夢月夜

第三夜(二)


「……今日は、帰れそうに無いみたい」
 夏の庭が見渡せる一室で、ポツリとそんな言葉を呟いたのは浅葱だった。その膝の上で丸くなっていた琳がピクリと耳を動かし、ゆっくりと伏せていた瞳を開く。
『そのようですね。これだけ待たせるんですから……手際の悪い』
 どこか刺のあるような物言いは、未だに変化はない。
 背に在る翼を消している今、話すことさえ出来なければまるきりの黒猫のように見える。
 ここは浅葱の所有する屋敷ではない。彼の上司にあたり、そして親戚として位置するものの屋敷――賀茂本家であった。
『……ですが、これ以上待たされることも無さそうですよ』
 琳の片耳が再びピクリと動き、彼は軽く伸びをしたあと浅葱の膝の上から降りて、隣へと座した。
 家人が近づいてくる音を、彼は聞き分けたのだろう。
 琳の言葉通りで、それから僅かな間の後に浅葱を呼び出した人物が姿を見せた。
「待たせてすまないね」
 そう言いながら腰を下ろす男は、優しそうな物腰の印象だ。
「……いいえ、隆信さま。お久しぶりでございます」
 浅葱はその男が完全に座するのを待ってから、深々と頭を下げた。
 名を賀茂隆信(かものたかのぶ)というこの男は、この本家の当主であり陰陽寮の長、陰陽頭(おんみょうのかみ)として宮廷に出仕する立場にある。そして、浅葱の数少ない理解者でもあった。
『…………』
 浅葱の隣で彼らのやり取りを黙って見ていた琳は、そこで何かを感じ取り己の耳を動かした。
 主はまるで気づいていないようだが、几帳の陰に潜む存在の気配があったためだ。
 おそらくは隆信と同じ時機に現れ、その場に身を隠したのだろう。
「元気そうで何よりだ、浅葱。急に呼び出してすまなかったね」
「隆信さまこそ、お忙しいのにご本家に戻られているとは……」
 浅葱がゆっくりと顔を上げたところで、二人の会話が始められた。
 琳はそれを見やりつつ、潜む存在を気にかける。決して悪しきものではなくどちらかといえば良い波動しか感じられない。だが、その身を隠すという行為自体が、琳には良いものだとは思えないのかもしれない。
「……そこの子は気づいているようだけど。実はね、浅葱に会いたいと仰る方が見えているんだ」
「え……?」
 猫である琳の、微かな反応に気づいたのは隆信の方であった。
 彼はちらりと琳を見やったあと困ったようにして笑みを作りながら、含みのある言葉を浅葱に告げたのだ。
 浅葱はそれに小首をかしげるが、次の瞬間には表情が凍りついていた。
「――!?」
「……もう、いらしているのだがね」
 曖昧な笑みを浮かべる隆信の言葉は、その隣に佇む人物を凝視する浅葱の耳には既に届いていない。スッと、几帳の影より姿を現し浅葱の目の前に立つ人物。
 それは、浅葱たち『陰陽師』を束ねる立場にある、中務卿宮(なかつかさきょうのみや)その人であった。
 官位は正四位上。八省のうちで一番重要視されている官職であり、親王のみが就くことが出来る位だ。
 陰陽頭である隆信にとっても上司にあたり、このような場所には本来居るべきはずではない。
「み、宮さま……!」
 数秒のあと我に返った浅葱は、次の瞬間には縁より飛び降り階(きざはし)の下、まさに地に額をこすり付けるようにして頭を下げてみせた。
 それほどまでに、位の差が生じてしまうのだ。
 一連の主の行動を黙って見ていた琳は、誰にも気づかれないようにして小さなため息を漏らしていた。
「ああ、いやいや。お忍びなんだ、浅葱どの」
 年の頃は二十四、五、と言ったくらいだろうか。なかなかの美丈夫であり、落ち着いてもいる。
 浅葱の反応は当たり前であるのだが若干、それに困惑の色も見え隠れした。彼の言うとおりで、隆信の屋敷に訪れたのは公式では無いのだろう。
「浅葱、上がりなさい」
「いいえ、隆信さま。わたくしは身分が違います」
 隆信の言葉に、伏せたままで返事をする浅葱。
 頑なであるその態度に、中務卿宮が小さく笑った。
「相変わらずだねぇ」
 手にしている扇をパシンと閉めて彼はそう言う。すると、浅葱の代わりに隆信が苦笑で応えて見せた。
「……実力では、貴方を宮廷お抱えに迎えたいくらいなんだよ」
「勿体無きお言葉にございます」
「浅葱どの、今日は貴方をもっと驚かせることになりそうなんだ。そんな所では話も出来ない。人目も憚るから、どうか上がって」
「……はい」
 中務卿宮の言葉に、渋々といった様子で上に上がる浅葱。それでも端近からは動こうとはしない。
 そんな主の前を、琳がスッと横切った。
『高貴な香りがします……』
「おや、君は賢いね」
 先ほどと同じように、琳は彼らのほかにもう一人の『存在』を察知しているようであった。
 几帳へと再び目をやり小さくそう呟くと、それを耳にした中務卿宮が驚きもせずにニコリと微笑み、その頭をゆったりと優しく撫ぜた。
 種族は違えど身分の高い者に仕えていた琳には、その者達が放つ特有の気が感じ取れるようだ。
 それは当然、親王たるこの宮からも感じられたが、未だに几帳の陰には残るものがある。それからもまた同じような気を感じていた。
「琳、下がって……」
 中務卿宮の手のひらの中、得意げに笑う琳を下がらせようと浅葱が僅かに頭を上げたとき、新たな人影がその視界に飛び込んできた。
「!?」
「久しぶりだね、浅葱」
「え……!?」
 聞き覚えのある通る声。
 慌てて半身を起こす浅葱の目に映るのは、気品の漂う香を焚き染めた直衣。禁色(きんじき)ではないだけまだ良かったが、その姿は浅葱にはあまりにも衝撃的であった。
 そんな『見知った顔』が、ニコニコとこちらを見て微笑んでいる。
 浅葱は口をパクパクとさせて、その姿を凝視していた。
 ――有り得ない、こんなところにいるはずがない。いていいはずもない。
 そうは心で思ってみても、浅葱がその人物を見間違うはずもなく……。
「お、主上(おかみ)……ッ!」
 ようやくそれだけを口にした浅葱は、急速に襲ってきた眩暈に意識を奪われて後ろにぱったりと倒れてしまう。
 琳はそんな浅葱に慌てて駆け寄り、様子を見やった。
 完全に気を失っている主に対して、はぁとため息をこぼす。
「おやおや……刺激が強かったようだね」
 くすくす、と笑いを隠すこともせずに楽しそうにしているのは中務卿宮だ。こうなる事は予測済みで、そしてその通りになった事に喜んでいるようでもある。
「中務卿宮さま……浅葱はまだ幼いのです。このような危険極まりないお忍びは、出来るだけお控え頂きたい。私でさえ、肝を抜かれそうですよ」
 隆信はそう言いながら、浅葱を抱き起こそうと片膝を立てようとした。
 その行動を、言葉なく止めた存在がいる。
 浅葱が主上、と呼んだ者であった。片手のみで隆信を制した彼は、静かに浅葱へと歩みを寄せてゆっくりと抱き起こす。
「……少し、悪戯が過ぎたかな」
 小さく呟かれた言葉には、少しの後悔の色。
 それを間近で耳にした琳は、黙って彼を見上げた。青年と呼ぶにはまだ若い面立ち。だが、彼から感じられる気は『天を頂く者』そのものだ。
『あなたは確かに、今上帝なのですね』
「そう、呼ばれているよ。君は、浅葱の使役の一人なんだね。宮の言うとおりの賢い子だ」
『…………』
 琳の言葉に、彼はそう言いながら微笑んだ。
 その腕に抱く浅葱をとても愛おしそうに見つめたあと、彼は隆信と中務卿宮へと視線をやった。
「すまないけど、浅葱と二人にしてもらいたい」
「かしこまりました」
 隆信も宮も、その言葉に素早く返事をする。そして二人は深々と頭を下げたあと、この室を出て行った。
 規則正しく歩みをすすめる彼らの足音に耳を傾けつつ、琳はその場に座り込んで猫のごとく丸くなってみせる。
 『彼』はそれを良しとして、静かにあるべき場所に座する。浅葱が気がつくのを、このまま待つようだ。
 浅葱を卒倒までさせたのは、こんなところでは本来会うことも適わない、それどころか内裏でも目通りすら適わない人物。
 年若き『今上帝』本人であった。