夢月夜

第三夜(三)


 ――あの男を殺したときの感触を、今でもはっきりと憶えている。

  無我夢中だった。
  あれ以上、僕には耐えることができなかった。
  だから殺した。初めて自分の手で他人の命をすり潰した瞬間だった。
  自分の身を染める紅と、視界を染める紅のいろ。
  感じたものは、狂喜と狂気。
  あの時、僕の中で何かが壊れてしまった……。

「何をしておるのだ、賽貴どの」
 廊を渡る途中、庭に結界石を突き刺す賽貴の姿を見咎めて白雪が足を止めた。
 この屋敷では浅葱が施した結界が常に張られているために、このような行動はしなくても良いはずだと彼女は思ったのだろう。
「……朔羅のためなんだ。あれの様子がおかしいのは、気づいているだろう?」
 賽貴の言葉には、一瞬の躊躇があった。言うべきか言わざるべきかで迷ったらしい。
 だが、ゆっくり思案するまでもなく賽貴はそれを口にした。
 隠し事をするには相手が悪い。
「…………」
 賽貴が結界を構築しているのは、朔羅の部屋の周りだけ。
 白雪には京の結界が破られた気配も、周囲に妙な気配も感じられない。ただ、その部屋の主の気がここ数日ひどく乱れている事だけは把握していた。
 おそらくは、賽貴のこの行動は気休めに過ぎないのだろうと思案する。
「――……」
「ここにいる」
 室から漏れ聞こえる声音。
 賽貴はそれに反応を返し、身を翻した。
「深入りはせぬが……力が要りようであれば、いつでも申されよ」
 一瞬の間、チラリと部屋の方へ視線をやりそう告げる白雪に、賽貴はただ黙って頷いて部屋に向かう。
 白雪はその背中を見届けたあと、静かにその場を後にした。

「朔羅……」
「……平気だよ。今の……誰?」
 部屋の中、小さくうずくまる朔羅の傍に寄り声をかけると彼は力ないながらも笑みを作り、顔を上げた。
 ただその返事に若干の不安がある。
「……浅葱さまを呼び戻したほうが」
「平気だって!」
 仲間の気配さえも分からなくなるほどに憔悴している事に焦りを感じた賽貴の言葉に、朔羅はわずかに語気を荒げて浅い息を吐く。
「ほんとに、平気だから。浅葱さんには見られたくない……」
「だが……」
「僕のこんな感情が流れてしまったら、苦しむのは浅葱さんだ。賽貴さんだってわかってるでしょ? 浅葱さんが苦しむところなんて、僕は……見たくない」
 虚ろな表情で訥々と言葉を紡ぎ、微かに震える手を賽貴に伸ばしながら朔羅はそう言った。
 今現在、誰よりも辛いのは彼であるはずなのに。
 それでも朔羅は、主である浅葱を頼ろうとはしない。
「……ごめん。傍に、いてくれる?」
「朔羅……。大丈夫だ、大丈夫だから」
「うん……」
 賽貴の着物を握り締め縋り付いてくる朔羅に対して、かけられる言葉はあまりにも少ない。
 あの日以来、朔羅は誰にも姿を見せようとはしていなかった。部屋から出る事もなく、賽貴以外の者が部屋に入ることも許さずに。
 彼があるはずもない『気配』に怯えていることは解っているのだが、賽貴にはどうする事も出来ずにただこうして傍について、苦しげな表情を見つめるのみ。
 それだけの日々が、虚しく続いていた。



『九条の気が、乱れていますね』
 我が家の方向へと意識を向け、呟いた琳の言葉に浅葱は札に筆を入れる手を止めて顔を上げた。
「思いのほか、長く滞在することになっちゃったから……皆がいるから、あっちは大丈夫だと思うんだけど……」
『……そうだと、いいですけどね』
「琳……?」
 浅葱の返事に対して、琳の口からポツリと漏れた言葉は含みのあるものだった。
 一瞬、聞き流しそうになりながらも浅葱はそれを聴き止める。
『いえ。……習い性ですね。これでも皇族に仕えていましたから、感覚が先に反応してしまうんです』
 お気になさらずに、と続けつつ琳は自分が組んだ前脚の上に頭を下ろした。
 賽貴と同じ天猫に生まれ落ちながら、首座に仕えると言う立場を選んだ琳の一族。その歴史は長いようで、琳もおそらくはずいぶん前からこうした感覚が経験とともに研ぎ澄まされてきたのだろう。浅葱と同じような外見の若さではあるが、彼らの世界では流れる時間が違いすぎる。
「……元の姿にまだ戻せなくて、ごめんね」
「何を言ってるんですか。僕は気にしてなどいませんよ。……それに、この姿は何かと便利でもありますしね」
「そうなの?」
「ええ」
 琳の言葉に、浅葱は首をかしげた。
 彼の言う本当の意味を理解しきれないのだろう。確かに、ヒトの姿ではなく猫の姿でいる間は、『使役』としても動きやすいという利点があった。情報を集めることも容易にできるし、隠密のような行動も取りやすい。
 そして琳の『便利』には、もう一つの意味があった。それが本当の意味である。全てを言葉にするつもりは今のところはないようだが。
「気の乱れ、か……」
 このまま琳との会話を続けることが少し難しいと判断したのか、浅葱はぽつりと別の言葉をつぶやいた。
 浅葱とて九条から流れてくる気の乱れに気付いてないわけではなかった。
 本来であれば一刻も早く、九条の屋敷に戻りたい。
 だが彼は未だに本家の一室に篭っている。
『あなたが今上帝と関わりがあるとは思いませんでしたよ。良かったのですか? せっかく帝直々に殿上の許しを頂いたのに、お断りして。あなたを信頼して仰ったのでしょう?』
「確かに、そうだけど。そして断ることも、無礼に当たる。……だけどやっぱり、個人的感情で内裏にまで赴くなんてそれこそ恐れ多いことだもの」
 決して公式ではなかったが、それでも浅葱は今上帝と対面した。
 そして彼は浅葱の殿上を許し、参内してほしいと口にしたのだ。
 迎えたばかりの女御が、物の怪に怯えていると聞いた。その女御とも面識はある。だが、浅葱は頑なに首を縦には降らなかった。己の身分を気にして頷くことができなかったのだ。
 その代わりに浅葱が直接筆を入れた霊符を献上する、ということで帝を納得させた。彼が九条に帰れずに本家の一室に篭って文机に向かっているのは、その為だ。
『浅葱どのは、己の評価が低すぎるとは思いますがね。中務卿宮……でしたっけ。あの方も、あなたの力は認めていらっしゃったでしょう』
「うん……それも、わかってる。本当のことを言えば、久しぶりに『友人』に会えたことも嬉しかったんだよ。成久さまは、少しもお変わりなかったし」
『……なんでも、難しく考える必要はないとは思いますけどね』
「うん……」
 琳の言葉通りなのだろうと浅葱は思った。
 懐かしさに甘えてしまえれば、どんなに楽しいだろうか。それでも、自分の心がそれを許さない以上はどうしようもない。
 ちなみに浅葱が言った『成久』とは、今上帝の真名であった。どうやら帝と浅葱は友情関係にあるようだ。
 自分が『陰陽師』という立場にある以上、そしてその位置に立ち続ける以上は、おそらくこの先も浅葱は朝廷に上がることはないのだろう。望めばそれも可能ではあったが、隆信という本家の適任者がいて彼を信頼している。だから浅葱は、今のままがいいのだ。
「つき合わせちゃってごめんね、琳」
『僕の仕事ですから』
 浅葱の膝の上にしっかりと居続ける琳の頭をそっと撫でつつそう言えば、涼し気な声が返ってくる。
 それを耳にした浅葱は、小さく笑みを作り軽く深呼吸をした。
 ――早く、帰りたい。
 心でそんな言葉を呟きつつ、止めたままであった筆を進め始める。
 きちんと清めた聖なる札を、出来るだけ多く。まだ、半分ほどしか書ききれていない。
「頑張ろう、あと少し」
 独り言のように言葉を漏らした浅葱は、筆に込める力を入れ直してそれを進めた。
 そうして彼が九条の屋敷に戻ることができたのは、本家に訪れてから数えて五日目の朝の事だった。