夢月夜

第ニ夜(九)

 
 精神の深淵より救出されてのち、浅葱は蓄積した疲労と睡眠不足のために丸一日寝込み、朔が明けようとする二度目の夜を超えた今日、本調子ではないとは言え自分で立って歩ける程度には回復していた。
 寝所で身を起こした浅葱は、薬湯の準備をする賽貴の背中を見つめている。
「…………」
 眠っている間ずっと賽貴の気配を傍らに感じていたが、目覚めてからも彼は浅葱の傍を片時も離れようとはしなかった。
 そして、あれだけ賽貴にべったりだった藍が、ほとんど姿を見せなくなった。朝夕と挨拶に来たが、挨拶をしただけで浅葱の顔を見てもただ静かに頭を下げるのみ。以前の敵意に満ちた瞳はどこに行ってしまったのだろうか。
 聞きたいこと、言いたいこと、言わなければならない事。
 話したいことは、沢山ある。
「……賽貴?」
「はい」
 呼びかけに振り向いて賽貴が浅葱の言葉を待つが、どうしても次の言葉が出てこない。
 数秒の沈黙のあと、
「なんでもない」
「……そうですか」
 浅葱の言葉にそう答えた賽貴は、再び背を向けてしまう。
 そんな彼にわからないようにして、浅葱は小さく嘆息した。
 賽貴と藍の間で何かがあったのだろうとは思うが、どう聞いたら良いものなのか。それに、三日前にあったことも説明できていない。
 精神世界に現れた琳と、冷たい男の声。
 どう説明するべきなのか、どこまで話すべきなのか解らず先ほどと同じようなやり取りを幾度も繰り返している。
 賽貴もまた、それを浅葱に問い質さなければならないと思いつつ、言い出せずにいた。
「どうぞ、お薬湯です」
 静かに浅葱の前に差し出されたものは、薬草などを煮出した湯が入った椀であった。
 浅葱はそれを受け取る前に、自然と眉根が寄ってしまう。当然だが、口当たりが良くないことを知っているからだ。
「お飲みにならないと、体は良くなりませんよ」
「……苦いんだもん」
 渋々、と言った具合で浅葱はその椀を両手にし、憂鬱そうにうつむく。
「颯悦に叱られますよ」
「飲みやすくしてくれたら、いいのに」
「そうですね」
「…………」
 前よりも一緒にいる時間が長くなっているというのに、お互いが考えすぎて、他愛もない会話しか続けることができない。
 普段から会話が多い二人ではなかったが、今は沈黙が重くのしかかっているようであった。
 ギシリ、と小さく梁が軋む音がした。
 それに浅葱が妻戸のほうへと視線をやると、戸口には藍が立っている。その後ろには琳の姿もあった。
「賽貴さま、琳と出かけてきます」
 そう言った藍の表情は、やはりとても静かであった。
「……ああ。あまりに遠くに行かないように。京には陰陽師がたくさんいるからね」
「はい」
「妖と見なせば容赦なく攻撃しようとする陰陽師も少なくはない。気をつけるように」
 そんな、賽貴と藍の会話をそれとなく聞きながら、浅葱は椀を静かに置いて、藍の後ろで小さな笑みを浮かべる琳を覗き見る。
 その視線に気づき、琳が目を細めて、笑みを一層深くした。決して好意的とは言えない、嘲りの含まれた笑みの形だ。

 ――いらないでしょう?

 闇の中、繰り返された言葉が蘇る。
 冷たい汗が手のひらの熱を奪い指先が冷たくなっていくのを感じて、浅葱は思わずその手を握り締めた。
「――東の市に連れて行ってあげるよ」 
 いつの間に現れたのか、琳の後ろから朔羅が顔を出す。
「僕がいた方が安全かもしれないし……いいよね、浅葱さん?」
「え、あ……そうだね。他の陰陽師と会っても、朔羅の顔を覚えていれば見逃してくれるだろうし……。ちょうど、市が出てるから楽しいと思いますよ」
 朔羅から視線を戻し、努めて明るく笑いかける浅葱。それでも二人を直視することができずに、わずかにずれた場所に視線を置いていた。
「それじゃあ、行こうか」
 朔羅がそう言えば、二人は彼に従い踵を返した。
「……行ってきます」
 琳が最後にこちらへと頭を下げてから、朔羅のあとに続く。
「行ってらっしゃい」
『浅葱さん。あの事、ちゃんと賽貴さんに話さないと駄目だよ。時間をかけるほど、言えなくなるからね』
「……!」
 笑顔で彼らを見送ろうとした浅葱の頭の中に、朔羅の声が直接響いてきた。
 驚いて顔を上げるが、彼の姿は既に見えない。
「浅葱さま?」
「あ、ううん……なんでも……」
 浅葱の様子を気にしてか、賽貴が訝しげに問いかけてくる。
 そんな彼に曖昧な笑顔で答えたあと、浅葱は再びうつむいてしまう。
(……三日前のこと……)
 話さなくてはいけないとは、思っているのだ。
 だが、朔羅の言うとおりで、時間が経つほど言いにくくなっているのも事実であった。
「……お邪魔かな?」
 沈黙の落ちた部屋に穏やかな声が響き渡り、それに顔を上げれば父である蒼唯が顔を覗かせていた。
「父上……」
「ああ、気にしなくていいよ、賽貴」
 その姿を認め、無言で後ろに下がろうとする賽貴に笑顔を向け、蒼唯は浅葱へと向き直って正座する。
 いつもは穏やかな父が、今は厳しさをその表情に宿し自分を見つめている。
 浅葱も自然と姿勢を正し、その真っ直ぐな視線を受け止めた。
「浅葱」
「はい」
「賽貴に、隠していることがあろうだろう。きちんと話しなさい」
「……っ」
 蒼唯の言葉に、浅葱が僅かに体を震わせ、つい視線を逸らしてしまう。
「父さまも妖だ。異質な気配くらいわかるんだよ。浅葱に何があったのかもね」
「…………」
 妖の中でも、特に鋭い感覚を持つ鳥人族。それが琳の持ち抱く影や、数日前に感じた妖気の中に混じっていた異質な気配に気づかないはずもなく、黙認を続けていたものの、それも既に限界だったらしい。
 心の準備が整わず困惑してる浅葱に、蒼唯は少しだけ表情を和らげて続けた。
「皆、心配しているんだよ。何があったのか想像できても、それはやはり想像でしかない。浅葱が話してくれなければ、解らない事もある。……話してくれるね?」
「父上……」
「蒼唯さま……」
 浅葱の言葉のあと、賽貴も続いた。蒼唯の申し出に、少し驚いているようでもあった。
 そして浅葱は僅かな沈黙のあと、こくりと頷く。
「……暗闇の中で、声がしたの。琳さんと、もう一人。すごく冷たい声の、男の人だった。……知らない人なのに、『この声に覚えがあるだろう?』って」
「…………」
 賽貴には、その声に心当たりがあった。朔羅に耳打ちされた名前が頭をよぎるが、それを口にすることは出来ずにいる。
 父の蒼唯は目を伏せ、ただ黙って浅葱の言葉を聞いていた。
「逃げても、逃げても追いかけてきて、すごく怖かった」
「……浅葱さま。琳にはもう、あまり時間がないのです」
「え……?」
 声の主のことを明かすことが出来ない代わりに、賽貴はそれを浅葱に伝えた。
 それを耳にした浅葱は、素直に目を丸くする。
「我々天猫族の、双子にまつわるお話は、以前にしましたね」
「うん。でも、琳さんは……」
 双子の病の話は、もちろん浅葱も知り尽くしていた。
 だが、浅葱の知る限りでは、琳も藍も、賽貴と同じ闇色の髪をしている。
「琳は、銀髪で生まれました」
「……! じゃあ……」

 ――死にたくない!

 浅葱は闇で聞いた琳の声を咄嗟に思い出した。現実に引き戻される間際の、強烈な思念とも取れるそれ。
 あれが琳の本音なのだ、と瞬時に理解する。
「おそらく、藍はその事実を知りません。」
「どうして?」
「琳が銀の髪を持つ者だと知っているのは、天描族でもごく僅か。……私の親戚筋という事もあり、伏せられておりました。そして琳自身には、物心つく前から薬を与え、体を保たせているのです」
「…………」
 そう告げられる言葉が予想外で、浅葱は押し黙る。思いもよらぬ琳の『真実』と、闇の中で聞いた言葉を照らし合わせているのかもしれない。
「今までも、あれは藍の陰となり、その身の内にある狂気を秘め続けてきたようですが、今回の件でそれが明らかとなりました。……ですが、琳の目的自体は未だ明確にはなっておりません。お気を付けてください、浅葱さま」
「うん……」
 賽貴が続けた言葉に、浅葱は若干、上の空気味で答えた。
 思考が思案に切り替わってしまったのだろう。
『――賽貴さま』
 そんな浅葱の状態を好機と取ったのか、目を伏せたままの蒼唯が、賽貴の頭の中に直接話しかけてきた。彼ら妖は、ある程度の力を持ち合わせていれば、こうした会話も可能なのだ。
 浅葱の手前、音ではいつも『賽貴』と呼び捨てにしているが、本来それは許されるものではないらしい。
 『天猫族の賽貴』は、魔界では至高の位置に座る者の後継者でもある為だ。
 必然的に蒼唯よりも遥かに高い地位にある事になるのだが、彼は自らで式神と言う道を選んで以降は『それ』を厭う傾向にあり、敬称で呼ばれることにも抵抗があるようだが、本人が好むと好まざるとに関わらずそれは逃れられないものでもあった。
『はい……』
 僅かな間を置き、賽貴は心の中で蒼唯に応じ始める。もちろん視線などは動かさずに、そのままであった。
『あの少年……琳の思惑は、読み取れますか?』
『先ほど申し上げたとおりで、今はまだ……計り知れません。ただ、私の兄上が何かしらの縁で琳に関わっていることだけは確かで、朔羅もそれを察知しているのですが……』
『浅葱への、直接的な被害は?』
『全ては、これから……。ですが、全力でお守り致します』
『よろしくお願いします』
 視線を合わせることのない、文字通り静かな会話だった。
 目の前の浅葱はそんな彼らの会話に全く気づかずに、黙考を続けている。
「……浅葱さま」
「あ、ごめん、なに?」
 蒼唯との短い会話を終えた賽貴は、思考の淵に沈む浅葱を現実へと引き戻す。
 それに瞬きをして浅葱は返事をして、顔を上げた。
「琳への同情心はお捨てください。あれはまだ幼いですが、それでもあなたにとって、良い存在ではありません」
「……優しすぎるのは、時には危険に繋がるよ、浅葱」
 静かに目を開いた蒼唯が、賽貴のあとに続いた。
 浅葱は二人を見やりつつ、困惑の表情を浮かべる。
「でも……」
「浅葱さま。狂気の中にいる存在を、我々と同じに考えてはいけません。あなたは陰陽師なのですから」
「うん」
 念を押すように賽貴にそう言われ小さく頷いてはみるが、どうしても割り切れなのか浅葱はまた俯いてしまう。
 再び、その場に沈黙が訪れようとしていた、直後。
「――ところで、浅葱」
 蒼唯の少し明るめな声が、重い空気を振り払った。
「はい」
「薬湯は飲んだかい?」
 話題が切り替わったことに安堵した束の間、浅葱は傍らに置きっぱなしにしていた椀の存在を思い出した。
「……まだ、です」
「好き嫌いは、いけないよ」
「はい……」
 少し憂鬱な気分になりつつも、父の言葉に逆らうことができない浅葱は、そっと椀に手をかける。そしてそれが、膝元に移動したのを見計らって、蒼唯が次の言葉を紡いだ。
「それから、その瘴気」
「……え?」
「取り除きなさい。それが、命取りになる」
「え、……で、でも……」
 ぴ、と自分を指さしつつ言う蒼唯の科白に、浅葱は困惑した。
 体を診てくれた白雪は何も言っていなかったし、自身では確認することができない。
「意図的に、付けられたんだろうね」
 『あの時』よりずっと、浅葱をうっすらと取り巻いている瘴気。浅葱に感じ取れないだけあって、今すぐどうにかなるような物ではなかったが、蒼唯には不快であるようだ。
 賽貴もそれには気付いていたが、敢えて申し出ることはしなかった。蒼唯の言う『意図的』が、最終的には自分に繋がるような気がして、言い出せないのだ。
「今のうちに、取っておいたほうがいい。そろそろ、『元に戻る』時分でもあるだろう? その時に障りでも出たら、また倒れてしまうかもしれないしね」
 蒼唯はそう言いつつ、ゆっくりと立ち上がった。
「……父上?」
「お邪魔だろうし、私は退出するから。賽貴、頼みましたよ?」
「え?」
 不思議そうに父を見上げる浅葱。
 蒼唯はにっこりと笑みをたたえつつ、賽貴を一瞥した。
 視線を向けられた賽貴は、その意味を察しているのか、押し黙ったままだ。
「父上?」
「……ここから、吸い上げてもらうのが一番なんだよ。妖気が強いものであれば、なお良い」
「!?」
 とん、と軽く浅葱の唇の上に置かれたものは、蒼唯の人差し指だった。
 その行動と言葉の意味を悟った浅葱は、目を丸くした。次には、頬が桃色に染まる。
「ち、父上……っ」
「いい機会だ。気持ちを確かめるには、一番の方法だよ」
 こっそり、と浅葱に耳打ちする蒼唯の顔は楽しそうだった。
 反対に、浅葱は目を回しそうになり、両手に収めていた椀を再び傍らに慌てて置いていた。
「では、父さまは失礼するよ」
「……父さまッ!」
 楽しそうに微笑みながらいそいそと部屋を後にする蒼唯へ、真っ赤な顔をした浅葱が非難の声を上げる。
 だが彼はするりと御簾をくぐり、瞬き一つの間に姿を消してしまった。
「……………」
 二人残された室内で、去っていく蒼唯の足音を聞きながら、浅葱は先程までとは違う意味で俯き、沈黙した。
「浅葱さま……?」
「は、はいッ」
 賽貴が覗き込むように声をかけると、それに過剰反応した浅葱は、極度の緊張のために声が裏返っていた。
 瘴気の事は嘘では無いだろうが、それは口実だったのではないだろうか?
 そう、思わずにはいられない。
「…………」
 硬直したままの浅葱を見て、珍しく賽貴が表情を緩ませた。
 そして。
「――失礼します、『当主』」
 わざとらしい呼びかけに、浅葱は思わず顔を跳ね上げる。
「賽貴ッ、その呼び方は嫌だって、……ッ……!」
 はめられた、と気づいたときには既に遅く、浅葱は賽貴の腕にしっかりと抱かれ唇を塞がれていた。
「ん、……っ」
 腕の中、もがいてはみるものの力が入らない。そもそも、賽貴とこうした触れ合いも久しぶりのことであるので、頭の中は既に真っ白な状態だ。
 幾度か繰り返されたあと、ゆっくりと解放される。
 賽貴の着物をぎゅ、と握り締めながら、浅葱は小さい言葉を紡いだ。
「……、ばか……誰か、来たら……」
「時間がありませんでしたので」
 賽貴が言う時間とは、浅葱が元の姿に戻るまでのことを指していた。それをけろりとして答える様に、浅葱は頬をふくらませた。自分だけが動揺していると言うことに、不満を抱いたのだ。
「ご迷惑でしたか?」
「もう……賽貴のばかっ!」
 涼しい顔で改めての問いかけを投げられた浅葱は、真っ赤な顔のままで瞳に涙を浮かべつつ、それを吐き出してそっぽを向く。
 賽貴は小さく、笑みをつくるのみだ。
「…………」
 僅かな間を置き、浅葱がちらりと視線を戻す。
 するとそれに気づいた賽貴が、そろりと右手を伸ばし、浅葱の頭に静かに手のひらを置いた。
 そして二人には、久しぶりの笑顔が戻るのであった。