夢月夜

第ニ夜(六)


 空が橙色に染まり、東から徐々に夜の帳が降り始める頃。辰刻では酉の刻あたり。
 都の上空を舞うのは、浅葱たち一行であった。
「なに、これ……」
 銀の毛並みが美しい狐姿の朔羅の背に乗る浅葱が、眼下を見下ろしそう呟いた。
 僅かに肩を揺らしているのは、移動途中で女性体への変容が始まってしまったためである。金色の髪と緑色の瞳は陽の下では眩しいほどだ。本来であれば朔の日は染料を使い髪を黒く染めるのだが、今回ばかりはその余裕も無くそのままであった。
「まるで百鬼夜行だね……。なんだってまた、こんな時間に……」
 浅葱とは対照的に、軽い口調で朔羅がそう言う。
 彼の言葉を借りるなら、まさに百鬼夜行。一体一体は大した力を持たない『雑魚』ばかりであったが、半端ではない数の妖が群れを成して通りを歩いている。
 当然、通りには人がいる。衛門佐や他の陰陽師の姿もあるので、皆うまく逃げられたようではあるが、それも完全ではない。
 単体の力が子鬼ほどの弱い種族であっても、今の浅葱には荷が重い状況だ。楽観はできない。
「この手の妖は、子の刻以降に活動するものに、どうして……」
 現状の異常さを感じて、浅葱は改めて先ほどの颯悦の忠告が正しかったと感じた。
「降りるよ、浅葱さん」
「うん」
 ゆっくりと降下を始めた朔羅に、浅葱はこくりと頷いた。
 そして胸元に仕舞いこんでいたそれぞれの式符を取り出し、空中へと放つ。
「颯悦、紅炎、白雪は外周を固めて。逃げ遅れてる人もいるみたいだから、誘導をお願い。賽貴は結界を!」
 口早に彼女がそう言えば、札は人の形を作りそして短く返事をくれる。
 そして主の言葉に従うべく、それぞれは地にたどり着く前に散った。
「朔羅は私の援護を」
「御意に」
 眼前へと迫る地面をへと浅葱は飛び降りながら、そう言葉を続け片足が地に着く頃には印を結び、術を放ち始める。
 着地と同時に人の姿に戻った朔羅は、そんな主の背を守るようにして立ち、襲い来る妖たちを牽制した。
 本来、朔羅ほどの力の持ち主であればこの程度の妖がいくら群れたところで一掃するのは容易いことなのだが、『浅葱の式神』として仕えている時は彼は助勢に徹して、滅多なことでは自ら手を出したりはしない。
 現在も牽制のみで、直接的な攻撃は全て浅葱が行っていた。
 世に知られる陰陽師と違い、浅葱の戦い方は特殊だ。懐にある札を使い、妖を弱らせ、それに吸い込む。吸い込んだ札は真っ黒に染まり、浅葱の力で封される。それを幾度も繰り返して、最終的には『門』の向こうで封を解き、彼らを魔界に還すと言う行動を選んでいるのだ。
 その方法は、決して賞賛されるものではない。実際、他の陰陽師からは異端のすることだ、と言われ続けている。それでも『陰陽師・浅葱』はその術(すべ)を変えることはしなかった。
 ――だが。
「……浅葱さん、これじゃキリがないよ」
 朔羅が肩ごしに、そう告げてくる。
 妖の数が、半端ないのだ。いくら姿を消そうとも、同じ数だけまた眼前に迫る。
 浅葱の体力と能力低下を思えば、限界が見えてくるのも時間の問題だ。
 実際、既に彼女の肩が大きく上下している状態だ。相手を弱らせるために放つ術がどんどん体力を奪い取っている上に、その術の発動率まで低くなり始めている。
 無駄な力は一切使えない状態であった。
(集中、しなくちゃ……)
 浅葱は心の中で、自分にそう言い聞かせる。
 呼吸が荒くなり始め、集中力が落ちているのだ。
 それでも彼女は、その場に立ち続けた。
「……おかしいね」
「うん……これだけ数がいても……さっき、屋敷で感じた妖気が……どこにも、ない……」
 背中合わせで交わされる会話。
 僅かな違和感を最初に感じ取ったのは朔羅で、浅葱も彼のその言葉に気づいた点があったようだ。
 目の間に広がるのは意思の疎通も測れないような、十把一絡げな妖の群れ。
 九条邸で一番最初に妖気を感じた時には、ほんの一瞬であるが肌を刺すような禍々しい気配が確かに混在していた。
 それがこの中にいるはずであるのに、現在は感じられない。
「――浅葱さまっ!」
 思考に割り込んだ、男の声が響いた。
 それに振り向けば、一瞬の後に浅葱の体は賽貴の腕に抱きとめられていて、その脇では一体の妖が咆哮を上げて崩れ落ちているところであった。
「さ、賽貴……」
「気を抜かれてはなりません」
「う、うん……ありがと……」
 疲労で散漫になっていた浅葱に注意を促し、賽貴は手にしていた菱形の半透明の石を、地面に勢いよく突き立てた。
 ――キン……。
 金属に似た音を立てて、空気が振動した。そしてその直後、辺りの妖たちの動きが制限される。
 その石は『結界石(けっかいせき)』と呼ばれるもので、賽貴が得意とする結界力の集大成のようなものであった。
「ここ一帯に、結界を構築しました。この範囲内で、あれらの動きを止められます」
 賽貴は石の状態を見やりつつ、浅葱にそう言う。
 浅葱はそんな彼に小さく頷いて、確認のために辺りに視線をやる。
 賽貴の言葉どおり、妖たちは一定の場所から外には出られないようであった。結界の構築部分を確認した各式神たちも、浅葱の元へと戻ってくる。
「浅葱どの、まずは息を整えるが良い。準備が整えば、妾が賽貴どのの合図でここに『扉』を開きます。それと同時に退魔なさりませ」
「援護は、我々が」
「……うん」
 白雪の言葉に颯悦が続き、浅葱は大きく深呼吸を繰り返し始めた。

 浅葱の背後を守っていたはずの朔羅の姿はそこにはなく、彼は賽貴が現れた直後くらいにその場をそっと離れて、空へと移動していた。
「…………」
 どうにも、おかしい。
 肌に感じる違和感が、どうしても拭えない。
 賽貴の結界であの妖たちの一掃は出来るだろうが、不安が消えないのだ。
 大きく息を吸い、朔羅は目を閉じて、違和感の正体を探るために空気を読み始める。
(こういう事は、颯悦の方が得意なんだけど……)
 感覚の鋭敏な盲目の式神を思い浮かべて、彼は僅かに唇に笑みを乗せた。
 その、直後だ。
「……、え?」
 朔羅の肩が、びくりと震えた。本能で何かを瞬時に感じ取ったのだ。
 その『何か』は、重く歪んだ気配。そして、朔羅はその気配を知っている。

 ――嘘だ、有り得ない。

 そう、心で唱えるように言う朔羅の表情には、先程までの笑みが消え失せていた。
 感じ取ったものを否定しようとする彼の頭の中に、捩じ込むような重苦しい空気。そしてその後ろに僅かに感じるのは、『琳』の気配だった。
 閉じていた瞳を開き、朔羅は周囲を見渡す。だが、姿は見えない。それなのに、肌が粟立つほどの禍々しい気が、自分を取り巻いている。同時にそれが、彼の体を束縛もしていた。
「……、諷、貴……さん」
 朔羅の唇から、震える音でこぼれ落ちる名。
 彼はその気をよく知っている。決して忘れられない、忘れようもない相手の名だった。
 辛うじて動く首を動かし足元を見やれば、浅葱が必死に術を唱えている最中だ。退魔のための最終段階に入っているのだろう。紅炎も颯悦も、援護に手一杯で、上空の状況には気づく様子も見受けられない。
「何を、するつもりなんだ……諷貴(ふうき)さん、琳……!」
 朔羅はそんな眼下を見やりながら、たまらずに声を張り上げた。すると、彼の意識の中でニヤリと嗤う諷貴の印象が克明に広がっていく。
(――まずいっ!)
 そう思った時には、既に遅かった。
 一瞬の暗転が訪れて、朔羅の視界が塞がれてしまう。
『――半端モノ』
「え……?」
 耳に届いたものは、憎悪に満ちた琳の声だった。
 彼を纏っていた空気がそこでふつり、と途切れて、朔羅が慌てて主を見やる。その頃には視界も開けて、暗転も融けていた。
 そして、賽貴の張った結界内で蠢いていた妖たちも、残らずその姿を消している。
「――浅葱さんッ!!」
 弾かれたようにして、そんな叫びに近い声が朔羅から発せられる。彼の視線の先では、力なく地面に横たわる浅葱の姿があった。
『――――』
「くそっ……」
 急速に高度を下げる朔羅に、哄笑が届く。彼が『諷貴』と呼んだ存在の物のようであった。
 嘲るように響くそれを耳にしながら、過去の苦い記憶とどうしようもない喪失感が蘇る。
 何もできずに翻弄されただけとなった朔羅は、きつく己の唇を噛み締め、地面を目指していた。

 一方、その頃。
 九条邸に一人取り残された藍が、片割れの存在を探していた。
「琳ー、……琳?」
 まったりと名前を呼ぶが、彼女が感じ取れる距離にはその姿はない。
「もう、どこ行っちゃったのよ……」
 思い起こせば、今日はずっと姿を見ていない。そんな事を考えつつ中庭をうろうろしても、気配は見つけられなかった。
 そうして、自分の思いつく限りで屋敷を見て回ったあと、用意された部屋に戻ると、文机の上を中心に琳の薬が散らばっているのが目に飛び込んでくる。
「え!?」
 藍はそれに驚き、小さく声を上げてその薬の元へと駆け寄った。
 琳がいつも、肌身離さず持ち歩いていた薬だ。何の薬かは藍にはよくわからなかったが、定期的に飲まなければいけないということだけは把握している。
「琳?」
 薬の一包を拾い上げ、呟きながら室内を見渡すが、隠れる場所など何処にもない。必然的に、琳は此処に居ないことになる。
「もう薬の切れる頃なのに……ちゃんと飲んだのかな、琳……」
 不安に駆られ、独り言を繰り返しながら、散らばった薬を拾い上げ文机の上にまとめる。そしてゆっくりと腰を下ろして、じっとそれを見つめた。
「…………」
 完全に人がいないというわけでもないのに、静まり返った屋敷。そのせいで時間の流れがひどく遅く感じて、言いようのない不安ばかりが膨らんでいく。
「――ッ」
 一向に静まる気配のない胸騒ぎに耐えかね、藍は薬を握り締めて室を出る。そして濡れ縁を軽く一跳ねし、屋敷を飛び出していった。

「浅葱さま……浅葱さまっ!」
 倒れたまま、目を覚まさない浅葱に対して賽貴が必死に呼びかけ、その傍らでは白雪が手をかざして意識を辿っている。
「見当たらぬ……誰かに連れ去られたやもしれぬな。早うお屋敷へ運ばねば」
「浅葱さん!」
 白雪が重く呟いた時、朔羅が着地と同時に浅葱へと駆け寄り主の名を読んだ。
「何が起こった!?」
 いつも冷静である彼にしては珍しく、余裕のない声音。隣に立つ紅炎も、若干それに驚きつつ、首を横に振った。
「わからん。我らが気がついたときには、当主は気を失っておられた」
「くっ……」
(――やられた)
 困惑した紅炎の答えに、表情を歪めて小さく舌打ちする。それを辛うじて耳にできたのは、感覚の鋭い颯悦のみだったかもしれない。
 朔羅はそんな自分の醜態すらお構いなしに、賽貴に詰め寄り、彼の耳を借りる。
「……諷貴さんが……」
「!」
 声を押し殺して彼にそう伝えると、その響きに大きく瞠目したのは賽貴だった。

 ――有り得ない。

 瞬時に彼は、そう思った。
 だが、情報を伝えてきた朔羅が冗談を言うはずもなく、間違るはずも無いことを賽貴はよく理解していた。そして、『信じたくはない』と言う気持ちすらも。
「……とにかく、浅葱さまをお運びしなくては!」
 逼迫した声音でそう言ったのは、颯悦だった。
 その声で賽貴は我に返り、浅葱を抱きかかえる。
 そして、妖がどこかに潜んでいる可能性を示唆し、紅炎と颯悦をその場に残して、白雪と朔羅と賽貴は急いで屋敷へと駆け戻るのだった。