夢月夜

第四夜(十ニ)



 賽貴により過去を見せられたあと、浅葱は数日の間、一人きりで何事かを考え込んでいた。
「……ねぇ、やっぱり早すぎたんじゃないの」
 そう言うのは、朔羅である。彼は、浅葱に過去を見せることを躊躇っていた。賽貴と同じく当事者であるからこその迷いでもあった。
「俺は後悔などしていない」
「それはわかってるけどさ。……そうじゃないでしょ」
 幸いというべきか珍しい話でもあるのだが、ここニ日ほど、浅葱に陰陽師しての依頼は舞い込んではいない。表立って動けなくなった紅炎の代わりに、琳と藍が率先して京の警戒などに出ているが、これと言った事案も起こってはいなかった。
 そして浅葱は室に籠もりきりになり、思案を続けている。この間、顔を合わせられた者は式神の中では誰もおらず、出入りは浅葱付きの女房しかいない。
 彼自身に憂いは見られず、塞ぎ込んでいる様子でもないらしいので安堵はしているが、心配なものは心配である。
 賽貴と朔羅が、今日も二人揃って浅葱の室の前で構えている。そんな中での会話であった。
 若干、噛み合ってないようにも感じられる。
「……浅葱さんは、何を感じたんだろう」
「…………」
 朔羅が視線を室に向けつつ、そう言った。
 賽貴はそれに答えず、視線も下に向けたままであった。
「そういえば、紅炎は大丈夫なの? この間、泣いてたみたいだけど」
「……その為に、白雪や桜姫(おうき)さまについて頂いているのだろう。俺が彼女を気遣うのは、今は向いてはいない」
「まぁ、そうだよね……。僕もそれが気になって、様子も見に行けてないんだけど」
 諷貴の屋敷へと行っていたらしい紅炎は、戻ってから体調を崩し、こちらも籠もりきりの状態であった。身重でもあるために、様々なものが付き添っている。その筆頭であったのが、彼女の元の主でもある桜姫だった。女であり母である以上、彼女ほどの適任者はいないだろう。
 取り敢えずは、紅炎のほうは女性陣に任せておいても大丈夫のようだ。
「――二人とも、入っていいよ」
 戸の向こうから、浅葱の声が聞こえてきた。
 それを耳にした賽貴と朔羅は、一呼吸置いてから「失礼いたします」と告げて、その戸を押し開ける。
 御簾を超えたその先に、主は座していた。
「暫く遠ざけててごめんなさい。二人ともそこに座って。それから、琳を呼んであるから、少し待っててね」
「……琳を?」
「まぁ、先に座ろうよ、賽貴さん」
 浅葱は普段どおりに見えた。否、それ以上に凛々しくもあった。
 そんな主の言葉に眉根を寄せたのは賽貴であり、朔羅も同様であったが、取り敢えずはと彼の前に腰を下ろす。
 それからややあって、几帳の向こうの廊に影が生まれ、琳が膝を折る気配を確認出来た。
「琳もこっちに来て。三人に伝えておきたいことがあるんだ」
「はい」
 呼ばれた琳は顔色ひとつ変えずに、短い返事をして歩みを進めてきた。彼は賽貴の隣に腰を下ろし、綺麗な姿勢を見せる。
 浅葱はそれを見てから、ふぅ、と小さくため息を零した。
「……少し、考えたんだ。私がこの京のために出来ることや、今後のこと」
「…………」
 三人は押し黙ったままで、浅葱の次の言葉を待った。
「まず、私は後にも先にも『陰陽師』だから、その立場はこれからも変わりない。私になりに努力して、役目を果たそうと思ってる」
「僕らはそんな浅葱さんに、従うのみだよ」
 浅葱の言葉の後に朔羅がそう言うと、賽貴も琳もそれに小さく頷いた。根底の気持ちなどに揺らぎはないようだ。
「私は弱くて、情けないかもしれない。まだまだ文字通りの子供だし、至らないこともたくさんあると思う。だけど、そんな私に付いてきてくれること、感謝しています」
「…………」
 浅葱の言葉は、はっきりと明瞭な響きであった。そんな主を見て、賽貴も朔羅も、思わず瀞の姿を重ねてしまった。
 成長目覚ましいということは、それほどの影響も出てくるのだろうかと二人は思う。
「これから先、あらゆる困難があると思う。その度に、私は弱さ故に迷うかもしれない。そんな時、皆が私を叱ってくれると良いと、思ってます」
「その必要はないかと思われますが」
「……そう言ってくれるのは嬉しいよ、琳。だけど、私もただの人間だからね。どんなに虚勢を張っても、心の限界はある」
「浅葱さま?」
 たくさんの言葉を並べる主に、賽貴が彼の名を呼んだ。すると浅葱は膝の上に置いていた右手を低い位置で上げて、それを制してくる。
「そんな私でも一つだけ、譲れないことがあるの。それを伝えるために、あなた達を呼びました」
 一拍のあと、浅葱はそう言った。
 三人はそれぞれに表情を引き締め、主を見つめる。
「どんなに迷っても、私は一人の人だけを求めます」
「!」
 その言葉に、びくりと僅かに肩を震わせたのは、賽貴であった。
「……朔羅、琳。あなた達の気持ちはとても嬉しい。特別なものは何もないはずの私を好いてくれる……自虐的に聞こえてしまうかもしれないけど、私は公達(きんだち)でも無ければ、美しい姫君でもないのに」
「浅葱さん」
「お願い、このまま聞いて、朔羅。……私は、誰も裏切りたくない。だから、言うの」
「…………」
「…………」
 浅葱の声が、僅かに震えだした。緊張しているのだろうと思う。
 向けられた先の朔羅も琳も、それを受け止めて苦笑する。二人とも、浅葱の真意をもう既に解っているようだ。
 それでも、続きを待つ。聞かなくてはならないと思ったからだ。
「……私は、賽貴が好きです。これだけは、この先も絶対に変わらない。五つの時、初めて貴方を見た時から、ずっと……」
「浅葱、さま……」
 それは、濁りのない告白であった。
 朔羅と琳に敢えて聞かせたのは、彼らが深い愛情を向けてくれていたからだ。拒絶するつもりはないが、受け止められないということを、浅葱ははっきりとさせたかったらしい。
「――全く、これで僕が『否』と答えたら、どうするおつもりだったんですか?」
 そう言ったのは、琳である。
 彼は晴れやかな表情をしていた。
「最初から、解っていました。解りきっていて、僕は貴方に好意を抱き続けていました。きっかけなんてものは、些細なことです。僕の命を救ってくれた……たったそれだけだったのですよ」
「琳……」
「良いのです。浅葱どのはそのままで。……僕の気持ちも暫くは変わらないでしょうけど、賽貴さまに敵うとは思ってもいませんから」
 琳の告白もまた、明瞭な響きとなって室内を満たしていた。
 浅葱は少しだけ頬を染めたが、その後は小さく笑って礼を告げる。
「はぁ……琳に全部持っていかれちゃったけど、僕からもいいかな」
 そう言いながら片手を上げたのは、朔羅である。
 浅葱は当然、快く受け入れるために頷いてみせた。
「僕の場合は、ちょっと色々と違うんだけど、それでもこれは『愛』だと思ってる。だからこその浅葱さんの気持ちは、尊重するよ。二人は誰にも引き裂けないし、させないし、僕も引き裂くつもりもない」
「……ありがとう、朔羅」
 浅葱はやはり、少し照れたようにして微笑みを見せた。敢えて避けてきた事を、僅かな勇気で表に出した彼は、それだけでも立派だと琳も朔羅も感じていた。
 一方で、賽貴は静かに動揺をしていた。悟られないようにしているようだが、隣に座る朔羅にはそれが通じず、彼は思わず吹き出してしまう。
「……っ、あはっ……賽貴さんって、ほんとこういう場面に慣れてないよね」
「朔羅」
「睨まないでよ。……でも、そうだね、ここらで僕と琳は退出させてもらうよ」
 けらけらと笑う朔羅に対して、賽貴は僅かに睨んできた。それを手のひらで避けるような仕草をしつつ、彼はゆっくりと立ち上がる。
「……朔羅、そのまま人払いを」
「わかったよ、浅葱さん」
 浅葱は朔羅を見ることなく、そう言った。
 どうやら、彼にはまだやることがあるようだ。それを察した朔羅は、口元に笑みを湛えたままで室を出ていく。その後に続いたのは、琳であった。
 御簾を上げる音、衣擦れの音、戸の開閉の音。
 それらを浅葱は、静かに聞いていた。そして一度静かに瞳を閉じたあと、再びゆっくりとその瞼を開いて、賽貴を見た。
「……浅葱さま」
「賽貴……私はあの時、先々代と会ったの。私の意識が浮上する、少し前。その時、ほんの僅かだけど、彼と話をした。それで……多分それがきっかけで、告白したの」
「…………」
「先々代――お祖父様を、尊敬していることは変わらない。あの人はとても優しくて、暖かい人だった。だけど……私は、あの人と同じようにはならない。賽貴を、裏切ったりはしない……!」
「……浅葱さま、肩の力を抜いてください。私は、ちゃんと解っていますから」
 二人きりになった安心感からか、浅葱は途端に声が震えだした。そして、堰を切ったかのように再び語り始めたかと思えば、涙を目尻に浮かべていた。
 賽貴はそんな主をそっと抱き寄せて、静かな口調でそう言った。
 ぬくもりをその体で感じ取った時、浅葱はようやく深い溜息を零して、表情を崩す。
「……呆れてない?」
「何故ですか。……私も流石に少し驚きはしましたが、それでも貴方の気持ちは、嬉しかったですよ」
「本当?」
「……前にも似たような問答を致しましたね。あの時のように、貴方から口づけでもしてくださいますか?」
 賽貴の言葉は、いつも狡い響きだった。それでいて優しく、耳に心地が良い。自分だけに向けられる音を、もっと独り占めしてしまいたくなる。
 そう、心で呟いた浅葱は、再び意を決したかのように、寄りかかっていた賽貴の胸を軽く押して、体を起こした。
 賽貴はそんな浅葱の反応が予想外だったのか、僅かに目を丸くしている。
「もう一つ、聞いて欲しい。……私を、貴方のものにして」
「…………」
 やはりその言葉には、賽貴は瞠目したままであった。
 浅葱はそれを見て、真っ赤になり視線をそらす。それでも、自分の言葉に偽りはなく、彼は自らその場で千早を脱いだ。
「浅葱さま、待ってください……!」
「……朔の夜のほうがいい?」
「そうではなくて……いや……何故、いきなり」
 賽貴は慌てて両手を差し出し、浅葱の手を止めた。必死そうな顔からは、からかいのそれではないと理解出来る。元より浅葱は、そんな事ができるほど器用ではない。
 朔の夜、すなわち変容後の女の体のほうがいいか、とまで確認してきたのだ。彼の気持ちに偽りは無いのだろう。
「……私のことは何でも、解るんでしょう?」
「だから敢えて言っているんです。確かに以前、私はあなたが欲しいと言いましたが、あまりにも唐突すぎます」
「――私は貴方が好き」
 浅葱はしっかりと、目の前の賽貴にそう伝えた。
 その頬には、一筋の涙が伝っている。
 ああ、そうか。と賽貴は察した。
 主はこれでも精一杯で、とっくに限界を超えている。それでも自分を求めることで、安定を探しているのだと。
「はぁ……」
 浅葱の肩に手を置きながら、賽貴は大きくため息を吐いた。彼のこんな姿は、非常に珍しいことだ。
 そして彼は、改めて浅葱を見やり、ぐっと自分へと引き寄せる。僅かに驚く浅葱をそのまま抱き込んで、唇を塞いだ。
「……本当に、俺のものにしてしまって良いんだな」
「う、うん……」
 素の言葉遣いになる時は、賽貴は誤魔化しを一切しない。浅葱はそれを知っているので、少し強張りつつも返事をする。
「俺たち妖の本質は、あなた方が特に気にする性別には、拘らないことが多い」
「……、そ、そう、なの……?」
「あなたは既に気づいているだろう? ……俺たちは、ヒトの魂を喰らうからだ」
 賽貴が言葉を続けながら、浅葱を自然と横たえる。
 そして彼は、主の返事を待つことなく、袴の結び目を解いた。
 たったそれだけでも、浅葱はビクリと体を震わせた。賽貴はそれを見て苦笑したが、今更行動を止める気はないらしい。
「……魂が輝いていればいるほど、欲する者が増える。それを糧と取るか、別のもので捉えるかは個人によるが、琳や朔羅があなたに惹かれるのも、それが根本的な理由です」
「さ、さいき……」
「――逃さない。あなたの魂は俺にとっては毒のように甘美だ。だからこそ欲しいと思う。きっとあなたを泣かせてしまうだろうが、それでも俺は、もう自分に嘘はつかない。あなたを愛している」
「!」
 浅葱は既に半泣きの状態であった。
 本能で逃げの姿勢に入ってしまった彼の腕を掴んで、賽貴は静かにそう告げる。
 すると浅葱はゆるく瞠目したあと、弱々しく笑った。
 ――愛している。
 それだけの言葉が、嬉しかった。
 何より欲しくて、しかし賽貴はずっと、その言葉を口にすることを避けていた。浅葱はそれを、知っていた。
 だからこそ、欲しかった。
「さいき……私はずっと、最初に出会った頃から、貴方を好き、だったよ……」
「知っています」
 震える腕を精一杯伸ばして、浅葱は途切れがちにそう言った。
 賽貴は小さくそう返事をしながら、彼の室を照らしていた明かりを、そっと吹き消したのだった。