夢月夜

第三夜(七)


 ――子の刻。

 承香殿の庭先に下りて、浅葱は空を仰いでいた。
 やけに生ぬるいと感じる風が、肌にまとわりついてくる。それに眉根を寄せつつ、浅葱はおもむろに懐から式神符を取り出した。
「颯悦」
 静かに名を呼び、符を宙に放つ。
 するとそれはふわり、と宙を舞ったあと、符としての形を崩して姿を変えた。
 颯悦が符から出てきたのだ。
 彼は最小限の音で地に足をつけたあとに、浅葱に向かって頭を下げる。
 風を自在に操ることができる颯悦は、この場でなすべきことがあるのだ。
 部屋の奥、承香殿の室には現在、女御によく似た女房を控えさせて、傍には白雪を置いている。
 いつもであれば女御を囲み見目の良い女房たちが集い、華やかな空間であるはずの場所が、今は静まり返っていた。
「……風を」
「御意に」
 浅葱が更に懐から取り出したものは、先ほどここの女房に頼んだ薫玉であった。
「これを、風に乗せて誘い出す。間違いでなければ、接点はここにある」
「はい」
 彼の足元には、颯悦が生み出した小さな風の渦がある。
 浅葱は静かにそう言葉を告げたあと、手にしていた薫玉をあらかじめ用意してあった香炉に入れて、香を炊き始めた。
 そして足元の風の渦の中心に置いて、一歩下がる。
 傍らに立つ颯悦が、それを確認したあと再び風を操った。
 ビュオ、と一度激しく音を立てて、その風は舞い上がる。頭上まで行ったそれは、ゆっくりと空に溶けて行った。
「…………」
 浅葱は自分の髪を押さえつつ、風の行方を見守る。
 自分の行動と考えは間違ってはいないのだが、僅かに感じる胸騒ぎがある。
 どこかで、何かを見落としているような気がして、浅葱は視線を落とした。
「……さいき……」
 思わずの名が、唇からこぼれた。
 浅葱はそれに焦り、慌てて口元に手をやり、踵を返す。
「部屋に戻ろう……颯悦」
「……はい」
 『餌』は仕掛けた。あとは相手が掛かるのを待つだけだ。
 完全に人払いを行い、承香殿の周りの結界も既に強化済みである。
 何も、手はずは違えていないはずだ。
 そう自分に言い聞かせて、浅葱は一つの室に颯悦とともに戻った。



 眠りについて数刻の後に目を覚ました朔羅は、賽貴の背にもたれながら浅い息を吐いていた。その体は女性体のままだ。
 先刻から熱が出始め、その影響で頬がほんのりと赤く上気している。
 やがて、ほぅ、とため息を吐き、続く吐息でクスリと笑った。
 それに反応して、賽貴が首だけで振り返る。
「……どうした」
「こういう時、『生きてるんだな』って、感じるよ……」
「何を言ってるんだ……」
 どこか遠くを見ていう朔羅に対して、賽貴は視線を戻して背中を貸したまま呆れ声を返す。
「……浅葱さん、遅いね」
「そうだな」
 わずかな間を置いて、朔羅が再びそう言った。
 浅葱が内裏に向かってからもう随分と経っている。未だに戻る様子も見られず、ただ時間が静かに過ぎていくのみだ。
『――主殿は帰られませんよ。……どういう状況ですか、これは』
 一つだけ上がっている格子から、黒い影が舞い込んできた。
 一度、九条邸に報告に戻るように浅葱から言いつけられた琳であった。身軽にぽん、と片足を下ろしたあと背中の羽根をしまい顔を上げて、その眼前に広がる賽貴と見知らぬ女の近すぎる距離を見て、動揺をあらわにする。
 二人がまとうただならぬ雰囲気に、琳は一歩後ずさった。
「琳」
 賽貴が少しだけ気まずそうな声音で、彼の名を呼ぶ。
「あはは……見つかっちゃったか」
 彼の背でクスクスと笑う『女』が、琳を見やりながらそう言った。
 琳はそれで、相手が誰であるのか瞬時に把握する。
『……貴方、朔羅どのですね』
 確認のために発した琳の言葉は、若干呆れの色を含んでいる。
 朔羅のこの姿を見たことは今まで無かったが、白狐族にそう言う種がいることを知っていた彼にとっては、容易なことだったのかもしれない。
「琳、結界が張ってあったはずだが?」
『僕は、主殿の力で、どこでも通り抜けられるようになっているんですよ』
 賽貴の言葉に、琳は静かにそう答える。
 朔羅は相変わらず賽貴の背にもたれたままで、クスクスと笑っていた。着物の袖から覗く腕が、やけに艶かしく見える。
『……馬鹿なことを言うつもりはありませんが、主殿には決してお見せできない光景ですね』
「うん、だから黙っててね」
 琳が嫌味混じりにそう言うも、朔羅は動じずにいる。そしてさらに賽貴に絡んで見せる。上気した頬のせいで、余計にいやらしく見えた。
『…………』
 ――自分には関係ないからいいですけどね。
 琳は心の中でそう呟いたが、それでも浅葱を思い浮かべてしまう。
 だが、それ以上を彼は自制して、再び口を開いた。
『賽貴さま』
「……なにか、わかったのか」
『主殿には、伝えてませんが……』
 賽貴に向き直り、琳は話を切り替えた。
 そこまでを告げて、言いよどみを見せ、一度ため息をついてからまた続ける。
『先日の、颯悦どのの報告から照らし合わせ、そして、朔羅どののその状態を見て、僕が勝手に推測したのですが、おそらく間違いないかと』
「――聞こうか」
 そこで空気が一変した。
 笑みを浮かべていた朔羅も、口の端を下げて琳を見やる。
『今、主殿が掴もうとしている存在。それは今夜中にはこちらに向かうでしょう』
 そこまで言ってから、琳は朔羅へと視線を移し、ハッキリと告げた。
『あなたの元へ』
「――……」
「そう……。やっぱりね……」
 深い、ふかい溜息を吐きながら、朔羅はそう言った。
 口元には皮肉げに歪められた笑みが浮かんでいる。
 手が自然に震えだし、それに気づいた賽貴が、当たり前のように握りしめてやっている。
『……お似合いですね、お二人共。賽貴さまがそこまで積極的になられているのは、初めて見ます』
 ――それほど、こちらには余裕がないのですね。
 そう繋げて、琳はくるりと踵を返した。
「琳」
『わかっています。主殿には何も言いませんよ。貴方がたの口からどうぞ。……手遅れにならぬうちに』
 賽貴の声に、琳はまたそう言って、床をひと蹴りして宙に浮いた。浅葱の元に戻るのだろう。その身体が降下する前に背中に翼が生え、バサリと羽ばたく。
「…………」
 飛んでいく琳の姿を、賽貴は黙って見送る。
 朔羅も辛そうにしながら、琳の後を目で追っていた。
 小さな羽ばたきの音が遠くなって、再びの静寂が戻ってくる。
 ふぅ、と溜息をこぼす朔羅に、賽貴が反応を返した。
「……大丈夫か」
「大丈夫じゃないよ。……言っても、仕方ないけどね」
「朔羅」
「もう、離れたほうがいいね。この先は、僕のそばに居なくていいよ。危ないから」
 朔羅はそう言いつつ、自らの腕に力を入れて、賽貴の背中を押した。そうすることで自分の体を起き上がらせたのだ。
 賽貴はその言葉に一瞬の反応が遅れた。
 慌てて振り向いたが、朔羅は彼の視界を手のひらで遮る。
 そして、一瞬だけその唇に自分のそれを重ねて、浅く笑った。
「――まったく、賽貴さんは僕に甘すぎるんだから。大事なもの、気持ちまで流されないようにしてよね」
 さらり、といつも通りの軽い口調でそれだけを言い残し、朔羅は賽貴から距離を取るために、その場から姿を消した。