不甲斐なさと、悲しみだけだ。
 ふわ、と空気が揺れた気がして、浅葱は言葉無く視線を動かす。
 その先には賽貴の気配があり、彼女は再びのため息を漏らした。
「……一人にして」
 いつもどんな時にでも、賽貴は浅葱の心情を誰よりも察して自ら傍に寄る。今も理由は同じで、放っておけばどんどん思考が暗くなっていくばかりであろう主の傍を、決して離れようとはしないのだ。
 浅葱自身がそれを望まなくとも、彼は彼女の傍にあり続ける。
「甘やかさないでよ、賽貴……」
 吐き捨てるような言葉は、最後には震えたものになっていた。
 精一杯の虚勢で、自分を否定する小さな背中。その震える肩を、賽貴は言葉無く自分へと引き寄せて優しく抱きしめる。
 すると浅葱は、一気に表情を緩めて嗚咽を漏らした。
 ぼろぼろと零れ落ちる大粒の涙を、賽貴は己の手のひらで受け止めてやる。
「がんばりましたね、浅葱さま」
「……っ、……」
 賽貴が小さくそう告げると、浅葱はそれには応えられずにいた。泣いているために声を作れないのだ。
 声を上げて泣くことすら出来ないそんな主を、賽貴はただひたすら抱きしめてやることしか出来なかった。
 二人は、その後しばらくその距離を保ったままでいるのであった。


-第一夜・了-