夢月夜

第四夜(十三)



 陰陽師と契約を結んだものは皆、体の一部分に主の血文字が刻まれる。浅葱の式神たちも全員、体にその証がある。皆がそれぞれ、自身で選んだ部位だ。
 賽貴の印は首の後にあった。浅葱の祖父である瀞が記したそれは、未だに鮮明に残されている。契約主の血が絶えぬ間は、引き継がれていくものであるらしい。
 サラ、と賽貴の髪が音を立てて背中を滑る。
 それを見ていた浅葱が、静かに唇を開いた。
「……髪、きれいだね」
「突然に伸びたことへの違和感と、疑問では無いのですか」
「うん、だって……賽貴の髪にはずっと呪いのようなものがかかってたの、知っていたもの……」
 賽貴の髪は、彼の言うとおりに突然腰の長さまで一気に伸びた。
 浅葱と夜を共にした、その夜明けの出来事であった。
 賽貴は元々、髪の左半分が『伸びることを拒んだ状態』であった。原因は実の兄によるものらしいが、浅葱はそれを知らないままだ。
「……もう一生、あのままだと思っていました」
 彼はそう言いながら、少し億劫そうにして自分の髪を首の後で束ね始める。
「どうして、今だったのかな」
「それは、浅葱さまに触れたからでしょう」
「……そ、そう、なの?」
「もう一度なさいますか?」
「!」
 賽貴のとんでもない言葉に、浅葱は当然ながらに赤面した。そして上掛けにしていた衣を頭から被り、顔を隠してしまう。当然のことながら、彼は床から起き上がれない状態であった。
 そこから数時間前の身に起きたことを鮮明に思い出してしまい、浅葱はあっさりと混乱した。
 賽貴はそれを見ながら小さく微笑み、衣越しに彼の頭を優しく撫でてやる。
「……あなたはもう少し眠りなさい」
「さい、……」
 呪文のような言葉が降ってきた、と思ったときには、浅葱の瞼は重くなっていた。おそらくは賽貴が何かしらの能力を使ったに違いないが、浅葱はそれ以上の反応を返すことが出来ずに、そのまま眠りに落ちてしまう。
「…………」
 賽貴の大きな手が、主をもう一度撫でる。
 静かに布を捲くると、浅葱は小さな寝息を立てていた。視界での確認をして、彼は言葉無く傾けていた上体を起こした。
 伸びた髪を首より少し上の位置で束ねて、紐で括る。少し前に朔羅が髪が長いと頭が重い、などと言っていたことを思い出して、苦笑した。
 同じような長さに切ってしまえばいいだけなのだが、浅葱はおそらく、伸びたままでいてほしかったと言うだろう。瀞にも髪は切らずに、と言われていたことを更に思い出して、彼の表情は僅かに歪んだ。

 ――お前じゃない、俺だ。『俺』が、『瀞』に選ばれたんだ!

「……っ」
 肩がビクリ、と震えた。
 脳内で響いた、遠い記憶の声に反応したのだ。
 右手で握りこぶしを作り、強めに自分の眉間へと当てた。それを数回繰り返した後、静かにため息を吐き零す。
 兄という存在が、いつまでも自分の体に、耳奥にこびりついている。賽貴は静かに、この恐怖にも似た感情に向き合っている。
 否、向き合っているというよりかは、おそらく諦めに近いか。
 朔羅にも度々注意されていることだが、賽貴は兄のことを恨むこともなく、拒絶することもなく、ある意味受け入れている。
 これは『逃げ』なのだろう、と彼自身は思っていた。
「いつまでもこれの繰り返しじゃ、また朔羅を怒らせるな……」
 賽貴はそんな独り言を漏らしながら、苦笑した。
 旧知の友は、いつでも一歩を下がって背中を押してくれる。もっと欲しがっても良いはずなのに、彼はそれをしようとはしなかった。
 浅葱のことにしても、そうだった。
 恋愛なんかじゃない、と否定はしていたが、朔羅は浅葱を大切に想っていた。今もなお、そうであるはずだった。
 彼はこの先もずっと、この立場を守り抜くのだろう。
 朔羅なりの、決意ともとれる行動だ。
 それに比べたら、自分はなんと意思が弱いのか。
 賽貴はそう思案して、また自嘲する。
 そして彼は、自分の着ていた着物を整え、静かに立ち上がった。
 音を立てぬようにして浅葱の室を出て、御簾を押し開ける。空の色は、まだ東が白んできたくらいの明るさであった。
 当然、屋敷内は静まり返っている。
「……賽貴か」
「その体で出るのはよせ」
「解っている。ただ、朝の空気を吸っておきたかったのだ」
 朝の庭で顔を合わせるのは、紅炎と決まっていた。ここ数日は、やはり体調もあってかそれが行われてこなかったが、やはり彼女も長年身についた習慣には抗えないようだ。
「お前には、辛い思いばかりをさせてすまない」
「何故、貴方が謝るのだ。貴方のせいではないだろう。それに私は……もう、大分諦めがついた」
「……そうか。ならばとにかく今は、自分を労ってくれ」
「ありがとう、そうさせてもらう」
 その会話は、二人とも顔を合わせること無く行われた。
 賽貴も紅炎も、庭の一方を見たまま、距離を詰めること無くの会話だった。互いが気を遣った結果であった。
 そして二人は、その後は言葉無く姿を消した。
紅炎は毎日の鍛錬を行わずに自室に戻り、賽貴は廊下を進む。向かう先は、普段は踏み入ることを禁じられている区域――桜姫(おうき)の室であった。
「…………」
 浅葱の母である桜姫は、この屋敷の主人のようなものでもあった。それ故に、彼女は室は北の対屋に置かれていた。
 そちらへと足を踏み入れた途端、足先から一気に全身へと感じ取ることが出来たものは、神聖な霊気と、憎悪の感情であった。気を抜けば皮膚が切れてしまいそうな鋭さのそれに、賽貴は小さく困ったようにして笑った。いつもは決してそれに反応しないが、今日だけはと彼はその『霊気』を押し払う。
 パン、と短い音が響いた。
 当然、それだけで、彼女にも届いただろう。
「礼を弁えた殿方でしたら、この時間は既にお帰りのはずですよ」
「――ご無礼、お許しください『桜姫どの』」
「!」
 賽貴は固く閉じられた妻戸の先で膝を折り、そこで頭を下げた。だがしかし、いつもであれば桜姫様と呼ぶところを、彼はそうしなかった。意図的なものであると戸の向こうの桜姫も感じ取り、彼女から戸を開けて、賽貴を中へと招き入れてくれた。これは、初めてのことであった。
「失礼致します」
 賽貴が戸を潜り横手の几帳を見てから御簾をさらに潜ると、桜姫はその更に奥の塗籠へと賽貴を招いた。察するに人払いも既にされているというのに、これはいよいよ自分は彼女の手にかかるのか、とも思考が巡り、賽貴はそこで首を振った。
 姿を見ることも、声を発することさえも拒絶されていた相手が、ここまでしてくれているのだ、受け入れて歩みを進めることにする。
 塗籠の先では、流石に桜姫と賽貴を遮るようにして一つの几帳が置かれていた。女人と殿方が相対する時には、これが普通で当たり前である。
 賽貴が言葉無くその場に腰を下ろすと、奥の桜姫も同じようにして円座に腰を下ろす。
「お前がここに来るということは、余程の理由があるのでしょう」
「多大なるご配慮に感謝致します。――今日は長年お話することの敵わなかった、あなたの父君の事をお話させて頂きたい。これは、浅葱さまの式神としてではなく、一人の妖(あやかし)としての申し出でございます」
「……聞きましょう、『王帝のご子息、天猫の賽貴』よ」
 桜姫の声は、早朝にも関わらず、凛としていた。突然の出来事であるはずなのに、動揺すら見せないのは、陰陽師であった頃の名残なのだろうと賽貴は思った。
 そして間を置かずに、彼は再び口を開く。
「本来であれば、もっと早くに申し上げるべきでした。……あなたの父君、瀞どのを手に掛けたのは、私ではございません」
「……、続きを」
「あの光景を目にされたのは、母君であられる藤姫だったのでしょう。私と同じ顔、同じ出で立ちであれば、誰もがそれを私だと思うはずです」
几帳越しの桜姫の気が、僅かにだけ揺らいだ。それを視線のみで確認した賽貴は、それでも静かに言葉を続けることに集中する。膝に置いた手が、小さく震えていた。
「聡いあなたであれば、薄々気づいておられたのでしょう。私には、双子の兄がおります」
「銀の髪の、あの男ですか。紅炎を誑かした……」
「……そうです。そしてその男こそが、瀞どのを手に掛けた張本人です」
「恐ろしい存在であると、以前から認識していました。計り知れない魔の力が、常に溢れる男だと、遠目からでも充分に感じられた」
 桜姫は最初から手にしていたらしい衵扇を閉じたままで、すっと前に出した。その先で几帳の端を押し上げて、視界の僅かに賽貴の姿を垣間見てきた。
 それが、彼女にとっての初めての『賽貴』という存在を認める行為となった。
 賽貴はそれを見て、その場で静かに頭を下げる。
「……顔をお上げなさい」
「いいえ、私自身でないとはいえど、一族の者が齎(もたら)した事には変わりません。私なりの責任を取らせて頂きたい。罰なりなんなりと、私にお申し付けください」
「お前は……いえ、あなたはもう充分、罰を受けたでしょう。現に私は、一度もあなたを喚んだことがなかった」
「…………」
 賽貴は僅かに頭を上げた状態で、自嘲気味に笑った。彼女の言葉が、有難かった。
「――憶えていますか。浅葱があなたを選んだ日の事を」
「!」
 桜姫が、一拍の後にそんな事を言いだした。
 賽貴はそれに一瞬だけ瞠目した後に、こくりと頷いて「はい」と答えた。
 浅葱が五つの時に、賽貴は側付きとして彼自身に選ばれた。あの時から、浅葱は自分を好いていてくれたと数時間前に告白されたばかりだ。
「おそらく、あの時点で答えは見えていたのです。それでも私は、受け入れることが出来ないままでした。父を失くした母が『あのとおり』となり、責を負わせるべき存在も無く、支えてくれるものも無く……」
「解っております、桜姫さま。どうしようも無かったのです。誰もが余裕など皆無だったのですから。それで私が全ての怨恨を受け止められたのでしたら、良いのです」
「あなたは……」
 賽貴の桜姫への敬称が、元に戻っていた。もう既に妖としてではなく、式神としての立場で話をしているのだろう。
 それを受け止めつつ、桜姫は常に厳しくあった表情を歪めた。そして彼女は、衵扇を床に置き、その場で頭を垂れた。
「桜姫さま!」
 彼女の姿を直に目にしているわけではないが、影と気配でそれを察知した賽貴は、慌てて腰を浮かせて彼女の名を呼ぶ。
「賽貴、……許して、ください」
「おやめください。あなたが謝られることは何もない!」
 賽貴が珍しく、慌てたような口調になった。桜姫が謝罪の言葉を告げるとは、予想していなかったのだろう。
「無知は愚か者の証拠。私はずっと目を背けたままでここまで来てしまいました。まさしく、愚かでした」
「……桜姫さま」
「虫のいい話だと罵られても仕方ありません。私は、それだけの仕打ちをあなたにしてしまった。それでも、少しでも許しを得られるなら……」
「私は最初から、あなたを恨んでいたりなどしません。先程申し上げた気持ちが全てです。ですから、顔を上げてください」
 賽貴の言葉は、いつもより澄んでいた。
 耳でその音を捕らえた桜姫は、彼の言うとおりにゆっくりと顔を上げる。
 互いに未だ、几帳越しだ。
 それであるのに、二人とも相手が見えているかのように布の向こうを見つめて、笑顔を作る。
「……今更になりますが、私はあなたをこの家の式神として認めます。今後ともあの子を、浅葱を守ってやってください」
「お言葉、しかと胸に。繰り返しますが、己の天命尽きるまで、精一杯お仕えさせて頂きます」
 自分が初めて浅葱に伝えた言葉を、再び発する。静かでありながらも力強いその響きに、桜姫は満足そうに微笑んでくれていた。
 長い間、埋めたくても埋められなかった溝が、ようやくひとつ、埋められた瞬間でもあった。
 そして賽貴はもう一度頭を下げた後、桜姫の塗籠を後にする。
 襖を開けたその向こう、桜姫の昼の御座(おまし)となっている場には、彼女の夫である蒼唯が笑顔で座っていた。
「……ようやく、視界が開けましたね」
「蒼唯さまにも、長らく事を黙っていて頂けたこと、感謝致します」
「賽貴さまや朔羅……藤姫のお悩みに比べれば、私が一時を耐えることなど、何も苦痛はございませんでしたよ」
 蒼唯は、いつもどおりの優しい笑顔を湛えたままであった。そして彼は、後は任せろと言わんばかり、賽貴を素直に室から出させてくれた。
「――蒼唯さまは、ご存知だったのですね」
 数秒遅れて塗籠を出てきた桜姫が、賽貴の気配が遠ざかるのを確かめてから、そう言った。
「賽貴から、黙っていて欲しいと頼まれていたからね」
 蒼唯はそう答えつつ、妻に手を差し出してやった。桜姫もそれを拒むこと無く、歩みを寄せて彼の手を取り、その場に腰を下ろす。
「頑なであった私を、呆れていたのではございませんか?」
「どうして? 私はそれら全てを一括りに、貴女という存在に惹かれたんだよ」
「……相変わらず、狡い人ですね」
 蒼唯の言葉に、思わず頬を染めた桜姫。
 それを見て、満足そうに微笑むのは、青い瞳の妖だ。
 桜姫の選んだ伴侶もまた、妖であった。息子である浅葱も同じようにして同じ存在を選んだのには、少なからずの影響もあったのかもしれない。
 ひどく拒絶をしたこともあったが、それでも今は、こんなにも晴れやかに現実を受け止められている。
「……本当は、一度に全ては、無理かとも思っていたよ。だけどそこは、貴女の賢さに軍配が上がったようだね」
「それは、褒めてくださっているのですか」
 そんな会話を交わす間に、蒼唯は妻を優しく抱きしめていた。
 そしてその温もりを確かめつつ、また言葉を紡ぐ。
「賽貴はあれでいて、私からするととても高貴な方だ。持ち合わせる力もとても強いし、普段はかなり制限しているんだよ。本来ならば、人間界にこんなにも長く滞在してていいはずもないのにね」
「銀の髪の男よりも、ですか」
「同じくらいだとは思うよ。ただ、諷貴どのには狂気が勝っている分、それを恐怖と感じてしまうのだろうね」
 蒼唯の語る言葉は、いわば賽貴の補足のようなものであった。それほど、腕の中の妻が賽貴を拒絶していた期間が長かったのだ。だから、自分の知る限りの全てを、静かに伝える。
「……賽貴は、いつまで我々の味方ですか?」
「それを昔に、聞いたことがあるよ。彼は天命尽きるまで、と言っていただろう? あれに偽りは無いらしいんだ。それで、あちらの世界での長の座が約束された身なのに、と重ねて聞いたんだ」
「…………」
「彼はね、唯一の我侭をお父君にぶつけたらしいんだ。貴方が死ぬまでは、『陰陽師の式神』であることを辞めないと」
「それはその……とても大変なことなのでは?」
「そうだね。私は一度だけ、彼の父君……つまりは王帝に会ったことがある。とても豪胆な方だったよ。だからおそらく、それで良しと賽貴に言ったんだろうね」
「……私どもの世界では、侭ならない事ばかりのような気がします」
 桜姫は、蒼唯の腕の中で、ただひたすらに驚きの連続であった。それでも必死に考えを纏めて、言葉を返している。彼女が聡いのは、この辺りで証明される事であった。
「賽貴は普段、抑えた力をどのように消化しているのでしょう? 制御したままで長い間は、いられないように思うのですが」
「彼の場合は、結界力にそれを向けているみたいだね。だから彼の結界石は、とても強固なものなんだよ」
「そう、なのですね」
「……私は元よりそれほどの力もないから、貴女への愛情で発散させているけどね」
「な、何を仰っているのです……!」
 蒼唯の表情が、悪戯っぽいものに変化した。より深い思考へと沈みかけた桜姫を感じて、そこで冗談交じりの言葉を重ねて、やめさせたのだ。
 案の定、桜姫は蒼唯にしか見せない反応で、頬を赤くする。
 彼女の滅多に見られない表情は、蒼唯だけの特権だ。
「貴女をずっと、信じていたよ。私達は私達で出来ることで、浅葱を守っていこうね」
「はい」
 夫婦は身を寄せ合ったままで、新たな決意を確かめ合う。
 時に厳しく、そして包み込むような愛情を。
 それが浅葱の両親の、出来る限りの気持ちの現われであった。

「――賽貴様に火急の報せを出せ!」
 同じ頃、妖たちが住まう空間では、大火に覆われる屋敷があった。
 それは、賽貴の生家であった。