夢月夜

第四夜(六)


 月が師走に代わり、ある日の午後。
 浅葱に呼びつけられた琳と藍が、揃って彼の室で正座をしていた。
 呼びつけた側の浅葱は火急の文の対応に追われて、賽貴にあれこれと指示を出している。
「……なんか、最近の浅葱ってすごく『主』らしいよね」
 忙しなく筆を進める浅葱の姿を見ながら、藍がぽつりとそう言った。
 隣に座する琳はチラリと視線を動かしたあと、軽い溜息を吐いてから返事のための言葉を作る。
「それほど、浅葱どのの成長が明確で目覚しいということでしょう。少し動きすぎだとは思いますがね」
「琳は浅葱に甘いね。……前はあんなに見下してたのに」
「今更な話を蒸し返してどうするのです。からかう気でいるのなら僕も容赦しませんよ」
 藍の言葉に、琳は動揺すら見せない。兄としての威厳と自尊心からくる態度なのだろう。
 それを横目で確認してから、藍はふぅと小さく息を吐きこぼした。
「純粋に思ったことを言っただけだよ。浅葱も琳も、あたしにとっては模範だからね」
「……お前からそんな言葉が聞けるとは思いませんでしたよ、藍」
 琳のその声音は、僅かに驚きの色を醸し出していた。
 自分にも浅葱にも変化が訪れた。藍にも当然、何かを感じて伸びる時期が来る。それが今なのだという事なのだろう。
 妹の成長を感じられるということは、兄である琳にとっては嬉しく思える事柄だ。
「――呼び出しておいて、そのままにしてしまってごめんなさい」
「いえ、もうよろしいのですか」
「うん」
 急用を片付けた浅葱が慌てて駆け寄り、ふたりの前で膝を折った。
 琳が問いかければ彼は二つ返事の後にこくりと頷き、そして再びまっすぐ顔を上げた。
 自然と双子の背筋が伸びる。
「改めての話になるんだけど、二人に正式な契約を結びたいんだ」
「え?」
 浅葱の申し出に、二人とも同じ音程で同じ言葉を同時に吐いた。
「これからしばらくの間、紅炎が表に出られなくなるから、藍と琳に代わりをお願いしたい。もちろん、あなたたちの気持ちを真っ先に尊重するつもりだよ」
「…………」
 藍と琳が互いを見やった。
 琳はすでに『浅葱の使役』としての役目がしっかりと板についていて、彼の意志もまたそこにある。
 藍と言えば、九条邸で過ごすことがほとんどであるが何も目的がないと言うわけでもない。
「……浅葱は、あたしがいないと困る?」
「うん、必要だよ」
 藍の問いかけに、浅葱は何の迷いもなくそう答えた。
 その響きに、藍はうっすらと頬を染める。自分が必要とされるのが、嬉しいのだ。
「あたしは向こうに帰っても、きっと居場所も目的も無いから、ここにいたい。浅葱の役に立てるなら、そうしたい。……それに、まだまだ教わりたいことがあるし……」
「ありがとう、藍」
 藍の言葉はしっかりとしたものだったが、後付けの言葉が若干濁しているかのような気がした。それに浅葱は気づいていたが敢えて聞かずにゆっくりと頷く。隣にいる琳も当然、藍のそんな言葉を気にかけたが今はそれを追求するべきではない。
「僕も同じですよ。それこそ、今更確認するまでもない話です。僕はあなたのためにここにいて、あなたのためだけに動いている。それはこれからも変わらないでしょう。僕と藍だけで紅炎どのの代役が務まるかどうかはわかりませんがね」
「琳……」
 琳は相変わらずの口調と言葉であった。
 浅葱の目をしっかりと見て、そこから確実に言の葉を刻んでいく。真摯な言動であったが、受け止めた側の浅葱には若干の戸惑いが見えた。
 それもまた、琳にとっては想定内である。うっすらと、浅葱に気付かれない程度の笑みを浮かべて、彼は満足そうであった。
「ところで……紅炎どのは何故前線を離れるのか、お聞きしてもよろしいですか」
「ああ、うん……そうだね、いつかは分かってしまう話だし、言っておかないとね」
 琳の改めての言葉に、浅葱は一度言い淀んだ。
 藍も琳も主のそんな様子を目に留めて、僅かな覚悟を決める。
「……紅炎のお腹にはね、今、おややがいるんだ」
「!?」
「えっ……」
 浅葱の口から放たれた言葉は、双子には到底想像もできない事であった。それぞれがそれぞれの驚きを見せて、動揺する。
「ちょっとね、色々な理由があって……紅炎はとても苦しんでる。でも、私が我侭を押し通して彼女に子を残せと言って……多分、生まれたややは私が育てることになると思うんだ」
「……あ、浅葱。まさかアンタが父親ってわけじゃないわよね……?」
「うん、そうじゃないよ。私は子は残せないから」
 ふるふると震えながら浅葱へと人差し指を差し出し、確認を取ってくる藍。
 浅葱は苦笑しながらそれに答えて、ゆるく首を振った。

 ――子は残せない。

 浅葱のそんな言葉に素直に眉根を寄せたのは琳だった。
 身体的な問題から言えば、浅葱は『母』にはなれないが『父』にはなれるはずだ。だがそれでも彼は『残せない』と言い切る。それは自分の想い人が男性であること、その人と生涯を添い遂げる意思を示している何よりの証拠でもあった。
「後世のためには可能性が皆無でなければ、残すべきだと思いますがね。あなたのその『血』は、あなたの身体にのみ存在するのですから」
「琳……」
 心なしか琳の表情がいい色をしていないな、と浅葱は内心でつぶやいた。
 感情を露わにした物言いも珍しく思えたのか、僅かに首を傾げる。
「出すぎた事を言いました、忘れてください。……でも、もしあなたが真の女子(おなご)であったなら……僕はあなたを本気で欲したでしょうね。無理強いをしてでも。あなたにはそれほどの魅力がある」
「…………」
「琳、なに言って……」
 ざわ、と空気が大きく揺れた。
 琳の言葉が言霊になり、空気を揺るがせたと言ったほうが正しい状態であった。
 普段、こんなことを言うはずもない彼が心の吐露を浅葱にぶつける。それを隣で見ていた藍はまた焦りの表情を見せて、彼の肩に手を置いた。
「……っ」
 ピシ、と指先が切れるような鋭い空気。
 忘れられがちであるが、彼もまた妖最強の天猫族である。感情が高ぶれば、それは顕わになってもおかしくはない。
「――話が逸れましたね。とりあえず、紅炎どのの事情はそれなりに把握しました。僕はいつだって、あなたに災厄が降り注がないように気を配るだけですよ、浅葱どの」
 肩に触れた妹の手をゆっくり掴みながら、琳は静かにそう言った。
 瞬時に荒れた感情は抑えたようだが、それでもどこか物言いに刺がある。
「……琳」
「ご安心を。僕はあなたから個人的な返答を求めているわけではありません。少なくとも、今はね。ですから、主としてのお言葉をお願いします」
「あ、はい……」
 浅葱がわずかに頬を染めつつ彼の名を呼ぶと、琳はそれ以上を止めた。この辺りの気持ちの切り替えなどは、彼は完璧だった。
 浅葱はその言葉を受けて、少し視線を下げつつも返事をする。
 そして懐から二つの鈴を取り出し、二人の眼の前に置いた。その鈴には紐が付けられており、藍には躑躅(つつじ)色、琳には青藤色のそれが備えられている。
「私の式神になるという証の一つです。一つの鈴に私の霊力が込められています。受け取った瞬間からそれがあなた達の身体に浸透して、契約が結ばれます。……その後、己の死を迎えるまで切り離せないものになりますが、宜しいですか?」
 浅葱の言葉に、藍がこくりと喉を鳴らした。
 だが、覚悟などはとうに出来ている。
 藍も琳も、浅葱に受け入れられた時からすでに、心はしっかりと決まっていたのだ。
 あの五人も、かつてはこうして浅葱の差し出した鈴を各々で手にとったのだろうか。それを脳内で想像しつつ、双子は同時に目の前の鈴を手に収めた。
「…………っ」
 ビリ、と一瞬の痺れが全身を駆け巡る。足の先から始まって髪の先まで行き渡ったそれは、二人の身体を一巡した後、空気に触れてふわりと溶けるようにして消えた。
 そして、次の瞬間に訪れたものは。
 己の体を暖かく包む『何か』と、そこから込み上げてくる苦しいほどの感情と、理由もなく溢れてくる涙だった。
「あ……」
 ぼろぼろっと零れ落ちるその雫に、藍も琳も動揺する。
 浅葱の――主の、この小さな身体に詰め込まれた霊力と、心の色。血の温かさまで伝わるかのような――否、実際に彼の血を受け入れたかのような、そんな気持ちにすらさせられる。
 『契約』とは即ち血肉を分かち得て共有しあうもの。
 それを脳内で察知した二人は、数回の瞬きのあと言葉なく涙を拭った。
「二人とも、ありがとう。あともう一つ、身体の何処かに証の文字を入れないといけないんだけど、どうしようか」
「それって、紅炎さんの胸の谷間にあるあれ?」
「そうだよ。彼女は自らの心を主に捧げるっていう意味合いで、あの場所を選んだんだよ。刻んだのは私ではなくて母上だけどね」
 露出の多い紅炎の着物は、いつもどうしても胸に目が行ってしまうので、その谷間に刻まれた文字は藍も琳もすでに承知であった。そして五人がそれぞれ、意味の持つ場所にそれを選んだのだと浅葱の言葉で理解して二人は横目で互いを見合った。
「僕たちは双子なので、対になる場所を所望します。刻まれる文字は何となく分かってしまうんですが。……僕には普賢の加護が付いている」
「琳は本当に賢いね。あなたの言うとおりで、琳にはアク、藍にはアンの文字が入るよ。……場所はそうだね、手の甲とか……」
「ココがいい」
 浅葱が思案しつつ言葉を続けたところで、藍が自分の右頬に指をさしてそう言った。ちょうど頬骨のあたりだ。
「……じゃあ琳は左頬、かな?」
「そうですね。手の甲でも良いですが、僕の場合は天猫の習わしで常に布で覆っていますから隠れてしまいますしね」
 紅炎以外の式神は、それらしい文字は一見して見当たらない。つまりは衣服の下に存在しているのだが、それでも琳と藍は人の目につく場所を所望する。
 それは、自分たちがこの人間界の中でれっきとした都一の陰陽師の式神であるという証を示したいという気持ちの現われなのかもしれない。
「常に見える場所だけど、大丈夫?」
「構いませんよ。他の陰陽師に会った時に便利ですからね」
「うん、アタシもそう思った。だから、ココがいいの」
 改めての確認をしても、双子の信念は揺るがない。
 浅葱はそれぞれの言葉を受け止めてから、こくりと頷いてその場から立ち上がった。そして二人の目の前に歩みを寄せて、膝を再び折る。
「――二人は、そのままでいてね」
 そう言って、浅葱は己の右手親指の腹を、素早く噛んだ。
 ぷつ、と浮かぶのは鮮赤の一滴。それをまずは藍の右頬に当てて、梵字を書く。アンの文字だ。
 そして、琳の左頬に入るのはアクの文字だった。
 琳は瞬きすらせずに、浅葱の行動をじっと見つめていた。それが浅葱にとっては少しの緊張にも繋がったが、それでもしっかりと文字を刻む。
 普賢菩薩の文字には、琳が言ったとおりの意味があった。
 彼は以前、浅葱によって普賢の延命法を使って命を救ってもらっている。その術は未だに効力を保っているために、加護となっているのだ。
 そして藍と琳は今この瞬間から、『天猫族の禁忌の双子』という肩書を捨てて、浅葱の式神という立ち位置を得た。
「これからもよろしく、藍、琳」
「己の天命尽きるまで、精一杯お仕えさせて頂きます」
 琳の言葉は、賽貴と全く同じものだった。
 浅葱はその響きにドキリと胸が跳ねた。
 賽貴を意識しての言葉だと、そう思う。正直、彼がどうして自分にここまで入れ込んでくれているのかは、浅葱には解らなかった。想いに答えることは出来ないが、それでもその好意は大事にしたいと心の中でそっと思う。
「アタシも、自分の出来る限りで頑張るから。だから、いつでも頼ってね、浅葱」
「ありがとう。あなた達の主であることを誇りに思うよ」
 藍がにこりと良い笑顔を浮かべてそう言った。
 琳の生み出す空気を読み取っての気遣いでもあったので、浅葱にはそれが少しだけ有り難いと思えた。
 変わっていく感情と過ぎゆく時間。
 自分が変えていく世界の中に、守りたいものがたくさんある。
 そんな中で浅葱は心の奥に抱いた小さな仄暗い気持ちを、今はまだ静かに抱え込むのだった。