夢月夜

第四夜(九)


 何時もと変わりない光景であった。
 ――否。直後にそれは現在のものではないと浅葱は悟る。
「賽貴どの、兵部卿宮(ひょうぶきょうのみや)からお文が届いてるぞ」
「……ああ、有難う」
 聞きなれない声がした。
 直後に視界が足元に変わり、文を受け取る。
 自分が受け取ったはずなのに感覚はなく、随分目線の高さが違うと思った。
(ああ、これが……賽貴の目線なんだ)
 心で小さくそう呟く。
 そして文を届けてくれた相手をもう一度見る。
 賽貴の膝ほどくらいしか背丈のない、小さな存在。前下りの切り揃えられた群青色の髪に、大きな瞳。一つ目族と呼ばれる妖である。立場から察するにおそらくは式神の一人となっているのだろう。
 自分の代では在籍してはいないが、過去に居を共にしていたと記された書が九条邸には残っている。
 ゆら、視界が移動し始めた。
 賽貴が廊を歩み始めたのだ。
 一歩が大きく、しっかりとした足取り。
 浅葱は今、賽貴の視界の中にいる。
 意識を手放す前、自分の視界のみですがお見せします、と言ったのは賽貴だった。
 その時は理解する間も無かったが、彼の能力によって自分は今過去にいるのだと、直感する。
「瀞さま」
 御簾を押し開けた先、さらに進んだ場所に座るその姿が視界に入り込んだ途端、浅葱は心を打たれた気がした。
 自分と似ている、とも思ったが大人びたそれはやはり自分ではなく、祖父の生前の姿なのだと確信する。
 賽貴に名を呼ばれた祖父、瀞はゆっくりと振り返り柔らかい笑顔をこちらに向けていた。
「……ああ、文ですか。宮のところの姫君にはすっかり気に入られてしまったようですね」
 賽貴が差し出した文を受け取りつつ、瀞は少しだけ困ったような笑みを浮かべた。
「私はあの方に見合うほどの技量も身分もないというのに」
 文箱を開け、料紙を広げつつそう言う。
 文の内容は恋文そのもので、明らかに瀞に想いを寄せているという趣旨のものであった。
「正式な縁談が舞い込んでくるのも、時間の問題なのでしょうね」
 賽貴がそう言うと、瀞が少し目を吊り上げてこちらを見上げてくる。
「賽貴はそれでいいのですか?」
「私は喜ばしいとは申し上げておりませんが」
 それだけの会話を聞いて、浅葱は一つのことに気がついてしまった。
 だが別段驚く事もなくすんなりと、そうなのかと納得してしまえる事柄でもあった。
 賽貴と瀞の関係性だ。
 状況を見るに、瀞は身分の高い姫から想いを寄せられている最中で、それをどこか憂いている様子が見受けられた。質の良い香や料紙を大切に扱っている以上、少なくとも姫自身を厭っているわけでは無さそうだが、それでも彼はそれ以上の感情を持てずに居るようだ。
「藤姫は美しい、良い方ですよ」
「そうですね、その御身分に違わない類まれな才量と美をお持ちです」
「……一介の陰陽師でしか無い私とは、釣り合わないにもほどがある。宮がお許しになっても、世間がお許しにならないはずなのに」
 瀞はまず身分を酷く気にかけた。
 そこは自分とよく似ていると浅葱は思う。
 好いてくれる相手の身分が上である以上、何より気にかけなくてはならない事だ。
 兵部卿宮は先帝の弟君でもある。その姫ともなれば、何かと難しい話でもあるのだろう。
(……でも、『藤姫』……。私のお祖母様と同じ名前……)
 全てを知らずとも、それだけで十分事の成り立ちが読めた。
 瀞は程なく『藤姫』をこの家に招くことになる。そして夫婦となり、血を残していく。
 例え想い合っていなくとも、結婚はいくらでも成立させることが出来る時代である。
「――賽貴、少し休んでもいいですか」
「どうぞ」
 瀞がそう言いながら自然に賽貴の腕の中に体を寄せてきた。
 眼下に映る祖父の姿は、とても安心している表情をしていた。
 自分がそうであるように、瀞にとってもまた、賽貴と言う存在は特別なものであったのだろう。
 そして、賽貴にとっても。
(…………)
 細い手首が視界に入る。自分よりは大きいが、それでも瀞は華奢だと感じた。
 賽貴はその手首にそっと手を伸ばし、優しく包み込むようにして握る。既に寝息を立てている主をしっかりと腕に収めながら、彼もまた瞳を閉じた。

「賽貴さんってさぁ、瀞さんに甘すぎじゃない?」
 少しの間の後、視界が移り変わった。
 耳元に届いたのは朔羅の声だ。
 彼は今と少しの違いもない外見で、だらりと寝転んでいた。
 若干、雰囲気が今より尖っている印象もある。
「あの人のお人好しもいい加減にしないと、それだけ影で泣く人も増えるよ。誰かれ構わず優しくしちゃってさ、だからあの姫だって舞い上がっちゃったんだし」
 うつ伏せ寝で床に肘をつき、右腕は頬に、左手には一枚の札を指で挟むようにして持ち、ひらひらと舞わせながらそう言う。
 やはり少しだけ、今の朔羅とは違いがあると改めて思った。
「……あんたもいい加減、お人好しだけど。誰もが怖れるはずの天猫族の『賽貴』が、こんな所で人間に従ってるなんてあっちで知れたら、大変なことだ」
「それほどの力の差も無い白狐のお前が、よく言う」
「僕の一族はもう殆どいないし、誇れるほどのモノは何も無いよ。僕なんかあいつのせいで、自分の力の制御もろくに出来ない半端者だ」
 賽貴の言葉を受けて、朔羅は自嘲気味に哂った後、立てていた肘をパタリと伏せた。当然、頭も下がり表情が隠れてしまう。
 彼は疲れているようだった。
 もしかしたら、『あの件』からそれほどの時間が経ってない頃なのかもしれない。
 着物の裾から見える腕には、うっすらと傷も伺える。蚯蚓腫れの痕のようだが、浅葱もその場面を視てきているので、容易に想像が出来た。
「……瀞さんに近寄る奴を皆、始末しちゃいたい。うるさい。どいつもこいつも、浮かれた声して」
「物騒なことを言うな」
「賽貴さんはそう思わないの? 心の奥底では感じてるはずなのに?」
 掠れた声が続いた。
 朔羅はやはり肉体的にも精神的にも、疲弊していた。それでも、口元のみで笑みを残すことだけは今でも変わりのない行動の一つだ。
 ぺたりと床に頬をつけながら、乱れた髪の隙間を縫うようにしてこちらを見てくる。その姿は若干、異常でもあった。
「あー……僕がこんな風に誰かを気にするなんて、可笑しいね。どうかしてるとしか思えない」
「良い傾向だと言うことだ」
 投げやりに繋げた言葉に賽貴が真面目な返答をすると、朔羅はそのままクスクスと笑った。
 言葉通りに、今の現状が可笑しいのかもしれない。
「こんな僕の見張りさせられてて、よく飽きないね」
「見張りではない、お前の体が心配だからここに居るだけだ」
「……変なの。ほんっと、ここの屋敷の人たちって変な奴ばっかり」
 朔羅は今度こそパタリと、その場で顔を伏せつつそう言った。照れているのかもしれない、と浅葱は思った。
 一人の男の拘束から解き放たれた後、おそらく朔羅には行き場所が無かったのだろう。
 そこで何らかの理由を経由して出会ったのが瀞であり、賽貴であったのだと想像が出来る。
 生きている間、それぞれに同じくらいの『出会う偶然』がある。そう簡単に重なるものではないが、偶然は必然だという言葉があるように、仕組みはどこかで繋がっているのだ。
 瀞にも賽貴にも、朔羅にも。
「そう言えば」
 ふと何かを思い出したかのような仕草をしつつ、朔羅が僅かに顔を上げて再び口を開いた。
「こないだ、ここに知らない人がいた。……外見だけだったらあんたと同じ顔。あれ、誰?」
「ああ、それなら……俺の兄だ」
「……ふぅん。同じ顔ってだけで、ちっとも似てないね、二人とも。っていうか、賽貴さんがまともなら、あの人はなんか異常だ」
 二人の会話が再開された直後、その場の空気が一変した。それまでは温かな日差しが降り注ぐ空間であったのに、薄ら寒い。
 朔羅も賽貴も当然気が付き、視線を巡らせた。
「人の噂をする時は、もっと忍ぶべきじゃないのか?」
「……兄上!」
 ガッ、と遠慮も無しに朔羅の頭が掴まれたかと思えば、低く冷たい声がその場を満たす。
 賽貴が声を掛けるも、『彼』は少しも動じてはいないようであった。
 ――諷貴である。
「っ、ちょっと、痛い、んだけど……っ」
 朔羅の表情が歪んだ。
 茶色の髪を乱暴に鷲掴みにされ、そのまま体を起こされる。まともな抵抗すら出来ない空気を纏わせ、諷貴は目を細めて手元の朔羅を見た。
「さすが白狐、というべきか。綺麗なカオしてるな」
 空いている方の手で朔羅の頬をひと撫でし、そう言う。
「兄上、おやめください。この者は病み上がりです」
「俺に命令するな、賽貴」
 諷貴は口元に笑みを乗せたまま、賽貴を見ずにそう言った。
 高い位置で括られた長い髪は、銀の色をしている。禁忌の双子としての何よりの証しだ。
「……なんだよお前ら、そんなに俺が怖いのか? もっと抵抗してみればどうだ」
「出来る、ものなら、やってるよ……っ。いい加減、その手、離してくれる!?」
 朔羅は苦痛に歪んだ表情のままで、そう言った。髪を引かれたままなので、痛いのだろう。彼の体はまだ万全でもなく、乱暴に扱われることで嫌な記憶まで呼び起こされてしまう。今がまさにその状態なのだ。
「あー……いいね、そういう表情。賽貴はいつも死んだ顔しかしないからな。お前のほうがよっぽど構い甲斐がある」
「――諷貴、どうかその手を離してあげてください」
 朔羅の反応を楽しんでいる諷貴の背に、そんな声がかけられた。瀞のものだった。
 直後、諷貴はあっさりと朔羅を手放し、賽貴のほうへと彼の体を投げ捨てる。
「遅いぞ瀞。俺が来た時はすぐに来いって言ってあっただろう」
「すみません、文の整理に思いのほか手間取りまして」
 瀞は穏やかな口調のままで、諷貴の元へと歩み寄った。
 伸ばされる右手。それが頬に滑りこんでも、彼はいつもと同じように柔らかな表情で、受け入れている。
 その光景を、傍で見る羽目となった朔羅と賽貴の思惑は、決して良いものではない。
「……諷貴。いつでも遊びに来てくださいと言いましたが、これだけは約束してください。朔羅や他の式神たちには危害を加えないと」
「俺は何もしてない。こいつらが勝手に怖がるだけだ」
「歩み寄りも必要ですよ、と言っているのです」
 頬に滑り込んだままの諷貴の右手に触れつつ、瀞の言葉は続いた。
「貴方は生まれ持つその類まれな能力で、周囲を畏怖に導きます。それだけ、諷貴の力が強いという表れです。最強と言われる族の長子なのですから、それを解らなくてはいけませんよ」
「好きで生まれたわけじゃない。それに、後を継ぐのは俺じゃなく賽貴だと決まっている。……だったら、その分自由でいたっていいだろ」
(……諷貴さん。貴方は、寂しいんだね……)
 妖の世で最高位である存在に生まれつつも、求められることの無い立場。銀の髪を持っているというだけで疎まれ、異端扱いを受け、有限の命だと告げられる。それは彼等妖にとっては、どんなに屈辱的な事だろう。
 浅葱はそう思いつつ、少し前の琳の姿を思い浮かべていた。
 ――死にたくない。
 生を願うだけ。愛を欲するだけ。
 それだけなのに。
「自由でいる事と、勝手に生きることは同じようで違うんですよ、諷貴。貴方の未来は完全に絶たれたわけじゃない。私が、そして賽貴がいるじゃないですか。……少なくともこの屋敷にいる限りでは、貴方は要らない存在ではないんですよ」
(先々代の言葉は、私が発するものより、ずっと重いな……)
 浅葱が同じことを空気に触れさせたとしても、ここまでの深みのある言葉にはならないだろうと感じた。
 瀞には、おそらく天性のものであろうが、口にする言葉が相手の心の奥底まで届く魅力があった。だからこそ皆から愛され、親しまれている。
「……俺はお前がいればそれでいい」
 諷貴が瀞を引き寄せてそう言った。
 傍にいた朔羅も賽貴もそれに体が反応するが、何も告げることが出来ない。
 そうさせない雰囲気が二人の中に確かに存在していた。
「諷貴はいつでも、私を困らせてばかりですね。そこが可愛いのですけどね」
「…………」
 瀞の次の言葉に、その場にいた誰もが絶句した。
 あの諷貴ですら反論出来ずに、瞳を逸らす。その頬は僅かに桃色に染まっているような気がした。
 絶対的な存在感。
 不思議な話術と雰囲気。賀茂瀞(かものしずか)という一人の人間が、ここまでの影響力を自然に周囲へと根付かせている瞬間を垣間見た浅葱は、改めて祖父への敬意を心に抱いた。
 もっと、彼を知りたい。
 そう、思った矢先にまた、視界が変わる。
(――えっ……)
 ゆっくりと瞬きをしたような視点の切り替わりの後、浅葱は信じられない光景を目の当たりにした。
「瀞さま……っ」
 悲しみに満ちた声が漏れる。
 賽貴のそれが、直接心に突き刺さるかのように聴こえた。
 場所は、九条邸に変わりない。
 四季を楽しめる庭から、階。その先には自分の室がある。
 そんな、いつも目にしているはずの景色が、赤に染められていた。
 ――それは紛れもない、血の色であった。