夢月夜

第四夜(三)

 
 
 ――視えたものは、昏い闇だった。
 もやもやとしたそれは形ははっきりとはしなかったが、明らかに良くないものだと彼は理解する。
「うん、これは……用心したほうがよそうだ」
 ぽつり、と独り言の音に似たそれを口からこぼすと、朔羅が眉根を寄せた。
「何が視えたの?」
「闇だったよ。私がそれ以上を視れないということは、必然的に存在も割れてくるものだけど」
「……貴方にそれを言われると、割と八方塞がりになるんだけどね」
 蒼唯の言葉に、朔羅は肩をすくめながらそう言った。その表情はあまり穏やかではない。
 ある程度は予想できてはいたが、不安要素を拭えたわけではない。むしろ、増える一方のような気がする。
「若芽どころか、根の張った巨木だよ」
「それでも、取り払うのが君たちの役目だ。……浅葱を頼むよ」
「肝に銘じるよ、蒼唯さん」
 目の前の人物が『本気』を出せば、大きな問題であってもそれを半減できる力を持ち合わせているのに。
 朔羅は心でそんな思考を巡らせながら、苦笑した。
 蒼唯は戦わない。
 どんなことがあっても、彼はその能力の半分も発揮しない。
 浅葱の母、桜姫と出会ったあの日から。
 その理由を知っている朔羅には、全てを受け入れるしかないのだ。そして、託された責任を背負うために立ち上がる。
「――朔羅」
「なに?」
 室を後にしようとしている朔羅を見上げて、蒼唯が彼を呼び止める。
 朔羅は振り向かずに彼の言葉の続きを待った。
「無理はしないようにね」
「わかってるよ、蒼唯さん」
 僅かに滲み出る優しさの感情に、浅葱の影を感じた。
 確かに彼は、自分の主の父親なのだ。
 それを改めて確かめつつ、いつものように唇に薄い笑みを湛えて朔羅は蒼唯の室を離れ、そして浅葱の下へと足を向ける。
 賽貴にだけは先に伝えておくべきだと判断したためだ。
 目に見えなくとも、確実に。
 じわりと侵食されていくかのような予感は静かに広がっていく。
「なんでこうも色々と起こりたがるかなぁ、ヒトの界隈っていうのは……」
 そんな独り言漏らしつつ、朔羅は深い溜息を吐いた。
 目まぐるしいのは人の世だからこそ、と彼は思う。だがそれでも、こういう展開は好みの色合いではないとも思うのだ。
 ――だからこそ。
「…………」
 朔羅が足早に歩みを進めると、浅葱の室内に座している賽貴がゆっくりと顔を上げた。
「浅葱さま、少し席を外してもよろしいですか」
「あ、うん。大丈夫だよ」
「すぐ戻ります」
 変わらず文机に向かっていた浅葱に向かって、賽貴は静かに言葉をかけた。
 浅葱は一度手を止め、彼を振り返ってから返事をする。
 それをきちんと目に留めたのち、賽貴はゆっくりと立ち上がって傍の御簾を片手で押し上げた。そこからするりと身を滑らせ廊に出て、朔羅の姿を視界に入れる。
「…………」
 視点が合った二人は、どちらからともなく目配せで庭の方角を示した。浅葱からはなるべく距離を取った方が良いと判断したのだろう。
 そして音もなく、彼らはそれぞれの場所から庭の奥へと移動した。
「何かあったのか」
「まぁね。僕が蒼唯さんに能力使わせたのは、わかってるんでしょ? 浅葱さんも気づいてたと思うし」
「……ああ」
 中池の傍へと足を下ろした二人は、静かに会話を始めた。
 その池に視線を落としつつ、賽貴は朔羅の言葉に答えていた。
 澄んだ水の向こうには美しい色合いの魚が自由に泳ぎ回っている。
「『闇』が象徴するものって、なんだと思う?」
「それが……蒼唯さまが視たものか」
 賽貴は朔羅の問いかけに答えなかった。その代わりに、先に確信へと触れる。
 朔羅はそれを目の前で受け止めて、苦笑した。
「鳥人族の視る力は計り知れない。だけど蒼唯さんは見えたものは闇だったって言ってた。……はっきりと形にして見えなくて、でも闇だとすると……思い当たるのはごくごく近しい人しかいないんだよね」
「そうだな」
 軽い口調だった。
 ただ、二人共視線は厳しいものであった。
 そこで一度、会話が途切れる。
 朔羅も賽貴も、次の言葉を発することに躊躇いを抱いているのだ。
 ざぁ、と一陣の風が舞った。頬に感じるそれは冷たいものだった。
「――諷貴さん、来るかもしれない」
「…………」

 ――また来る。

 数ヶ月前、彼は確かにそう言っていた。
 浅葱に興味を持った以上は、避けられない現実だった。
 賽貴の瞳がゆっくりゆっくりと、自然に曇る。
 それを見た朔羅は、眉根を寄せて再び口を開いた。
「賽貴さん、見失っちゃダメだよ」
「!」
 語気の強い声音に、賽貴はぴくりと右頬を引きつらせる。
 そして数回瞬きをして、ゆるく首を振った。
「あなたはあの人が絡んでくると不安定になる。それを浅葱さんに気づかせちゃいけない。それと、身を引いたり諦めたりもしたら駄目だからね、絶対に」
「……ああ」
 賽貴の返事は、いつもより低い音だった。そして心なしか、弱い響きでもあった。
 それに納得ができない朔羅は、彼の肩に手を置く。
「賽貴さん、しっかりするんだ。ちゃんといつものようにして。あなたが揺らいでどうするの。……僕らのそれぞれの誓いはそんな簡単に歪んでしまうものじゃないでしょ」
「解ってる。……いや、俺はそんなに……情けない顔をしているのか?」
「あの時と同じ顔をしてる。恨んでいるはずの相手に、どうしてあなたはいつもギリギリの所で身を引いちゃうの。血がそうさせてしまうの?」
 兄弟だから。彼は賽貴の兄だから。
 朔羅の言葉は、それを意味していた。
 賽貴にはそんなつもりはさらさら無かったのだが、自覚がなかっただけでそうだったのかもしれないなどと思えてしまう自分も確かにいた。
 ――あの時は、ことのほか。
 諷貴が自分の兄だからという理由ではなく、『彼』が自分ではなく諷貴の手を取ったから――。

 ――でも私は、賽貴が好き……。

 脳内の記憶が呼び起こした音は、浅葱の声音だった。
 無意識に右手の指先が額に行き、表情を隠すようにして彼は俯いた。
「賽貴さん」
 朔羅が追い打ちをかけるようにして言葉を続けた。
 あの時のあの場面を共に見てきたからこそ、彼だけが賽貴に厳しくなれるのだ。
「僕と改めての約束をして。何があっても、浅葱さんの手を離さないって」
「……その約束を違えたら、お前が浅葱を攫ってしまうのか」
「賽貴さん、それ本気で言ってるんだったら怒るよ?」
 瞬時に、その場の空気が一変した。
 ざわりと冷たいそれが広がり、わざわざ距離をとったにも関わらずに浅葱にまで届いてしまう始末であった。
 賽貴は自嘲気味に笑うのみであったし、朔羅も彼の言葉にあっさりと腹を立ててしまい瞳の色が金色に変わるまでになっている。
「二人共、どうしたの?」
 空気の大きな変化を感じ取った浅葱が、二人の傍へと駆け寄ってきた。
 賽貴も朔羅も、互いに顔を背けて言葉を繋ぐことをやめてしまう。
 思うところは、同じこと。
 彼らは彼らなりに、目の前の主を大切に思っている。
 だからこそ譲れない感情があって、許せない感情もある。
「浅葱さん、ちょっと僕と一緒に出かけようか」
「え? えっと……」
「夕刻までに戻れば大丈夫でしょ。急ぎの依頼があるわけでもないし、僕に付き合って」
 朔羅は半ば強引に、浅葱の右手を取った。そして彼の返事を対して聞かずにその腕に主を抱いて地を蹴る。
 見上げる賽貴の表情は、複雑そうであった。だが彼は、朔羅の行動を止めることなく見送るのみだ。
「……まったく、改めて感じると苛々するね」
「朔羅?」
「ああ、いや。あなたの事じゃないんだ。ごめんね、浅葱さん」
 抱き抱えられたままの浅葱は、不思議そうな顔で朔羅を見上げた。
 賽貴もそうだったが、朔羅も焦っているかのような落ち着きのない表情をしている。
 滅多に言い争いなどしない二人が何らかの理由でそうなってしまったのだと感じた浅葱は、ゆるりと思考を巡らせた。
 自分の背が伸びたり、僅かであるが霊力が上がったり、ここ数日で何かしらの変化があった。
 片手で数える程度にしか能力を使わない父が、朔羅の依頼によってその力を使ったことにも繋がりがあったのだろうか。
「朔羅、『父上』は何を視た?」
「――――」
 屋敷から離れて随分と宙を飛んだ先、一つの社の奥に建つ巨木の枝にたどり着いたところで、『主』としての言葉を受けた朔羅は返答に困ったような表情をした。
 そして浅葱の目の前で右手のひらを差し出し「少し待って」と小さく言い、己の瞳を閉じる。
 朔羅の目は未だに金のままであった。
 それを元の色に戻すために、時間が必要だったのだろう。
 足元では一人の宮司が銀杏の葉を箒で掃く作業に追われていた。
 黄色の敷物のように葉が広がる地面を見つめながら、浅葱は朔羅の言葉をひたすらに待つ。
 その間、彼は何も語ることはなかった。
 ざわざわ、と風が木々を揺らす音だけが耳に届けられる。
「……浅葱さんは、いつからそんなに強い子になったんだろうね」
「私は強くなんてないよ。いつでも、毎日、怖いことばかりだ」
 長い深呼吸を終えたあと、朔羅はゆっくりと瞳を開いた。その色は普段通りの優しい水の色だった。
 太い枝に腰掛けていた浅葱の隣に、朔羅もそこでようやく並んで腰を下ろす。
「無理やり連れてきちゃってごめん」
「ううん。大丈夫。朔羅はいつもこういうところで息抜きをしてるのかなって考えると、なんだか秘密を知ってしまったみたいで心がくすぐったい気もするね」
「…………」
 浅葱には大きな変化があった。
 彼自身は気づいていないようだが、言葉の受け答えが以前より大人びているのだ。
 それを改めて感じて、朔羅は主の向こうにかつての『彼』を見た。
「似てる似てるとは思ってたけど、こうやってどんどん成長していったら瓜二つになっちゃうのかな」
「え?」
 朔羅の言葉に、浅葱が首をかしげる。
 こう言ったところは、まだまだ子供の仕草だ。
 だが彼は、日々確実に陰陽師として京を守るものとしての成長を遂げていた。
「あ、もしかして先々代のこと?」
「ああ、うん。似てきたなって改めて思ったから」
「容姿はよく似てるって言われるけど、中身も同じように備わっていたら、私自身は嬉しいって思うよ」
 浅葱のそんな言葉に、朔羅は困ったような笑みを浮かべてから大きな溜息を吐いた。
 少し前の彼なら、先々代と比べられることを僅かに厭っていたはずだ。誰より尊敬しているからこそ、その力の差を感じて彼は苦しんでもいた。
「……浅葱さん」
「うん」
 浅葱の肩に、朔羅は自然と手を置いた。
 そしていつものように彼の顔を覗き込むと、浅葱は優しい笑みを返してくれる。
 朔羅はこの笑顔を、常に守りたいと思った。
「さっきの、あなたの問いに応えるよ。……蒼唯さんは未来に闇を見たと言った。必然的に、これから先に良くない事が起きるという報せでもある」
「賽貴の気が少し震えていたのはそのせいなんだね?」
「うん」
 浅葱の心は一点の曇もなく凪いでいるようだった。
 そしてはらり、と頭上から落ちてきた一枚の銀杏の葉に視線をやるとそれがゆっくりと地へ落ち行く様を目で追いつつ、彼は再び口を開いた。
「……陰陽師としてこの京にいる以上、危険とは常に隣り合わせだし、時には命に関わるような大きな怪我もする。それでも私は、ここを守っていかなくちゃいけない」

 ――この京を守っていくこと。それは私の誇りであり存在意義でもあるんだよ、朔羅。

 過去に聞いた言葉が、脳裏を過ぎった。
 ずいぶん前の話になるが、今でもはっきりと覚えている声音だ。
 彼が何物にも変えがたく、誰よりも守りたいと思えた相手の言葉だった。
「……さん」
 朔羅の唇から漏れた名を、浅葱は傍らで小さく受け止めた。
 そして一度の瞬きの後、小さく笑みを作る。
「先々代はやっぱり素晴らしい人だったんだね」
「……でも、決して完璧な人じゃなかったよ。情にもろくて、もろすぎて僕も賽貴さんもあっさり裏切られた」
「朔羅は、私もそうなるんじゃないかって心配をしているの?」
「!」
 ためらいもなく、すんなりと。
 浅葱が告げた言葉に、朔羅は平静を崩された。
 その言葉を予想することができずに、返す響きを用意しきれなかったのだ。
「隠し事はしたくないから正直に言うよ。浅葱さんの言うとおりだ。……あなたの祖父である瀞(しずか)さんは稀代の陰陽師と言われるほどの人だった。だけどやっぱりヒトであることには変わりなくて、優しくて……誰にでも優しすぎて、僕らは苦労ばっかりしてた。最終的には、みんな泣いたよ」
「…………」
 朔羅の言葉を、浅葱はただ黙って聞いていた。
 自分が思い描いていた祖父の姿と明らかに違う点があったのだが、それにはさほど驚いてはいないようにも見える。
 人間らしさを垣間見たかのようなそんな新鮮さが嬉しかったのかもしれない。
「……私はまだまだ子供だし、出来た人間じゃないから……やっぱり流されやすいし、惑うことも多いかもしれない。朔羅の心配どおりになってしまうかもしれない。でもだからこそ、見ていて欲しいって思うよ」
「負けたよ、浅葱さん。……僕はどんなことがあっても、あなたの傍からは離れない。自分の出来る限りで守るし、守らせて欲しい。残酷な現実になったとしても、絶対に守るよ」
 朔羅はそう言いながら、浅葱の肩を自分へと引き寄せた。
 そして主が反応する前にうっすらと唇を奪い取る。
 さすがの浅葱もそれには大層驚いた表情を浮かべたが、朔羅は小さく笑うのみだった。
「順番的なことを言えば、僕は常に二番目だ。瀞さんの時もそうだった。僕はいつだって賽貴さんには敵わない。……でも、僕の気持ちはいつだって本当で、本気だっていうことは忘れないでね浅葱さん」
「……う、うん」
 決意の他にとんでもないことを実行されて、そしてとんでもないことを告白された浅葱は、先程までの大人びた表情は何処へやらといった感じで、頬を真っ赤に染めてその場で俯くのだった。