夢月夜

第四夜(十)


「ああああぁああぁぁぁ……ッ」
 叫び声がこだました。
 悲痛な響きに狂気が混ざり合い、異常な声質だと思えたがその場では誰も気に留める事はなかった。
 無視しているわけでない。
 誰もが余裕が無かったのだ。
 ポタ、と足元で聴こえた液体の落ちる音。
 それに視線を動かせば、温かい血が滴っているのだと理解して、絶望する。
 
 ――『彼』は、そこにいるだけで救いの対象であった。
 優しい声音、柔らかな空気、温かい手のひら。
 庭先に集まる和やかな雰囲気。
 誰もが彼を慕い傍へと寄った。
「瀞さま……」
 もう一度、名を呼ぶ音がした。
 賽貴が発したものである。
 目の前の惨状を、彼は穏やかな気持ちで受け止めていた。
 悲しみが無いわけではない。視界の端で悲痛な叫びを上げ続けている朔羅とは違い、彼は静かに物言わぬ主の体を見つめていた。
 無残な姿である。三尺ほど先に転がっている瀞であった物の躯には、首が無い。
「…………」
 朔羅を含め、周囲で式神たちが嗚咽を漏らしている。一つ目族の少女はあまりの事に屋敷を飛び出し、すでに気配すらない。
 瀞付きの女房などは声をも出せずに数人倒れ、他の家人に局へと運ばせている最中だ。
 とにかく今の現状は『悲惨』そのものであった。
 諷貴が九条邸に通うようになってから、いずれはこうなってしまうだろうと言う気持ちが賽貴の中にはあった。
 誰にも言わず、ただひたすらに心の中で描いていた光景だ。
 兄は誰にも止められない。自分にも、瀞にすらも。
「……いや、それは、思い込みか……」
 綺麗な赤色で滑る己の指を数回動かし、彼は力なく苦笑する。
 絶対的な存在を前に、自分はただ逃げていただけではないのかと思う。
 苦手意識が勝り、どうにかしてそれを回避しつつ、仮初の幸福感を抱き続ける。
 瀞が与えてくれる温かなものを、ひらすらに求めたのは自分も同じだ。
 幸せな空間だった。
 ぬるま湯のようだと感じつつも手放せず、溺れたまま。
 そうして、向き合わなくてはならない現実を無意識に避けてきた結果が、『今』ではないのかと言葉ない責め苦を己の中で築きあげて、また蓋をする。
 ずっと、そうしてきた。
 兄が小さな頃から自分にしてきた嫌がらせも、反応する度に嫌な感情が広がった。
 だから途中から何も言わないようになった。兄の手に掛かった存在は哀れだとは思ったが、それ以上の感情は湧いては来なかった。
 見て見ぬふりをしていれば、自分は平和である。
 そう思い込むことで、やり過ごしてきた。

 ――ねぇ、賽貴。貴方はそんな自分を恥じているのではないですか?

「!」
 脳内で再生された主の声に、彼は瞠目した。
 過去に交わした言葉の返事だ。

 ――ヒトも妖も、やはりそういう面では感情の生き物であることに変わりは無い。だからこそ皆、思い悩むしそれが積もれば顔を背けてしまう。私も、似たようなものですよ。嫌だなと思うことは極力避けたいし、巡り会いたくはない。でも、どんな遠回りをしても、いずれはまた自分の元へと帰ってくる。それもまた、絆と言うものなんだろうなと、私は思うんです。

「それでは……貴方のこの死すらも、絆のうちだと仰るのですか」
 その言葉は乾ききっていて、磨り減った音でしか発音されなかった。
(賽貴……)
 変わらず過去の賽貴の視界にとどまった状態であった浅葱が、小さく彼の名を呼んだ。
 もちろん、賽貴自身には届かない。
 浅葱は全てを目にしたわけではなかった。瀞の死のその瞬間は、幸い見てはいない。
 幸い、と言うのは少しおかしいかもしれないが、浅葱は自分が安堵していることを自覚してそしてそんな自分を卑怯だとすぐさまに思っていた。
 賽貴も朔羅も、そして浅葱が知らない式神たちも、主を失った瞬間を目の当たりにしたはずだ。
 どんなに辛く苦しい時間であっただろう。想像するだけでは到底、図ることは出来ない。
 何故、浅葱自身が断片的にしか垣間見ることが出来なかったのかまでは解らないが、今はこれで十分であった。
 そう思った次の瞬間、視界がゆっくりと遠くなっていく。
 意識が戻るのだろうと感じ、浅葱は抵抗せずに瞳を閉じる。
「浅葱」
「……えっ」
 視界が溶け何もない空間になったところで突然名を呼ばれ、弾かれるように浅葱は目を開いた。
 予測もできない事であった。
 何故なら声の主は瀞のものであったからだ。
「少しだけ時間をください。私の孫であるあなたがこうして会いに来てくれたこと、嬉しく思いますよ」
「せ、先々代……」
「……やれやれ。私の娘は、あなたに余程厳しいと見える」
 瀞は浅葱の言葉に反応し、苦笑してみせた。
 その表情は、賽貴の視界を通してみたものとは少しだけ違っているように思える。
 優しくて儚く、そして淋しそうであった。
「嫌なものを見せてしまいましたね」
「いえ、私が望んだことですから」
 瀞の次の言葉に、浅葱は冷静に答えていた。
 どんな結果があろうとも、全てを受け入れる姿勢で挑んだ結果だ。後悔はしていない。
「なるほど、強い子だ。これなら諷貴と賽貴を任せても大丈夫そうですね」
「え……?」
「身勝手で、酷なことを願うと自覚はしています。ですが、私はもう『その場』にはいない。……浅葱、どうかあの二人を……諷貴を救ってあげてください。それから、私を解放して欲しい」
 穏やかな口調で言葉を紡ぐ瀞を、浅葱は意外な気持ちで受け止めていた。
 そして付け加えられた言葉に、素直に首を傾げる。
「……『何故、未だに私の意識がここにいるか』と言えば、その意外な気持ちもすんなりと溶けるでしょうか」
 困ったように笑みを浮かべる瀞が、そう続けた。
 それを耳にした浅葱が瞠目する。
 直感で解ってしまったことがあったのだ。
「それは、つまり……先々代の魂が廻ってはいないということですか?」
「聡いですね、そのとおりです」
 瀞は躊躇いもなく頷いて、そう答えてきた。
 それを目の当たりにして、思わず表情が歪む。
 つい先程見てきた光景の中に、倒れた瀞の姿があった。そしてそこには、あるべきものが無かった。
 記憶を呼び起こして、青ざめる。
「無理をしてはいけませんよ。ですが……それが全てです」
 表情を歪める孫に、瀞もまたそれを歪めた。
 出来れば伝えたくは無かった過去。それでも、いつかは誰かが伝えねばならぬことでもあった。
 残酷な一面を。そして実際にそれを見せることも。
「諷貴が離してくれないのです。私の魂もそこに、縫い止められたまま。このままでは、誰より彼が……救われない」
「……賽貴も朔羅も、それを知ってるんですね。だから私に、言いたくなかった」
「彼らを責めないでくださいね。私が願ったことでもあるのですから」
 瀞は優しい人だ、と浅葱は思った。
 そして、朔羅がそう言っていた通りだとも。
 献身的な優しさと愛情を、どこまでも広く。自分の手が届くところまで。
 自分にそこまでの博愛が抱けるだろうか。否、出来るはずもない。
「浅葱、私は皆が言うほどの存在ではないんですよ。賽貴も朔羅も、それから藤姫ですら、裏切りましたから」
 瀞が改めてそう言ってくる。
 落としていた視線を上げればそこには、淋しそうな笑顔。
 全てを享受している空気は、やはり自分には無いものだと痛感する。
「……もう一つ、聞かせて下さい」
 浅葱は祖父の顔をまっすぐに見つめつつ、そう口を開いた。
「今も、愛しておられるのですか」
 誰を、とは言わずに。
 すると瀞はまた、小さく笑った。
「そうですね。出来れば彼の傍に魂を廻らせたい……そう、浅ましくも思っています」
「解りました」
 祖父のそれは、震えるような声だった。
 だが、しっかりとその気持ちを受け止めた浅葱は、こくりと頷いて返事をする。
 直後、ゆらりと視界が揺れて、意識の混濁が始まった。
 今度こそ、現実に戻ってしまうらしい。
「……浅葱、いつかまた……」
「はい」
 遠くなっていく光景。その中で、瀞はそんな事を言った。
 その言葉の意味を、浅葱は様々な意味で捕えてまた頷く。
 同じ時でまたこの姿が相見えることは二度と無いだろう。
 それでも、可能性は皆無ではないのだ。
 浅葱はそれを、確信している。
「……っ」
 数秒後、自分の体が大きく震えた事を自覚した。
 開いた瞼が重く、現実に戻ってきたと言う感覚が一気に全身に駆け巡った。
「――お帰りなさいませ、浅葱さま」
 傍で耳慣れた声がした。
 浅葱は視線のみで声の主を確認して、力なく笑う。
「ただいま……賽貴」
 彼の名を呼ぶと、自分の右手に温もりを感じた。
 ずっと握っていてくれたのだろうと思う。自分からもゆっくりと大きな手を握り返して、感触を確かめるのだった。