夢月夜

第四夜(七)


 新しい年を迎えた。
 浅葱は齢十五となり、また僅かにだが成長を感じさせる雰囲気を持ち合わせるようになった。
 そんな主に習うようにして、琳も藍もそれぞれの成長を遂げていた。
 琳は益々、頭の冴えた少年となり、藍は体術などを身につけ浅葱の式神として申し分のない動きを取れるようにまでなる。
「藍は飲み込みが早いな」
「まだまだ、紅炎さんみたいには動き回れないけど」
「いいや、十分戦力になる。さすが、天猫の子と言うべきか……」
 庭で基礎の動きを披露する藍に対して、階の上に腰掛けた紅炎がそう言った。
 彼女の肩には変わらずの袿が掛けられていて、体を冷やさないように側には火桶も置いてある。
「……休憩にしようか」
 藍の息の上がる様子を察知した紅炎は、静かにそう言った。
 そして背後の自室に藍を招いて、向き合って座る。
「白湯で身体を温めると良い」
「ありがとう、紅炎さん」
 紅炎は藍の膝の前に一つの湯のみを差し出してくれた。
 中には彼女の言うとおりの白湯が入れられている。
 藍は「頂きます」と一言を告げてから落ち着きのある所作でその湯のみを手に取った。
「……作法は桜姫さまから手ほどきを?」
「うん」
 少し前まではこんな細かな動きなど出来なかったはず、と思いつつ紅炎はそう問いかけた。
 藍は白湯の一口をゆっくりと喉に流し込んだあとで、両手できちんと湯のみを持って、短い返事をする。
 非常に手厳しく実子の浅葱でさえ音を上げたことのある桜姫の作法に、藍は一度も挫けることもせずに付いて行っていた。
 久しぶりに教え甲斐のある子と出会えたと、仄かに嬉しそうな声音で呟いた桜姫の表情は柔らかく優しく、印象的であった。
「桜姫さまも、藍は良い子だとおっしゃっていた」
「そう思われてるなら、嬉しいかな……。最初は、凄く厳しくて、正直なこと言えば逃げ出したくなる時もあったけど……」
「それでも今、ここにいる」
 紅炎のしっかりとしたその言葉を受けて、藍は軽く瞠目した後、嬉しそうに笑った。
 そんな彼女の笑顔を見て、紅炎も小さく微笑む。
「アタシね、此処に来てよかったって、本気で思ってる。きっかけは、どうしようもない自分の我儘だったけど……」
 湯のみを手にしたまま、藍がそんなことを語りだした。
 その表情が、少しだけ大人びて見える。彼女の兄である琳が最近急速に大人の表情をするようになったと感じていたが、やはり似たようにして成長しているのだろうと思った。
 そうして、紅炎は自身の姿を静かに省みる。
 桜姫と出会った頃、自分はただの人狼戦士でしか無かった。
 戦って、戦ってを繰り返し、戦いの中にこそ喜びがあると錯覚していたあの頃は、自身が女であるという自覚すら薄らいでいる時期でもあった。

 ――美しい面立ちをしているのに、どうしてそんなに行き急ぐのですか。

 初めて出会った時の、桜姫の言葉である。
 今でも鮮明に思い出すことの出来る光景であった。
 あの時の彼女こそ、凛々しく美しい存在そのものであった。普通のヒトであり女の身でありながら、桜姫は陰陽師として活動していた。姿こそ男を装っていたが、それでも彼女は美しかった。
 そんな彼女が、自分に差し伸べてくれた希望。
 桜姫だからこそ、自分の将来を預けられると確信して、彼女の手を取った。
 それなのに、今は。
「……うっ……」
「紅炎さん!」
 ぐぅ、と胸から喉に湧き上がるモノ。
 悪阻である。
 紅炎はその症状をいつまでも受け入れきれずに、拒絶の色を見せたままだ。
 藍が湯のみを置き慌てて彼女のそばに寄った。そして、名を呼んだ後に優しく背中を擦ってくれる。
「……情けない姿を晒して、すまないな……」
「ううん、いいんだよ。アタシのほうこそ、無理言って色々教えてもらってるんだから、少しでもお返ししないと」
「藍は……本当に良い子だな」
 紅炎は俯きながら浅く笑い、そう言った。
 藍は彼女の背を撫でつつ、また口を開く。
「……あのね、さっきの話の続き。アタシね、紅炎さんのおややを見るの、楽しみにしてるんだよ。賽貴さまの兄様のことは……アタシは親戚だし、少しだけ知ってて、やっぱり『怖い人』でしか無いんだけど……。でもね、紅炎さんは皆が避けているその人を一途に想ってる。それって、凄いことだなって思うの」
「…………」
 藍の言葉に、顔が自然と上がった。
 側近くにいて支えてくれる、小さな手。賽貴と――諷貴と同じ瞳を持つ少女の声音が、心に沁みた。
「紅炎さんは……後悔とか色々、あると思うんだけど……。でも、諷貴さまの事は諦めたりしちゃダメだよ。むしろ、アナタとの子供が産まれるんだ、自分が産んでやるんだって、胸張らなきゃ!」
「……お前に、それを教えられるとは、な……」
 紅炎は声を震わせながらそう言った。
 苦笑しつつのそれであったが、直後にポタリと一つの雫が床に落ちる。
 純粋な少女の正論が、有難かった。
 その通りだと思った。
「そうだな、そう思うべきなんだな……。母になるということを、誇るべきだな」
「うん、そうだよ。意地でも幸せにならなくちゃ」
「……ありがとう、藍」
 紅炎は藍に微笑みつつ、溢れ落ちた涙を拭う。
 そして彼女は、少女に向かって小さくではあったが礼を言った。精一杯の今の気持ちであった。
 藍は「どういたしまして」と返した後、ふふ、と笑う。
「――やれやれ、藍は随分とこの家で格を上げたな」
 影でそう言うのは、紅炎の様子を伺いに来た朔羅であった。
 一つの柱に背を預けて、肩を竦めつつ苦笑する。
 そして、こういう時には同性同士のほうが釣り合いの取れた会話が出来るのかもしれない、と思った。
 自分も『それ』に当てはまるが、心が男寄りであることを自覚しているのできっと紅炎の心情を理解するには時間が掛かる。
「…………」
 過去の忌むべき時間に、自分の体に子が宿っていれば、少しは彼女の慰めになっただろうか。
 彼はそんなことを考えて、緩く首を振った。
 どんな理由であれ、愛の無い行為の末では、決してそうではない。
 紅炎は経緯こそ知らないが、まだ相手を愛している。
 ――あの諷貴を。
「……そうだ、諷貴さんなんだ」
 ぼそりと小さく呟く。
 紅炎の愛し人は自分たちの『宿敵』とも言える相手。
 主である浅葱は、その彼に気に入られている節がある。
 この奇縁が、悪い方向にじわじわと矛先を向けている気がして表情すら歪んだ。
「それでも、これが浅葱さんが選んだ道だ……。そして僕たちは、そんな主を守りぬくだけだ」
 その場で静かな独り言を続けた朔羅は、音も無く背を預けていた柱から離れて、紅炎の部屋の前から離れていった。
 ポタリ、と墨が料紙に落ちて広がっていくような。静かに広がる不安に似た感情を、九条邸に住まうもの誰もがこの時、感じっていた。