夢月夜

第三夜(一)


 ――朔羅は夢を見ていた。
 闇に覆われた世界の中で、めまぐるしく切り替わるその風景を目にしたくないのか、彼は目を伏せる。
 だが。
 彼の些細な抵抗は何の意味も成さず、夢は強引に意識下へと流れ込んでくる。

 嫌だ。
 嫌だ。
 嫌だ……!!

 朔羅の心の叫びだった。
 なぜ、こんなものを自分へと見せるのか。
 なぜ、思い出させようとするのか。
 夢は朔羅の叫びすら耳に届かないと言うようにして、彼の意識を蝕んでいく。

 忘れたくて、忘れられなくて。
 記憶の奥深くに封じこめた、過去の自分の姿が鮮明に浮かぶ。
 拭いたくても、拭いきれない過去。
 思い出したくもない、おぞましい記憶。
 出来ることなら、自分の中から、綺麗さっぱり消し去ってしまいたい――。
 それが叶わぬものだと知りつつ、朔羅はそう願わずにはいられなかった。

『朔羅……』
 自分を呼ぶ声。
 朔羅はそれに大きな拒否の姿勢を示す。
 普段、飄々としている彼からは想像も出来ない反応だ。
『朔羅……』
 また、呼ばれた。
 その響きに、彼は大きく首を振った。

 ――僕を、呼ぶな……。

 震えた声音でそう返せば、夢の向こうのその存在は、また朔羅の名を繰り返す。
『朔羅……』

 ――やめろ。呼ぶな!!

「……朔羅」
 心からの叫びをぶつけたあと、聞こえた声があった。
 それは、相変わらず朔羅の名を呼ぶものだった。だがそれでも、『音』が違う。
 記憶の奔流の中、抗おうと伸ばした指の先に触れたのは、彼が知り尽くしている温もりがあった。
 朔羅は、無意識にそれを手繰り寄せていた。
「――朔羅」
 宵闇の中、賽貴は苦痛に歪む知己の表情を見下ろしていた。
 幾度か呼びかけを繰り返しているが答えはなく、代わりにじっとりと汗ばんだ手が、何かにすがるようにして伸び、傍らにあった賽貴の手をきつく握りしめている。
「朔羅」
「…………」
 掴まれた手を軽く握り返しながら、賽貴は豊かではない表情に微かな焦燥の色を滲ませ、再度の呼びかけを繰り返す。
 僅かな反応があったように見えた。
 だが、苦痛が薄らいだように見えたのは一瞬のみで、瞬きほどの間で朔羅の額には冷たい汗が浮かぶ。
 荒い息を吐きながら、時折、何かから逃れようとするように体がビクリ、と震える。
 それを目の当たりにして、賽貴は眉根を寄せた。そしてまた、唇を開く。
「朔羅」
「…………」
「……朔羅!」
「…………ッ」
 見る間に憔悴していく姿に思わず声を荒げた時、弾かれるようにして朔羅の瞳が開かれた。
 金色に変容していた瞳の色。だが、それにはいつものような歪みを帯びた力は無く、宙を数秒見つめたあと、己を見つめ続ける視線に交差させた。
「……賽、貴さん……」
「そう簡単に、夢魔にやられるお前では無いだろう……」
「……うん……」
 そこにあるのが見知った顔であること。そして、今現在において、誰よりも自分のことを理解している相手であることに安堵し、朔羅は大きく息を吐いた。
「あの夢……か?」
「解ってるなら、訊かないでよ」
「すまない」
「……あれ」
 ため息混じりの会話を進めていると、そこで初めて朔羅は自分の手の中にある温もりに気がつく。
 握られていたのは賽貴の手。
 夢の中で手繰り寄せたものはこれだったのか、と心の中で理解し、彼は絡めていた指を解く。
 すると賽貴が、その解放された手で、おもむろに朔羅の額の汗を拭い始めた。
 やはり彼は表情は豊かではなかったが、長い付き合いである朔羅には、賽貴が心底心配していたのだという事がわかる。
 この二人には、言葉では表し難い、深い絆というものが存在するのだ。
「……浅葱さんが見たら、妬くよ」
「黙っていろ」
 クス、と小さな笑を含ませつつそう言えば、賽貴は僅かに語調を強めた声音で、言葉を返してくる。
「…………」
 朔羅は、流れる汗を黙々と拭う賽貴に身を委ねて、視線だけを周囲に巡らせようとした。
 その、直後。
「あれ……?」
 顔を傾けた時に感じた微かな抵抗。その違和感に、小さく声を漏らす。
「気づいていなかったのか」
「うん……夢の、影響かな……無意識だった」
 そう言う朔羅の髪の毛は、常とは違う長さだった。まるで、姫君のごとく伸びた髪。
 色素の薄さはそのままに、普段からの細身の身体はより細く、そして柔らかな丸みを帯びた女性体へと、朔羅は変容していたのだ。
 前に、この姿を取ったのは、いつだっただろうか?
 忘れてしまう程に昔だという事は、確かなようであった。
 浅葱とは違い、自らの意思でどちらかの姿を取ることも可能である朔羅は、普段は男の姿の方が楽だと思っており、それ以外に好んで変化することも無いために、今の姿を見たことがあるものは少ない。
 浅葱もまた、然りだ。
 朔羅が両性である事を知ってはいても、変化した姿を目にしたことは未だに無い。
「重いな……。女性って、大変だよね」
 起き上がろうと頭を持ち上げてはみるものの、髪の重さと疲労も相まって体が思うように動かずに、朔羅は小さくため息を漏らしながらそう言った。
「人ごとみたいに言うな。……お前だって、そうだろう」
「……僕は、あまり意識しないんだけどね。普段はさ、あっちの姿だから」
 賽貴の言葉に軽い口調で苦笑するが、自分ひとりでは起き上がることが出来ずに、彼は意識だけを周囲に巡らせ始めた。
「……浅葱さんの気配を感じない……」
 屋敷の主である浅葱の気配。本来であればあるはずのそれを感じ取れずに、朔羅は眉根を寄せた。
「本家に出向いただろう。忘れたのか?」
「ああ、そうだっけ……付き添わなかったんだ、賽貴さん」
「琳がついている。それに、本家の者は我々をよく思ってはいないからな」
「……そうか……」
 常であれば忘れるはずもない事であったが、それほどに消耗しているという事であるのだろうか。
 ぼんやりと中空を見つめたままで軽いため息を吐きながら返事をする朔羅の姿に、賽貴は小さく眉をひそめた。
「しっかりしろ、朔羅。お前らしくもない」
「ふ……こんな姿、浅葱さんには見せられない、ね……」
 低い声が、朔羅に届けられる。それと同時に賽貴の手のひらが己の肩に、ぽん、と置かれた。
 朔羅はそんな彼に視線をやりつつ、自虐的な笑みを浮かべる。そして、浅葱がこの場にいない事に心から安堵し、深く息を吐きだした。
「朔羅。……内熱がある」
「……いつものことだよ」
 肩の上に手をやったついでに、と朔羅の体温を確かめた賽貴がそう言う。直接肌に触れているわけでもないのに、わずかに伝わる変化を彼は見逃さなかった。
 そして、朔羅が『いつもの事』と返してくることも、予め解っていたらしい。
 確かにその通りではあるのだ。久しく無かったとは言え、『夢』を見た時は、朔羅は過去にも必ず熱を出していた。それが平気であることと同義ではないことを、賽貴は知っている。
「……大丈夫か?」
 そんな彼の口から漏れた、無意味な響き。
 自らも冷静さを欠いていると気づいていながらも、それでも彼は、朔羅が『平気だよ』といつものように不敵に笑うような気がした。
 だが、朔羅は『大丈夫だよ』とすら、口にすることが出来ずにいた。
 口の端で笑みは作ってみるものの、賽貴には自分の嘘が見抜かれてしまうことを、朔羅自身がよく知っているためだ。
「まいったな……しばらく、眠れそうにない……」
 弱々しい出来損ないのような笑みと、深く吐き出されたため息。そして、『全て』を知るもの以外に見せることのない苦渋に満ちた朔羅の表情を、賽貴は静かに見つめ続けていた。