夢月夜

第四夜(二)


 
 人気のない古びた屋敷の一室に、小さく灯る炎があった。
 ゆらりとそれが揺れれば、ひとつの影が動いた証となる。
「――帰るのか」
 言葉なく着物を着込むしなやかな肢体の女の背中に、そんな声がかかった。
 声の主は寝転んだまま、口元に笑みをたたえている。
「用は済んだのだ。これ以上居座る理由はないだろう」
「少しは名残惜しんで見せたらどうだ」
 女は声には背を向けたままで、手早く着付けを済ます。最後に手を伸ばした先には、金の輝きが入り込んだ黒の帯があった。
「あなたは私にそれを求めることは無いだろう。だから私もそうしないだけだ」
「相変わらずな女だな。まぁ、しつこい奴よりかはお前は何倍も良い存在だよ」
 女の背後にいるのは長い銀髪の男だった。
 にたりと笑みを浮かべたまま女の言葉にそう答えると、彼はだるそうに腕を動かしてその場に散らかる一つの布を引いた。
「……用は済んだのだろう」
「そう言うなよ。もう少しだけ此処に居ろ」
 男が引いた布は、女の着物の一部だった。
 紅色の布に深いしわが食い込み、より一層の濃い赤が広がる。
 女は男の要求に否定の色は出せずにいた。
「あなたは、ずるい人だ」
 女の唇からそんな言葉が漏れる。
 愛欲があって招かれるわけでは無いこの行為に、彼女は心で憂いでいるのだ。

 ――いつも、いつでも。自分はこの男の心には届かない。

 何度も心根で呟いた言葉。
 いくら欲しても目の前の男には届かない。こんなに傍に居るのに、気持ちを掴むことができない。
 最初はこんな醜い感情など抱くはずもなかったのに。
「……ずるいひとだ」
 心が通わない行為ならいっそきっぱりと決別してしまうべきだと思いながら、女はその男の腕から逃れることができずにいた。



 ひらり、と黄色い紅葉が一枚、縁に落ちてきた。
 音のみでそれを感じ、身を屈めたのは颯悦だった。
「……黄金(こがね)……いや、山吹に近い色か」
 指の感触のみで色を確かめる。生まれつき光の宿らない瞳には、実際の色は解りえないが彼の言い当てる色は大抵は正しい。
 生きる上で身につけた才能の一つなのかもしれない。
「ねぇ、だったらこの色はわかる?」
 そんな彼に声をかけたのは藍であった。右手には落ち葉が収まっている。
「こちらに。触らねばわからん」
「うん」
 突然の声だったが颯悦は露ほども驚いた表情を見せずに、ゆるりと藍を振り向いた。
 そして空いている手を差し出して、藍の持っている落ち葉を受け取る。
「……紅鳶(べにとび)だな」
「どうしてわかるの?」
「長年の感覚と……色には匂いがある」
「匂い……」
 俄かに信じがたいと思える回答だったが、それでも藍は真面目に反復した。
 何事にも真摯に向き合い、虚言などは一切言わない彼だからこそ素直に受け入れられるのかもしれない。
 そんな颯悦は藍にとっては書の師範でもあった。
「それは、鳥人族だからこそわかるものなの?」
「わからん。私はほとんど鳥人族とは接したことがないからな。近しいと言えば蒼唯さまくらいだ」
 颯悦は人と鳥人族との間に生まれた半妖だ。鳥人族といえば博識なものが多く、どの種族よりも頭脳が優れているとされる。
 彼も例に漏れずで頭の回転も早く、高い知性の持ち主だ。
 だから藍は、わからないことがあれば颯悦に質問することが多いのだ。
「……颯悦さんの父上は……あ、ご、ごめんなさい」
「いや、構わんよ。私の父は鳥人族としては誇れる存在ではなかった。それは誰より私が知っている事実だ」
 質問を繰り返すうちに聞いてはいけないことまで聞いてしまった藍は、慌てて口の口元へと手をやった。
 いつも厳しくある颯悦だが、そんな藍の姿に珍しく笑みを見せる。
「何か、他に聞きたいことがあるのでは無いのか?」
「あ、ええと……うん」
「では、室で聞くとしよう。書の上達具合も確かめたいしな」
 妙にしおらしい藍に対し、颯悦は柔らかく瞳を細めた。
 彼女の姿をその目で確かめることは出来ないが、空気だけで想像は容易いようだ。
 そして彼は、そっと藍の背を押して縁からの移動を提案した。
 藍は素直にこくりと頷き、颯悦と並んで歩みを進める。
 そんな意外な組み合わせともとれる二人の姿を遠巻きに目にしていた朔羅が、欄干に肘をついてふうう、と息を吐いた。
「……なんだろう、最近意外な事多いな。なにかの前触れだったらイヤだなぁ……」
 歪んだ口元がそんな言葉を漏らす。
 傍から見れば微笑ましいと思えることも、朔羅の目に映る分には若干の違和感があるらしい。
 先日の紅炎の表情といい、気になることがあるのだ。
 満月のあたりから少しずつ少しずつ、この屋敷内で誰もが気づくことなく何かが崩れているような、そんな小さな不安。
「……イヤだな」
 朔羅はもう一度、同じ言葉を繰り返す。
 どこかで憶えのあるような気がするのだ。それを明確に探ることが出来ずに、もどかしさすら感じる。
「あんまり気が進まないけど、蒼唯さんにお願いしてみるかな」
 彼はそう言いながらゆっくりと腰を上げた。
 浅葱の父である蒼唯には先見(さきみ)という未来を視る能力がある。これは鳥人族特有のもので、颯悦にも備わるものだが彼は一度もその能力を発揮したことがない。出来ないわけではなく、自ら封印しているのだ。
 そして、蒼唯もその能力はあまり使いたがらなかった。
 彼らは『視る』だけで何もできない。それが何よりも辛いことらしく、好き好んで使用するものではないらしい。
「蒼唯さん、ちょっといいかな」
 朔羅はそう言いながら、蒼唯の部屋を訪ねた。
 彼はいつもどおりで、穏やかな表情で書物に目を落としたいた。
「……おや、朔羅。君がここを訪ねてくるなんて珍しいね」
 積み上げられた数々の書物と巻物。
 幾度も読み返してそれらを自然に頭脳に覚えさせていく姿は、鳥人族らしさが見て取れる。
「あなたはいつも、こんなにたくさんの知識を得ているんだね」
「そうだね。桜姫と出会って、浅葱という息子を得ていなければ、私は今だに鳥人族でははぐれ者だったかもしれない」
 蒼唯の目の前に腰を下ろしつつ朔羅がそう言えば、彼は優しい口調で返事をしてくれる。
 誰に対してもこの態度を崩さぬ蒼唯は、この屋敷内では誰もが親しいと思える存在であった。
「そう言えば、あなたは昔は鳥人族らしからぬ人だったね」
「若かったから……というのもおかしいかな。ヒトで言うところの若気の至りだったんだよ、あの頃は。随分と酷いことをして歩いた。盗みも殺しもなんとも思わなかったからね」
 はは、と困ったように笑いながら蒼唯はそう言う。
 今でこそ想像もつかない事だが、蒼唯にはそう言った過去が存在するらしい。
「……颯茨(そうし)にも、私と同じように素晴らしい出会いがあればよかったんだけどね」
「まぁ、仕方ないよ。それもまた運命だったんだから」
「朔羅は手厳しいな」
「そうかな。あなたほどじゃないと思うけど」
 そんな危ういとも取れる会話をしつつ、二人は笑った。
 腹の探り合いをしているわけではない。本音をぶつけ合っているだけなのだが、どうしてもこういった流れになってしまうらしい。それすらも互いに理解し合っているようなので、何も問題は無さそうではあるが。
「なにか、浅葱に関わることでも?」
「そうじゃないんだけどね。ちょっと気になることがあって……『視て』もらえないかと思って」
「――――」
 蒼唯の表情が、一瞬で厳しいものになった。
 それをある程度わかっていた朔羅には、大しての反応はない。だが、彼を怒らせてはいけないということも重々理解しているので、気を許すことも出来なかった。
「この能力(ちから)はこの屋敷では私と颯悦しか使えないし、彼には言い出せないからね」
「こうしてあなたに頼むのも相当、良くないことだとはわかってるよ。だけど、芽は早いうちに積んでおきたいって思うのもわかるでしょ?」
「……確かに、そうだね。それに若芽を摘むのは君たちの役目だ」
 蒼唯の瞳が、ゆらりと揺れた。綺麗な翡翠のような色合いのそれは浅葱も持ち合わせるものだ。
 美しいと感じるものには必ず、毒もある。
 いつかこの毒を浅葱も開花させるのかと考えると、それはそれで恐ろしいなと朔羅は心でつぶやいてもみる。そこにはあまり焦りなどは見受けられないが。
「私のことをよく知る君があえてそう言ってくるんだから、よほどの事なんだろう。そしてそれは、ゆくゆくは浅葱にも関わることだ。良いよ、視るとしよう」
「頼むよ」
 飄々としたままの朔羅に向かい、蒼唯がそう言った。そして彼は額に手をやり、普段は下ろしたままでいる前髪を掻き分けた。その向こうにあるのは、もうひとつの目だ。
 ゆっくりとその瞳が開き、前を見据える。
 直後、空気が膨れるようにして妖気が放出された。
「――父さま?」
 滅多に触れることのない気を肌で感じ取った浅葱が、自室で顔を上げた。そして気を目で辿るようにして室を見回したあと、自分の手元に視線を戻す。
「様子を伺ってまいりましょうか」
 そう言ったのは、浅葱のそばに控えていた賽貴だった。彼も蒼唯の珍しい行動に多少の違和感があったのだろう。
「ううん。父さまがあの力を使うときは必ず誰かに頼まれた時だから、大丈夫だよ」
「……少し、気の乱れも感じますが」
「きっと、依頼人が朔羅なんだよ。父さまは朔羅とはちょっと波長が合わないから」
 賽貴が蒼唯の部屋の方角へと視線をやりながら言葉を続けると、浅葱は苦笑しつつ返事をした。
 その言葉を受け取った賽貴も、複雑そうな表情を浮かべて「そうでしたね」と答える。
「ところで、先程から何を書かれているのですか?」
「ああ、うん。後世のためにね、自分の行動を残しておこうかと思って。……こんな私のものでも、術がどこかで受け継がれていけばいいなって」
 浅葱の物言いはいつでも、どこか遠慮がちであった。
 常に自己評価が低いために、一歩引いた言葉を繋げるふしがあるのだ。
「それは必ずやこの後に役に立つはずです、浅葱さま」
「うん、ありがとう」
 賽貴の言葉がじんわりと浅葱の胸に沁みた。
 新月に女の身になれるとは言っても、基本が男である浅葱は子を作れない。必然的に直系の血筋は残せないと解っているし、そんな運命を選んだことに彼は後悔もしていない。幸いにも親戚は存在するのだから、『賀茂家』はこれからも残るはずだ。
「…………」
 ぺらり、と頁をめくる音が静かに響く。
 自分の知り得る限りの術や施し方、それを静かに綴る浅葱の姿は賽貴の目には心なしか淋しい色合いを浮かべているように見えた。