夢月夜

第ニ夜(二)


「藍、少しは口を慎みなさい」
 朔羅が気転を利かせて浅葱を連れ去って、僅かな後。
 二人の背がきちんと廊の角を曲がるのを見届け、賽貴が再びため息を吐いて藍にそう言った。
「お前たちは、一体何をしに来たんだ……」
 続けた言葉は、半ば独り言のような響き。
 それを聞いた藍が、よく聞いてくれたとばかりに顔を輝かせた。
「アタシたち、迎えに来たんです! 賽貴さま、いつまでこんなところにいるの? アタシたちの世界に帰りましょう!」
「あ、あの、止めたのですが……」
 おどおとと、首をすくめている琳。無礼な態度を直そうとしない藍。二人を見比べて、賽貴は思わず額を押さえていた。
 正直、この二人は苦手だと彼は思った。
 相手をすると今のように、調子が狂ってしまう。それに、先ほど席を外した浅葱のことも気がかりであった。
「――……琳。以前に『帰れない』と伝えてあったはずだが」
 瞳を潤ませながら詰め寄る藍から逃れるようにして、賽貴は琳を軽く咎める。
 すると琳は、幾度目かの平伏のあとに口を開く。
「申し訳ありません。藍が、どうしても自分の目で確かめたい、と我侭を……」
「何よ、琳っ! アタシが全部悪いみたいな言い方しないでッ!」
(……頭が痛い……)
 キン、と響く少女の声音に、賽貴はもう何度目か知れないため息を漏らした。
 彼の眉根の皺は一層深くなる一方で、このままではそのままの表情になってしまうのではないか、と思える程だ。
「……面白そうな話をしておるの」
「きゃっ!?」
「なっ!?」
 一瞬、冷たい空気を感じたかと思える直後。
 突如、背後から掛けられた声に慌てて二人は振り返った。その視線の先にいるのは、限りなく白に近い青色を持つ美女であった。整えられた眉と、冷たくも艶のある唇が印象的なその女性は、浅葱の式神の一人である白雪だ。
「無断で『門』をくぐり抜けた輩を追って来てみれば……賽貴殿の縁(ゆかり)のものであったか」
 そう言う彼女の背には、縦一筋の空間の歪みがある。『それ』を自在に構築出来るのは白雪のみであるために、確かめなくとも彼女がそこから現れたということは想像がつく。
「……すまない」
「よい、特に咎めはせぬ。……なんとも、可愛らしい乙女心ではないか」
 心底済まなそうに謝罪の言葉を投げかけてくる賽貴に対して、白雪は藍に視線を送りながらゆったりと返事をした。にこり、と微笑むその姿が尚の妖艶さを醸し出している。
「そちらの兄者殿は、苦労人のようであるが……」
 次に視線を移されたのは、琳にであった。
 その言葉を受け止めた彼は、ゾクリ、と背筋に走る冷たく強い妖気に僅かに身を震わせる。
 何をされたわけでもない。ただ、笑いかけられただけ。それだけのことであるが、本能が彼女が並の存在ではないと告げているかのようだった。
(……やりにくい……)
 思わず、琳の本音が内心で漏れる。
「今日はもう、通れる門が無いゆえ、泊まって行かれるがよい。せっかく来られたのだ、人間界をゆるりと楽しむのも良かろう? 我が当主どのは、行き先のない子供を追い出すような、お心が狭い方ではありませぬよ」
 白雪は笑みを崩さぬままでそれだけを言い残すと、再び歪みの中に姿を消した。
 彼女は浅葱の式神であると同時に、『門番』でもあるために、何かと多忙でもあるのだろう。
「……素敵な方……」
 白雪の言った『可愛い』に気を良くしたのか、彼女の消えた空間を眺めながら、藍がうっとりとため息を漏らしている。
 それをよそに、賽貴は白雪の言葉の意味を反芻していた。
 そもそも『門』とは、人間界と魔界のあいだの各所に存在し、常に開いているもの。それが『閉じる』と言うことは通常ならばありえない。だが、白雪は『通れる門が無い』と言っていた。それはつまり、門番である彼女がそれらを閉じるという事だ。
 琳と藍が禁を破って無断で門を使用した事を気にしていたようでは無かったが、二人への罰か、それとも別の意図があるのか。その真意は測れなかったが、誰も通す気がないという事だけはよく解る。
 一定以上の力を持つ者ならば自力で門を開く事も可能だが、この双子の力では無理だ。
 かと言って、自分が門を開けば『一緒に帰ろう』と藍が言い出すのも必至。
「……、お部屋をお借りするから、お前たちはここで大人しくしていなさい」
 そこまで思考を巡らせて、賽貴は半ば諦めたようにして嘆息して立ち上がり、極めて抑えた声で付け加える。
「ご迷惑をかけたらその場で追い出すから、そのつもりで。この界に害をなすような真似をするのであれば……解っているな、琳」
「……はい」
 ――お前たちであろうと、容赦はしない。
 冷たい響きの言葉に琳は身を硬くし、再び頭を深く下げる。それを見届けた賽貴は、その場を後にした。
「賽貴さまぁ……」
「藍……わきまえてくださいよ、もう……」
 一貫して無視される形となった藍が、不満げに非難の声を上げた。
 琳はその隣で、疲れたと言うような表情で嘆息していた。

「何事だ?」
 浅葱を自室へと送り届けた朔羅が渡殿を歩いていると、北の対屋から姿を見せた鳶色の髪の女が声をかけてきた。浅葱に仕える式神の一体、『紅炎』だった。
「賽貴の声が聞こえた。桜姫さまには届かなかったようだが、珍しいこともあるものだな」
 紅炎が言うのは、藍を叱りつけた時の声だろう。さほど大きな声ではなかったが人より遥かに優れた聴覚を持つ紅炎には、聞こえていたということか。普段は感覚を閉じ人より少し耳が良い程度にしか聞こえないはずだが、常とは異質な賽貴の声を、遠く離れた北の対に居ながら彼女は聞き分けていたのだ。
 ちなみに、北の対屋にいるのは浅葱の母だ。紅炎は元より彼女に仕えていた為に、傍にいることが多いのだろう。
「……望まない来客。嵐と災厄がいっぺんに来たって、そんな感じかな。桜姫さんや蒼唯さんにうまく言っておいてよ」
 半ば投げやりにそう言うのは朔羅だ。
 浅葱の両親への報告は、彼らに近い位置にいる紅炎が一番ふさわしいのだろう。そして朔羅は、来訪者の一人を思い出す。
 腹に一物をを抱えながらも、笑える。『あれ』は、そんな存在だ。
 おどおどした態度で他の者を油断させ、腹の中では哂っている。
(藍はともかく、琳を浅葱さんに近づけるのは避けたほうがいいな……)
「――朔羅。何か、問題でも?」
 朔羅が思案を巡らせつつ心で呟いていると、厄介事の気配を感じたのか紅炎が問いかけてきた。
 彼は彼女の目の前を通り過ぎようとしていて、その声で一度足を止めた。
「いや、平気だよ」
「当主にも、影響はないと?」
 敢えて紅炎に視線をやらずに朔羅がそう答えると、彼女は間髪いれずに次の質問をぶつけてくる。
 なるべく声の音を変えずにさらりと答えたつもりではあったが、微かに耳に届いていた賽貴の声、そしてその後に浅葱が自室に戻っていること。それだけでも、良い客であるはずがない事は紅炎にもよく把握出来る事柄だった。
「……平気だよ。何かあれば、潰せばいいだけだからね」
 再び歩みを再開させ彼女を通り過ぎたところで、朔羅は静かに振り返り言葉をつなげた。口元は緩んではいたが、何とも言い難い表情だ。
「でもまぁ、一応。紅炎も注意しておいてよ」
 一瞬だけの薄い笑みを浮かべつつそう言った朔羅は、進んでいた方向へと向き直ってひらひらと手を振る。
 そしてそこで何かを思い出したかのように動きを止め、
「ああ、そうだ……颯悦が帰ってきたら、よろしくね」
 と言い残して、彼は去っていった。
 その場に残された紅炎は、浅葱の両親への報告の役目の上にあの片真面目で気難しい颯悦の件も押し付けられた形となり、僅かにため息をこぼす。自分が一番適任とは言え少々、気鬱にもなる。
 颯悦自身は今は外へ見回りに出ていて、この屋敷内にはいない。
「……やれやれ、だな」
 式神の中でも一番厄介である彼や、浅葱に常に厳しくある桜姫への報告は僅かに難しい事かもしれないと考えながら、紅炎は踵を返し再び北の対へと戻っていくのであった。

 庭での騒動より数刻の後、浅葱の自室内は重苦しい空気に包まれていた。
「……あの二人は、私の遠縁にあたる者で……。あちらにいた時の、私付きだったのです」
「うん……」
 後ろをついて歩こうとする藍に、決して与えられた室から出ないようにと言いつけ、賽貴は報告のために浅葱の部屋に訪れていた。
 彼の言う『あちら』とは、魔界のことだ。
 賽貴が陰陽師の式神という立ち位置になる以前、彼がまだ自分の生まれた界で過ごしていた頃、賽貴に仕えていたのがどうやらあの双子らしい。
「女のほうが藍、その兄になりますのが、琳といいます」
「うん……」
 浅葱は文机に向かい、書きかけの符に視線を落としたまま、賽貴とは目を合わせようとはせずに空返事を返すのみだった。
「――浅葱さ……」
「あの娘(こ)……賽貴のこと、好きなんだね……」
 浅葱の名を呼びかけた賽貴の言葉を遮り、浅葱がぽつりとそう呟いた。
「北の方候補、だったんでしょ……?」
 そこまで続けてようやく、彼は賽貴をちらり、と振り返る。
「……はい」
 主の問いかけに賽貴は真実を告げるしか出来ずに、短い答えを返せば浅葱はまた視線を戻し沈黙してしまう。
「………………」
 浅葱の予想していた事だった。それなのに、実際音にして聞くと胸が苦しくなる。心に掛かったままのもやもやとしたモノが、どんどん薄暗く染まっていく感覚を彼は静かに感じ取っていた。
「いいよ」
「浅葱さま……」
「いいよ、好きなだけ滞在させても……。好きな人に、会いに来たんだもんね……」
 長い沈黙のあと、浅葱は深くため息を吐いて賽貴にそう言った。
 そして手元の、一向に進まぬ筆を机の上に置き『一人にして』と彼に退出を促す。
 賽貴は何も言えぬまま、その言葉に従い一度平伏したあとに室を出て行った。
「…………」
 誰もいなくなった空間で一人、無造作に手足を投げ出した浅葱は、胸の内に広がり続ける悶々とした気持ちを抱えながらじわりじわりと近づく夜の帳が降りてくるのを言葉なく眺めているのだった。