夢月夜

第三夜(九)


 燈台の上の炎がゆらり、と揺れた。
 静かに自室に座していた賽貴がそれに気がつき、言葉なく顔を上げる。
「……浅葱」
 無意識に唇から漏れ出た言葉は、己の主の名前だ。
 こちらに向かっている彼らの気配を感じとったのかもしれない。そしてその表情は、決して明るいものではなかった。
 今度こそ、朔羅のことを主に打ち明けなくてはならない。だがそれ以前に、大きな問題を抱えて浅葱はこの九条に戻ってくる。
 膝の上に置かれている握りこぶしが、さらに握りこまれた。
 良くない気配と、ざわつく心。こういう時は必ずと言っていいほど、憂いごとが重なる。
「…………」
 一度、深い溜息をこぼしたあと、賽貴はゆっくりとまぶたを閉じた。


  色を失ってゆく世界。
  擦り切れてゆく心――その先にあるのは、繰り返される悪夢と、戯れ。

  白狐族は五人に一人の割合で、両性体が生まれる。
  これは病気でもなんでもなくて、連綿と繋がれてきた血の歴史だった。
  そんな中、僕も両生体として生まれた一人だ。
  成人を迎えるまで、男でもなく女でもない身体で育てられた。
  僕はそれなりに高い地位にいて、生まれた時から許嫁と言う存在がいた。
  結局、僕には女としての『道』がすでに引かれていたんだ。
  だって僕の相手は、男だったから。
  両性体は成人後、伴侶となる相手の性別一つで身体をつくりかえる。それは自然のままに。
  どちらの性にでもなれる体質ではあったが、伴侶との離別以外で変化する者は少なかった。

  僕は、成長しても男よりも骨格が細く、色素も全体的に薄かった。それが、最初から女となることを周りから決められていたせいかは分からないことだけど。

  僕の許嫁は、黄絽(こうろ)と言って、快活な男だった。
  幼馴染でもあったので、小さな頃は毎日遊んだりもした。
  僕は黄絽に好意を持っていた。
  少なくとも、好きではあったんだ。恋愛感情なんてものは、もちろん抜きで。
  
  一族で定められた掟があった。
  厳格に守られてきた、それらのしきたりの中でも、両性体に関するものは特に厳しいものだった。
 『成人を迎えるまで、男女の関係を持ってはいけない』
  それは、僕のように許嫁がいる者も同様だった。
  いや、相手が存在する時点でより厳しく監視の目が置かれていたように思える。
  ――なぜ?
  そう問うものは、白狐族の中にはいない。
  変化前の身体は非常に繊細で、少しの衝撃でも死に至ることがある。
  そして、変化ができないまま、成長が止まる可能性も少なくはない。
  二割という高確率で生まれる両性体。
  種族を守るために必要とされた当然の掟。
  僕にとってはそれが当たり前で、同じように黄絽も理解していると、カケラほども疑うことはなかった。

  成人を迎える一年前。僕はひとりで月を眺めていた。
  月を見上げるのは大好きだった。
  成人間近の両性体は、体のことを考えて隔離される。
  その間は誰にも……もちろん許嫁とも会うことは出来ない。
  僕はそれを寂しいとは思わなかった。
  ……恋愛というものを理解していなかった僕には、狂おしいほど誰かと求めるという気持ちも、知らなかったから。

  中庭の池に足を浸しながら、僕はずっと月を眺めていた。
  ボンヤリしすぎて、結界が破られたことを察知できなかった。
  気がついたときには黄絽は僕の目の前にいて、それでも僕は、いつもと変わらぬ調子で彼に話しかけた。
 「黄絽、ここは立ち入り禁止だよ?」
 「朔羅……」
  何が起ころうとしているのか、事が始まるまでわからなかった。
  無垢と無知は紙一重なんだと、今となっては思うけど……。
  黄絽は禁忌を犯した。
  人間が動物に対して言うところの、発情期みたいなものだ。
  彼はそういう状態に陥っていて、僕はあっさりとその手に落ちた。

  ――僕は、成人の年になっても、成長の兆しが見られなかった。

  自分から変化することは、怖くて出来なかった。
  でも、黄絽が裁かれることは無かった。
  僕より位は高かったし、何よりも『男』であったから。
  対照的に、未来の無くなった僕への救済は何もなく、お役御免とばかりに母共々に打ち捨てられた。
  そして、それを哀れむものは一族にはいなかった。
  寄る辺を失った僕を待っていたかのように黄絽が現れ、僕をそばに置いた。母はその後、どうなったかわからない。
 『哀れな朔羅……』
  歪んだ笑みを浮かべながら、黄絽が言った。
  下卑た笑みだった。
  そうして――。
  僕は逃げることも適わないまま、黄絽の好きなように扱われた。
  毎日毎日、飽きることもなく繰り返される行為。
 『情けをかけてもらい、ありがたいと思え』
 『傍にいれば、何不自由ない暮らしを約束してやる』
  黄絽は暴れる僕に、いつもそう言い聞かせた。
  彼が僕を愛しているのは、よく分かっていた。たとえ、相手を支配することでしか満たされない歪んだ感情だったとしても、それは確かに愛だったのだろう。
  他に正式な妻を娶るかと思えば、それをしなかったのだから……。
  黄絽は、おかしくなっていたんだと思う。
  僕が隔離されたとき、彼は変わってしまったと言っていた人がいた。
  僕の意思を無視して注がれ続ける屈折した愛情。
  そこから逃れる術も知らず、日々は繰り返される。
  僕は、いつしか抵抗することをやめていた。
  自分の身体が悲鳴を上げているのは解っていたけど、心の方がもう疲れていて、このまま飼い殺しでもいいと思えるようになっていたんだ。

  ある日を境に、僕の体は食べ物を受け付けなくなっていた。
  口に含むまでもなく、匂いだけで吐き気がして、水さえも飲めない日々が続いた。
  黄絽は僕を労わることはせず、衰弱していく身体を弄び続けることに興じていた。
  自分さえよければ、それでよかったんだ。
  だから僕は、全てを終わらせようと思った。
  死が避けられないものなら、解放されてから死にたかった。
  そこから先の記憶は、紅。
  深紅が視界を支配していた。

  ――紅。
  ――紅。
  ――紅。

  床も、壁も、調度品も、何もかも。
  僕自身も紅く染まっていたし、黄絽も全身を紅に染めていた。
  その日の僕には、空に浮かぶ月さえも紅く見えた。

  死んだ、と。
  殺したと。
  信じて疑わなかった。
  ……嬉しかった。
  自分の手で黄絽を殺せたことが? 解放されたことが?
  わからない。
  けれど……。
  何か、快感に近いものを感じたんだ。
  だから――。
 『――だから、人に知られたくなかったんだね。ううん、私に知られたくなかった……』
  ――誰?
 『辛かったんだね。……ごめんね、気がついてあげられなくて』
  ――謝ることは無いよ。
 『ごめんね』
  ――どうして謝るの?
 『私はあなたの主として、何が出来るのかな……』
  何も望まないよ。
  何も、いらないんだ。
  ただ、君にはどうしても、知られたくなかった。狂気に彩られた僕の過去を。

「――浅葱、さん」
「さく……ら……っ、めん、なさ……!」
「……ッ!? 浅葱さん、……まさか、本当に……!?」
 朔羅には、何が起こっているのか解らなかった。
 急に、過去の記憶が頭が巡ったかと思うと、突如として浅葱が現れそして今、目の前で大粒の涙を零している。
「ごめんなさい、ごめ、んなさ……っ ごめ……ッ!」
「浅葱さん……!!」
「もう、やめて……! 見せないでっ お願い! 朔羅をこれ以上苦しめないで……!!」
 朔羅に縋り付いて泣きじゃくる浅葱。
 困惑しながらそれを抱きとめる朔羅。
 浅葱の身体に触れた瞬間、ざわり――と肌が粟立った。
 有り得ない。
 浅葱に対して抱くはずもない嫌悪感が、全身を駆け巡る。
 その正体を察する前に、浅葱の唇から溢れ出る声があった。
『……ああ、お前は今でも、綺麗なままだな。……朔羅』
「――っ!?」
 主の口から紡がれる言葉に、朔羅は身体を震わせた。
 忘れえぬ口調。
 日々刷り込まれ続けた、『あいつ』の言葉。
『探したぞ……。俺はお前を、ずっと探していた』
 反射的に浅葱を突き飛ばしそうになりながらも、朔羅はそれを必死で抑えた。
『朔羅……。あの頃より、綺麗だな……』
「……、黄、絽っ しゃべるな……ッ!」
 朔羅の髪の毛が、音を立てて逆立った。金色の目が、いっそう輝き出す。
『忘れたのか?』
 ククッと笑い、その肩が小刻みに揺れた。『浅葱』であれば決して見せることのない態度だ。
『俺はお前に言ったはずだ。どんな状況下になろうとも、お前は俺から逃げられないと』
「……聞きたくないッ!!」
 浅葱の声で、語られる災厄の記憶。
 叫んだ朔羅に、浅葱が――否、浅葱の姿をした黄絽が、にやりと笑った。
『逃げられないんだよ。今もこうして、俺はここにいる』
 あの頃と変わらぬ下卑た笑み。
 朔羅の脳内はずっと落ち着かない状態だった。グラグラと目眩がして、吐き気が止まらない。
『さぁ、どうする朔羅? 俺をもう一度殺して逃げるか? 主もろともに……』
「――黄絽ッ!!」
 何を言おうとしたのかはわからない。だが、どうしても耐えることが出来なかった朔羅が声をあげた瞬間、朔羅は胸を押されて、よろめいた。
 ドン――と、鈍い音が聞こえる。
「……?」
 僅かな静寂。
 そして、驚愕の声が響く。
『お前……何故!?』
「目障りだからだ。……それに」
 淡々とした口調で応じたのは、いつの間にか浅葱の背後に現れていた賽貴。
「死にたいんだろう? 望み通りに殺してやろうと、こうしたまでだ」
 彼の表情は、いつもと変わらず。
 しかし、その瞳に宿すものはいつもの静けさではなく、どこまでも昏い闇。
 背筋が凍るほどに冷たい瞳で、賽貴は黄絽を見下していた。
「賽、貴……さん……?」
 震える朔羅の声。
 それに呼応するように、ポタリと何かが地に落ちた。
 紅い雫。
 ――ポタリ、と。
 浅葱の体、その背中から流れる鮮血が、何もない空間を辿って地に落ちる。
 否、それは刃(やいば)だった。
 賽貴が手にした刀身の見えない刀。それが浅葱の体を貫き、命の証を滴らせ続けている。
「……、なん、で……」
 朔羅の声音が、乾いて掠れていた。
 目に映る景色が現実だとは到底思えなくて、彼はゆるく首を振る。
(朔羅……)
 そんな朔羅に呼びかける、小さな声があった。
(わたしは、大丈夫……。大丈夫、だよ)
 か細いその声は、朔羅の頭の中に直接響くようにして届けられる。
 浅葱の声だ。
(確かに、貴方の目の前にいるのは、私。……そんな私を躊躇いもなく刺したのも、賽貴。でも、わたしは大丈夫だから……)
『朔羅……』
 胸を貫かれたまま、黄絽がゆっくりと手を伸ばしてきた。
 あと数センチで、届かない距離。
 朔羅は全身が総毛立つ感覚を抑えながら、気を静めるように大きく息を吐いたあと、ゆっくりと黄絽を見据えた。
『お前を、愛している』
「……僕の知っている愛とは随分違う」
 皮肉げに歪められた口元。金の双眸が、ゆらゆらと揺れる。
『朔羅』
「…………」
 ゆっくりと自分を取り戻した朔羅は、改めて目の前の黄絽を見やった。
 早く、はやく。
 ――そんな気持ちが、じわじわと心にあふれてくる。
『朔羅、愛している』
「それは、僕には伝わらないよ」
『愛してる』
「僕はもう、あんたには捕まらない」
 繰り返される言葉に、彼はどんどん冷酷になっていく。
 そして朔羅は、自分に伸ばされたままの『浅葱』の手を取り、ほんの少しだけ腕に力を入れた。
 ――ゴキン!
 鈍い音が響き、朔羅の手から解放された腕は、肩からダラリと垂れた。
『朔羅……』
「……殺していいって、言ったよね?」
 首を傾け、見下すようにしながら一歩、黄絽に近づく。
「あんたは僕の半生をめちゃくちゃにした。……そして今、僕の大事なものを汚してる。許せると思う?」
 また、一歩。
 ゆっくりと左手を伸ばし、細い首にかける。
「……好きだったよ。少なくても遠い昔はね。でも、愛してはいなかった。今の僕にはあんたよりもっと好きな人がいるんだ。比べることが愚かだと思える程にね」
『さ……くら……』
「ねぇ、誰だかわかる?」
 腕に力を込めると小さな体は難なく宙に浮き、ギリギリと首を締め上げられる感覚に黄絽が喘ぐ。
 切迫した空気だった。
 彼らの周りには白雪を始め、式神たちが揃っていたが、誰も口出しはできない状態だ。
「あんたが捕らわれてるその小さな体! 僕の全ては今、そこにあるんだッ!!」
 再び、鈍い音が響いた。
 語気の強い言葉と共に力いっぱい突き出した右手は、浅葱の左胸に沈み、心臓を掴んでいる。
 ドクン、ドクンと脈打つ感触が直に感じられた。
「後悔させてあげる。僕を、浅葱さんを、苦しめたこと」
『さくら……』
 ゴポリ、と。
 口の中から溢れ出た血が、腕を伝った。
「……転生だってさせてやらない。ずっと苦しんでもがいて、人から忘れ去られる地獄の苦しみをあげるよ。哀れな黄絽」
 その言葉のあと、静寂が広がった。
 黙って場にいた白雪たちは、思わず顔を背けている。
『さく……ら……』
 飛び散る鮮血と、紅く染まる朔羅の顔。
 手からこぼれ落ちる肉片。
「……、白雪。再生させて、今すぐに……ッ!」
「――承知しておる」
 ガタガタと震える声に我に返った白雪が、浅葱の体の傍らに座った。
 見るも無残な浅葱のその身体は、ピクリとも動かない。
「……ッ」
 刀を掴んだままで一部始終を黙って見つめていた賽貴の腕は、明らかに震えていた。
「申し訳ありません、浅葱さま……ッ」
 ギリ、と歯ぎしりの後に紡がれる言葉にも、平静な色は見られない。
 ――嗚呼。
 そう、誰もが心の中で静かに呟く。
 我が主の選び取った答えは、あまりにも残酷だ。
「……大丈夫なわけないじゃないか、浅葱さん!!」
 響き渡る朔羅の声。
 彼を苦しめていた黄絽は、滅びた。
 もう、微かな気配すら感じない。
 ただ……浅葱もそこで、息絶えていた。