夢月夜

第三夜(四)


「おかえり、浅葱さん」
 ほとんど睡眠を取らず、本家の塗籠(ぬりごめ)で霊符を作り続け、出来上がったものを隆信に託して帰ってきた浅葱を出迎えたのは、朔羅だった。
「……ただいま。何か、変わったことは?」
「特に無かったな。……浅葱さんの方は、大変だったみたいだね」
「うん。でも、平気だよ」
 車止めからの廊下で、そんな会話が続けられる。
 浅葱は朔羅のほんの微かな気の乱れに本能で気がついたようだが、それには触れずにいた。
 彼が、いつもと変わらぬ態度で、涼しげな笑みを崩さずにいた為だ。
 そして浅葱は、自身の疲れもあるために、朔羅のねぎらいの言葉を素直に受け入れて、笑顔を返した。
 そんな彼の足元を歩く琳は、浅葱を気にしつつ静かに歩みを続けていたが、次の瞬間には別の気配を感じて、ピン、と耳がはねる。
「浅葱〜、琳、おかえりー!」
 琳が向けた視線の先から姿を現した少女が、パタパタとこちらへと駆けてくる。そして琳を軽々と抱き上げて、浅葱の隣に立った。
 琳の双子の妹の、藍である。
『……ただいま、藍。僕のいない間に、ご迷惑などかけていなかったでしょうね?』
「ひどいなぁ、何もしてないよ。今日はね、さっきまで桜姫さまにお香の合わせ方を教わってたんだから」
『なるほど、その為の衣の香りですか。いつからそんな上品な香玉を作れるようになったのかと思いましたが』
「琳はいちいち、一言多いよっ! あ、あのね浅葱。上手く合わせられるようになったら、浅葱にあげるね」
「え?」
 久しぶりになるであろう兄妹の会話を邪魔せずに、と思いながら彼らの会話を聞いていた浅葱が、突然の藍の言葉に、そんな声を上げた。
 藍は最近、少しでも女人らしいことをしようと、白雪や桜姫から色々と教わるようになっていた。それらは全て、想い人である賽貴のためなのだろうと思っていただけに、今の話の振られ方に驚いたのだ。
「貰ってくれるよね、浅葱?」
「うん、嬉しい。ありがとう、楽しみにしてるね」
 えへへ、と笑いつつの二人のやりとりを、朔羅は相変わらずの笑顔で見ていた。
 本当は、この場で立っているのも辛い状態のはずなのだが、主に対する気持ちのみが優っているために、彼は弱味などを一切見せずにいる。
「浅葱さま」
「……賽貴。ただいま」
 遅れて出迎えた形となった賽貴に、浅葱は自然と歩みを寄せて、彼に抱きついた。
 目の前には藍も琳もいるのだが、そのあたりは気に止める余裕が無いのかもしれない。そして双子たちも、それぞれに少なからずの感情を抱いてはいたが、何も言わずにいた。
「おかえりなさいませ」
 賽貴はそんな主の小さな背中に手を置きつつ、彼には気づかれないようにして、朔羅へと視線をやった。目配せをするが、当の朔羅は笑みを湛えたまま、ゆるく首を振るのみだ。
 二人がそんな無言のやりとりを交わす中、賽貴の着物を掴む浅葱の手に、微かな力が加えられた。
「……賽貴?」
「はい」
「護摩の匂いがする。……本当に、何も無かったの?」
「いいえ、何も」
 訝しげに賽貴を見上げる浅葱の目に映るのは、いつもと変わりない表情のみだ。
 それでも、微かに感じられる違和感。それが何なのかは、今の浅葱には解らない。
「朔羅の報告の通りです。護摩は一度、結界に。その時の匂いが衣に染み込んでいるのでしょう」
「そう……。なら、いいんだけど……」
「お疲れでしょう、お部屋でお休みください。寝所の準備もさせてありますので」
「うん……」
 何かすっきりしないものがあったが、背中を押され部屋へと促された浅葱は、そのままそちらへと足を向けた。 この際、琳も藍も、賽貴に部屋に戻るように促され、二つ返事を二人揃ってした彼らは言葉なく自室へと戻っていた。
「…………」
 何食わぬ顔で嘘をつき、浅葱の背中を見送る賽貴ではあったが、やはり罪悪感が働くのか心中は穏やかではない。
「……嫌な役させて、ごめん」
 そんな賽貴の心をのぞき見たかのようにして小さく言葉を発するのは、朔羅だった。
 浅葱が部屋へと向かった後、彼は笑顔を崩し、肩で息をしながら柱に寄りかかった状態であった。かなりの無理をしていたのだろう。
 浅葱が言っていた護摩は、確かにこの屋敷内で炊いていた。
 朔羅のためにと賽貴が行ったものであったが、何の効果も得ることはできなかったようだ。
「俺のことはいいから。もう部屋に戻れ。……歩けるか?」
「大丈夫……。だから賽貴さんは、浅葱さんの傍に行ってあげて」
 額にびっしりと浮かぶ、珠のような汗。見る間に悪くなっていく顔色。
 そんな状態でも朔羅は、自分を支えようとする賽貴の体を、押し戻そうとしていた。腕には全くの力は感じられなかったのだが。
「朔羅……」
 浅葱の前で、あれだけの虚勢が張れたという精神力には感嘆させられるが、こんな状態の朔羅を放っておける賽貴ではない。
「――妾が引き受けよう。賽貴どのは浅葱どのの元に行かれよ」
 音もなく静かに現れた白雪が、涼やかにそう告げてきた。彼女の白い指先は、もう既に朔羅の肩口に添えられている。
「白雪……」
 そんな彼女に対して躊躇う賽貴をよそに、白雪は次の行動に移り、真っ直ぐな視線を投げかけてくる。
「何も、伺いはせぬ。浅葱どのに見られたくはないのであろう?」
「――頼む、白雪。何か変化がある時は、呼んで欲しい」
 逡巡の後、賽貴がそう告げると、白雪が静かに頷いて、朔羅を部屋へと促した。
 朔羅はもう、言葉も交わせないほど憔悴している。今は、一刻も早く体を休ませるべきなのだ。
「…………」
 賽貴はそんな朔羅の背が遠ざかっていくのを自分の目で確認してから、自分もその場を離れた。

 静かな気配がした。
 室内で着替えをしていた浅葱は、それにゆるり、と首を動かして口を開く。
「賽貴? 入って良いよ。どうしたの?」
 御簾の向こうに在る賽貴の気配が、その場で動こうとしないのを不思議に思いながら声をかけると、ゆらりと影は揺れた。
「……失礼いたします」
 朔羅のことを話すべきか、否か。賽貴はそれについて悩んでいて、事前と足が止まっていたようだ。
 浅葱の声を合図に身を進めたが、自問の答えは出てはいない。
 賽貴が入室すると同時に、数人の女房が入れ違いになる。浅葱の着替えを終えたために退室していくようだ。頭を下げて出て行く彼女らを黙って見送ったあと、彼は静かに腰を下ろした。
「……賽貴?」
「はい」
 端近に近い場所、御簾を下げたすぐ傍で座り黙している賽貴の姿に、浅葱は小首を傾げた。
 普段であれば、浅葱の傍近くに身を寄せてくれるはずであるのに、今日のその行動に疑問を抱かずにはいられないようだ。
「そんな端っこにいなくてもいいんだよ。……本当に、どうしたの?」
「いいえ、何も」
「…………」
 声をかければ普通に返してくれるし、表情が豊かではないのはいつもの事であるが、何か様子がおかしい。
 促されるままに傍に寄り腰を下ろす賽貴を、浅葱が首を傾けて見つめていると、前触れもなく賽貴の腕が浅葱を抱き込んだ。
「……っ」
 見つめていたはずの彼の行動を完全に読み取れなかった浅葱は、目を丸くした。
 だが、直後にはいつもどおりの腕の暖かさに安心したのか、賽貴の胸に顔をうずめた。
 彼の着物から、微かに鼻孔をくすぐる香りがある。
「……荷葉(かよう)の香……」
 ぽそり、と思わずの声が漏れた。賽貴が普段から用いる香では無かったからである。
 荷葉とは、甘松、沈、甲香、白檀、熟欝金、かっ香、丁子を合わせた香のことで、蓮(はす)の香りに似せたものだ。
「賽貴……?」
 顔を上げようとした浅葱を制したのは、賽貴だった。静かに添えた右手に僅かな力を加えて、浅葱を深く抱き直すことで、彼は浅葱の抱く疑問をかき消した。
「……藍が、薫物(たきもの)を習っていると言っていませんでしたか」
「あ、そうか……。今日は荷葉を合わせたんだね」
「桜姫さまが合わせたものを、あれが持ち歩いていましたので」
「そっか……」
 その言葉に納得したように、浅葱は再度、賽貴の胸に顔をうずめた。
 自分を信じて疑わぬ、素直な主。
 賽貴はそんな主の背中に手を置きつつ、罪悪感に胸を痛めていた。
 荷葉は、朔羅の好む香。浅葱が戻るまで彼の傍につきっきりだったために、着物に香の匂いが移ってしまっていたのだ。
 浅葱に告げなくてはならない事であるが、朔羅がそれを望まない以上、今は伝えることができない。
「…………」
「浅葱さま……?」
 浅葱の体重が傾いたことに気づいた賽貴が、腕の中の主を覗き込めば、彼は眠りに落ちていた。
 五日間、まともに寝ずに働いていたのだ、仕方がない。
 賽貴はそんな浅葱の体をそっと抱き上げ、寝所に運んだ。
 先ほど浅葱にも告げていたように、寝所はすでに主を受け入れる準備が整えられていた。その場に静かに浅葱を寝かせて、上掛けとなる袿をそっと体に掛けてやる。
 安心しきった寝顔。うっすらとではあるが、疲れの色が浮かぶ頬に、賽貴は言葉なく自分の手のひらを滑り込ませた。
「……申し訳、ございません」
 真実を告げられないこと。
 嘘を伝えてしまったこと。
 小さく音にされた言葉は、眠っている浅葱には当然届くことはなく。
 賽貴はしばらくそのまま、その場で座したままでいるのであった。