夢月夜
第四夜(一)
京の都の木々が錦色に染まる頃。
しばらくの間、猫の姿で浅葱の使役として動いていた琳に変化が訪れようとしていた。
「……無理をなさっているのではないですか」
「平気だよ。逆にこんな時期までその姿のままでいさせちゃった事が、申し訳ないって思ってるくらいだもの」
小さな法陣を描きその中心に琳を座らせた浅葱が、静かな口調でそう言った。
術を施される琳のほうが若干、何か少し焦っているかのような声音である。
「僕は別に、急いでもいないのですが」
「……なんだか、人形(ひとがた)に戻るのが嫌みたいな言い方だね?」
「そ、そういうわけでは」
小首をかしげて苦笑する浅葱に、琳が珍しく言葉を詰まらせた。
浅葱の傍に控えていた賽貴がその変化に気がつき、僅かに目を細める。
「何か特別な理由とかあったりする?」
「い、いいえ。何もありません。この姿でいることが長かったせいなのか、楽な方に考えてしまったのかもしれません」
賽貴の空気を肌で感じとったのか、浅葱の新たな問いかけに答えた琳の声は上ずったものになっていた。
そして彼は背筋を正して、座り直す。
「大変失礼いたしました、浅葱どの。よろしくお願いいたします」
改めてのきちんとした言葉が、琳の口から告げられる。
それを耳にした浅葱はこくりと頷いて、すらりと手を差し出す。手首に巻かれた青緑色の数珠がゆらりと淡く光って、彼の体の霊力を促し始めた。
しん、と静まり返る室内。
浅葱の傍で座したままの賽貴は、ただ静かに主の行いを見守っている。ほかの式神や使用人などは、あらかじめ人払いしておいたので周囲に気配もない。
「では、始めます」
一度口を引き結んで、その後に響いた浅葱の言葉は心なしかいつもより凛々しいものに聞こえた。
琳はそれを見上げ、そしてゆっくりと瞳を閉じる。これから起こる全てを受け入れるという証だ。
琳の周りを囲む法陣がふわりと青白い光を生み出し浅葱の口からは呪が紡がれて、空気が一変した。
「――――」
黙して語らずを貫く賽貴が、浅葱の姿を見やりつつ小さく眉を動かした。
僅かにだが、浅葱を包む霊力が強く感じたのだ。
元々、『陰陽師・浅葱』は高い霊力の持ち主ではあるが、今までよりその波動が大きいように思える。
そこまで思考を巡らせて、彼は心で「ああ」と納得の声をあげた。
今日は、満月。
陰陽師として、最も霊力が高まる日なのだ。
ピリ、とわずかに肌が痛むような感覚。どこまでも清らかで、鋭い能力(ちから)。
元は妖(あやかし)である賽貴やこの屋敷内の他の式神にとっては、本来であれば驚異になる。
この小さな体に、未知数の秘めたる霊力。
満月の力に加え少しの成長をそこで感じた賽貴は、誰にも分からぬようにして密かに笑みを零していた。
「少し、背が伸びたのではありませぬか」
そう声をかけたのは白雪であった。
ひとつの依頼を終えて屋敷に戻ってきた浅葱の姿を改めて見て、そう感じたらしい。
「そうかな。自分ではよくわからないんだけど」
依頼主から受け取ったらしい謝礼の品などを賽貴に預けながら、浅葱はそう言った。美しい櫛箱と見事な反物は、彼には少しだけ派手なものであった。
「浅葱どのは成長時期でもあります。近頃の霊力の高まりもそれ故なのでしょう」
賽貴から反物を受け取りつつ、白雪は満足気にそう言った。浅葱を我が子のごとく見ている彼女にとっては、主の目に見える成長もまた嬉しいことなのだろう。
「……賽貴?」
「はい」
浅葱は賽貴を見上げつつ彼の名前を読んだ。
視点はさほど変わりないように思える。それでも白雪が言うのだから少しは背が伸びたのだろうと思うのだが、いまいち実感が得られないようだ。
「その……伸びた、かな?」
「そうですね。若干、成長されたように思います。……ほら」
「!?」
賽貴は人目も憚らずに、浅葱を己の腕に招き入れた。
目の前にいた白雪は一瞬だけ瞠目するが、直後に呆れたような表情を浮かべる。
当の浅葱は、驚きとその後の羞恥心で心中が大変なことになっていた。
「さ、賽貴」
「私の声が聞こえる位置、変わっていませんか?」
浅葱が慌てて賽貴の腕の中から逃れようとするが、それは彼の手のひらによってあっさりと遮られる。後頭部あたりを押さえつけられて、動くことが出来ないのだ。
背が伸びたと言われはしたが賽貴とは変わらずの身長差があるために、力の差も変わりない。
だが。
浅葱自身にも僅かに違うと思える事があった。賽貴が言ったとおり彼の声が伝わる場所が心なしか以前より低い気がするのだ。
「わかりましたか?」
「う、うん……」
再びの声音を耳にして、浅葱はこくりと頷く。
そして彼は今度こそ、賽貴からゆっくりと離れた。頬は桃色に染まっている。
「――ちょっと、浅葱ッ!!」
「は、はいっ!」
恥ずかしさから顔を上げられない浅葱の背後に、元気な声が飛んできた。
予想外であったために、浅葱は思わず背筋をピンとさせておかしな声音で返事をする。
賽貴はその僅かな間に一歩下がり、きちんと距離を取っていた。
「説明してよ、どういうこと!?」
「ら、藍……あの、これは……」
目を釣り上げて明らかに憤怒している様子の藍が、浅葱に詰め寄ってくる。
浅葱は賽貴との事を見咎められるのかと思い、焦りの色を見せて口ごもった。
「藍、浅葱どのは今お帰りになったばかりですよ。失礼じゃないですか」
「だって、琳! あまりにも不公平じゃない!!」
藍の後ろに見えた人影が落ち着いた口調で彼女を諭す。人形に戻った琳だった。
その琳に首だけで振り向き、藍は右足をだん、と床に叩きつける。
その様子に呆れた表情を浮かべるのは琳だ。
「……藍。僕は主殿には先に言うことがあるでしょう、と言ってるんですよ。お前は桜姫どのや白雪どのに普段から何を習っているのですか」
「だ、だってぇ……」
「――我が妹が失礼いたしました、浅葱どの。そして、お帰りなさいませ」
藍の肩に手を置き、そして彼女をつい、と横に移動させつつ己の足を一歩進めた琳は完璧な所作で浅葱の前で会釈をする。
「ただいま、琳。体には不調はなさそうだね」
「このとおり、どこにも変化はありません。それどころか、以前よりとても快適ですよ」
「!」
浅葱の言葉を受けて次に琳が起こした行動は、少し意外なものだった。
目の前の浅葱の右手を自然に取ったのだ。
その場にいた誰もが、その行動にそれぞれに小さな反応を生み出す。
「り、琳?」
「……かすり傷、ですか。あなたはいつでも怪我が絶えませんね、浅葱どの」
「!!」
二度目の衝撃が訪れた。
珍しく賽貴の感情が大きく揺れて、周囲の木々がざわりと揺れる。
いつものように日当たりの良い庭の木に腰掛けてうとうとと微睡んでいた朔羅が、それを受け止めて苦笑を漏らした。そしてゆっくりと体を起こして、問題の足元へと視線を落とす。
いとも簡単に浅葱の右手を取った琳は、そう告げたあとにその右手を自分の口元に持っていったのだ。そして小指の付け根に薄く出来ていた傷へと唇を寄せて、彼は小さく笑う。
白雪も藍も、琳の大胆な行動に瞠目しか出来ずにいた。
浅葱は目を丸くしながら真っ赤になっている。
「今日は賽貴様もご同行されていたのですよね? 主殿に怪我を負わせずにいるのも、式神としての務めなのではないですか?」
「――――」
挑戦的な響きだった。
賽貴は黙ったままだったが、眉根が僅かに動いている。感情的には良いものではないと誰もが分かった。
琳のそんな態度を目の前で見て、藍は冷や汗を浮かべる。
少し前までは同じくらいの背丈であった兄は、いつの間にか浅葱の背を僅かに超えるほどになっていた。そんな彼のあからさまな態度に、動揺を隠せないのだ。
「り、琳……」
「藍、浅葱どのにかける言葉を僕はまだ聞いていませんよ」
「……お、おかえりなさい、浅葱……」
控えめな声をかければ、彼はいつもどおりの口調で藍にそう促してくる。
藍はそれに従うしかなく、たどたどしく言葉を繋げた。
「浅葱どの」
呆けたままでいる浅葱に、白雪が声をかけた。
すると浅葱は慌てて一、二度の瞬きをしたあと藍に視線をやって「ただいま」と返事をした。
「……藍は、浅葱さまに何用があったのだ」
賽貴がそこでようやく、静かに告げた。
敢えて、琳の言葉を無視した形だった。
「え、えっと……だって、琳の背が高くなって……それで……」
「ああ、それで『不公平』って話だったんだね……。私も最初は驚いたんだけど、琳も私と同じで成長期だからかな」
「だったら、アタシも同じじゃない! アタシだけ置いていかれてるみたいでイヤなの!」
藍が怒鳴り込んできた件は、琳の成長のことだったのだ。
彼女は兄が勝手に背が伸びたことに腹を立てて、納得ができずに浅葱に詰め寄ってきたのだ。
浅葱はそんな彼女の言葉を受けて、小さく笑った。決して嘲るわけではなく、藍が可愛らしいと感じたからだ。
「藍は女の子だもの。ゆっくりと女の子らしく成長していったら良いんだよ」
「…………」
ぽん、と浅葱が藍の頭の上に手を置いた。そしてそれをゆっくりと動かして、彼女の髪をやさしく撫でながらそう言うと何故か藍の頬が僅かに染まる。
「……おやおや、浅葱さんもなかなかのやり手だね」
自覚はないようだけど、と独り言を続けるのは高みの見物を続けている朔羅だ。
その表情はとても楽しそうであった。
「とりあえず、浅葱どのは帰られたばかりです。お着替えを済ませて休ませたいのですが、よろしいですか?」
そう切り出したのは白雪だ。
確かに、ここは車止めからの廊下。そこで浅葱を出迎えた白雪にとっては早く主を自室へと導き労いたいのだろう。
「一刻ほどの後、お部屋にお伺いします。浅葱どの」
「あ、うん。わかりました」
白雪の言葉に逆らう者は誰もいない。それが合図になり、浅葱は廊の先を進み始める。
すると琳が頭を下げながらそう言ってきた。浅葱が不在の間の様々な報告は彼の役目であるために、必然とされる言葉の響きだった。
だが。
「浅葱さまはこれよりお休みになる。従って用件は私が聞く。いいな」
「……珍しいですね、賽貴様。あなたがそんな風に僕を牽制なさるなんて。ですが今は、解りましたと言っておきます」
猫の姿であった頃の方が、よっぽど聞き分けが良かった気がすると感じたのは賽貴だけなのだろうか。
いつもより低い声音で琳にそう告げた賽貴であったが、あまり効果は見受けられない。
琳のより磨きのかかった高慢な態度に、賽貴の冷静さがどこまで保てるのか。外から見てる分には楽しいが、本人の心中は決して穏やかではないだろう。
「うーん、これは……僕にとっても厄介なことになるのかなぁ」
相変わらずの独り言を繰り返す朔羅の表情は、笑を含みながらも複雑そうだ。
そんな彼の視界の端に、わずかに写りこんだ影があった。京(みやこ)の見回りに出払っていたはずの紅炎だった。
移動する浅葱たちの姿を、彼女は遠巻きに見つめている。
「……紅炎?」
いつもであれば主へと報告のために歩みを寄せる仕草を見せるはずなのに、彼女はその場に立ち尽くしたままだ。
その姿に、朔羅は眉根を寄せる。
明らかに違う顔。苦しそうな、それでいて悲しいような。
そして彼女は、ふらりとした足取りでその場を後にした。自室へと戻るのだろう。
自分の立場を誰よりも理解し、その行動を違えるはずもない紅炎の意外な顔。それを偶然にも見てしまった朔羅は、ますますその眉を寄せて、音もなく木から飛び降りるのだった。
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