Rosa ed amore.

 わたしをさがして、リリアーナ。

 彼女がその言葉を残してから、もうどれくらいの月日が流れたのだろうか。
 残されるものの苦しみも悲しみも、全て承知の上だった。
 あまりに残酷で、貪欲な願い。
 放たれた矢に呪いなど存在しなければ、こんな事にはならなかった。
 だが、その呪いがあったからこそ避けられた現実があった。

 姫君の自害だ。

 それだけは、選んで欲しくなかった。
 勝手だと思われようとも。

 矛盾していると、自覚がある。
 彼女には姫君が光だった。その光こそが全てだった。

 命は、決して軽いものではない。

「……リリアーナ。この結末を、君は悲しむだろうか?」

 朽ちた部屋の中、僅かに差し込む光を見上げながら、『ルーク』は微笑む。

 時代を越えた物語は、終焉を迎えようとしていた。



「………………」
 物音がしたような気がして、リリは顔を上げる。
 自室の机に向かったまま、いつの間にかうたた寝をしていたらしい。
 辺りを見回すも、誰が居るわけでもない。
「ルカちゃん……」
 ぽつり、と大切な人の名を零す。
 そして手の中に納めていたままであったノートを、優しく撫ぜた。
 それはルカが愛用していたノートだった。
「……ちゃんと、残っているのに」
 振り返れば、きちんとその場に。
 ルカが使っていたベッド、机に本棚、クローゼット。全てそのままで残されているのに、彼女は居ない。
 リリ以外に、ルカの存在を知るものすら、居なくなっていた。
 教師や他生徒たちの記憶からは、ルカの存在そのものが消されていたのだ。
 それは、ルカの意思なのか、それとも――。
「………………」
 ルカの姿が消えて、一週間が過ぎた。
 思い当たる場所は全て探したが、彼女を見つけ出すことは出来なかった。
 それでもリリは、諦められなかった。
 どうしても、彼女を探さなくてはならないから。
 ふぅ、とリリの口唇から溜息が漏れた。
 徐に、彼女のノートをペラペラと捲り始める。
 すると後ろのページ辺りで違和感を感じて、手を止めた。

 【――A cara Liliana.】

 ページの真ん中に、新しい文字があった。『親愛なるリリアーナへ』とイタリア語で書かれている。
 今まで幾度も見てきたはずのページ。
 何か、彼女の居場所を記すものが無いだろうかと一ページも見落としが無いように、捲り続けていたノートに、こんなページが存在していたなんて。
 
 ――このページを見つけ出せたと言う事は、わたしはもう君の傍には居ないと言うことだろう。
 今ごろ君は、わたしを探す事に疲れ始めているだろうか?

「そんなこと……!」
 ページに綴られた文字を指で追いながら、リリは反論する。
 するとリリの言葉を知っていたかのような文字が、後には綴られていた。

 ――リリ、からかっているわけではないんだ。機嫌を損ねてしまったのなら、すまない。
 
「もう……ルカちゃんったら……」
 文字に語りかけるようにして、リリは言った。
 そして、ゆっくりと微笑みを作る。

 ――酷いことをしていると、思う。
 これから迎える現実を、怖いと思うのなら、君はわたしを探す事を止めてくれて構わない。
 そして、わたしを忘れて、幸せになって欲しい。
 ――リリ。君を愛しているよ。

 この文章を、彼女はどんな思いで綴ったのだろうか。
 そう思うと、リリは言葉を発することなど出来なかった。
 ルカの残した最後の文字。それを撫ぜると、微かにインクが滲んだように思えた。
 まるで、数分前に書かれたかのような、そんな状態だった。
「……ルカちゃん、私は、諦めないから」
 改めての決意。
 言葉を口にすると、自然と涙が溢れた。
 拭うことなく頬を伝う雫は、リリの握り締められた手のひらの上にゆっくりと落ちていく。
 その瞬間。
 涙に反応したかのように、リリの手元に小さな光が生まれた。
 慌てて視線をやると、そこには古びた鍵があった。
 見たことも無い鍵だ。
 だがリリは、躊躇いも無くその鍵を手に取り、握り締める。
「待っていて、ルカちゃん……」
 小さくそう告げるとリリは静かに立ち上がった。
 まるで何かに導かれるかのように、彼女は自室を後にする。
 何処に存在するかも解らない、鍵つきの扉。
 それでもリリは、歩みを進める足を止めることなく、歩き続けた。



 何処をどう、歩いてきたのか記憶に残されては居ない。
 長い廊下と、螺旋階段を登ってきた事だけは、おぼろげに憶えている。
 手を置いている壁が、酷く冷たくて、昔の意識を呼び起こされるかのような感覚だった。
 歩いて、あるいて。
 気の遠くなるかのような長い階段を登り続けて。
 リリは今、一つの扉の前に居る。
 手にしている鍵と同様、古い扉だった。
 視線を落とせば、ドアノブの下に鍵穴が存在する。
「……ルカちゃん、此処にいるの?」
 そういいながら、彼女はゆっくりと鍵を鍵穴へと差し込んだ。震える指先でそれを回せば、カチリ、と金属音が響く。
 鍵はこの扉のもので、間違いなかったのだ。
「………………」

 ――これから迎える現実を、怖いと思うのなら……。

 ルカのノートに綴られていた文字を、思い出す。
 ドアノブに手を置くも、それを回す事が出来ない。
 リリは静かに瞳を閉じ、心を落ち着かせようと深呼吸を始めた。
 怖くないと言えば嘘になる。だが、ここで引き返すわけにも行かない。
 2、3度繰り返した深呼吸。最後に吐かれた深い息と同時に、リリは瞳を開いた。
 そして、ドアノブに置いたままだった手に、力を込める。
 微かにそれを回せば、簡単に扉は開かれた。軋んだ音が、響き渡る。
 奥へと開かれた扉に導かれるようにして、リリはその部屋の中へと一歩を踏み入れた。
 朽ちかけた床。
 薄暗い室内。
 リリは不安を抱きながらも、歩みを進める。
 窓には重いカーテンが閉められたままになっていた。生地が痛み、虫が喰い、腐りかけたそのカーテンの隙間から、僅かな外の光か差し込んでくる。
 光が差し込む場へと、自然と足が向く。
 そこには、ガラス張りの棺が不自然に置かれていた。それを目にした途端、リリの心臓が、小さく跳ね上がる。
「ルカ、ちゃん……?」
 震える声音。それでもしっかりとした言葉を、リリは紡ぐ。
 一歩一歩、歩みを進めるたびに、露わになるのは棺の中の存在だった。
 美しい薔薇に囲まれ、胸で手を組み目を閉じているのは、紛れも無く――。
「ルーク……!!」

 あるところに、ずっと眠り続けている姫が居ました。
 もう何年も、目覚めてはいません。
 姫は待っているのです。
 大切にしていたものが、此処にたどり着くことを。

 脳裏を横切ったのは、学園内での伝説として噂されていた物語の冒頭。
 リリはその場で膝をつき、泣き崩れた。
 眠り続けているのは、『姫』では無く……。

「――私だったんだよ、リリー」

 顔を覆い、泣き続けるリリの背に、感じなれた温もりがあった。
 そして頭上で響くのは、誰よりも懐かしいと思える声。
「ルカちゃん……!!」
 涙を拭こうともせず、顔を上げ、その存在を確かめたリリは、そのまま声の主へと抱きついた。
「よく、たどり着いたね、リリ。……待っていたよ」
 懐へと飛び込んできたリリを、『ルカ』は優しく抱きしめながら、そう言う。
 棺の中にいる『ルーク』は、未だに眠り続けていた。
 『ルカ』この『ルーク』の、精神体のようなものらしい。
 震えるリリの背を撫でながら、ルカは己自身へと目をやり、自嘲気味に笑っていた。
「……リリ。記憶は、完全に思い出せているかい?」
「…………」
 ルカの言葉に、リリはただ黙って頷く事しか出来なかった。
 記憶。
 それは、リリがリリアーナであった頃の、悲しい記憶だ。
「話してあげるよ。あの後……私がどうなったのか」
 言葉を続けるルカに、リリはゆっくりと顔を上げた。涙はまだ、乾いてはいなかった。
 困ったように笑いながら、ルカはそんな彼女の涙をやさしく拭ってやる。
 そうして、リリを抱きしめたままで、ルカは再び口を開いた。
「敵兵の中に、魔術師が居るだろうと思ってね。
 再び矢を射られては困るから、私はかの存在だけを目指して剣を振るった。見つけるまでの間、随分の兵を切り捨てたな。その時の私は恐らく、正気ではなかったのだろう。頭の中は、君の事でいっぱいだったよ」
 リリアーナを殺させはしない。
 その思いだけで、ルークは戦い続けた。
 呪いの毒が全身を駆け回っていても、気にも留めなかった。
 ――そして。
 敵兵の一番後ろに居た魔術師の首を、ルークは己の剣で刎ねた。
 宙へと浮かんだ魔術師の首が、にたりと笑っていた事は今でも鮮明に憶えている。
 ルークの存在を、あざ笑うかのような、そんな笑みだった。
「その後私は、自分を射た矢を見つけ、それを地面と共に突き刺した。……それ以降のことは、憶えていない。恐らく、その場で倒れたのだろうな」
「……でも、その場には……貴女の姿は無かったわ。ずっと探したけれど、見つけられなかった」
「呪いの為だろう。この部屋はかつての城の牢にあたる。私は魔術師の呪いで、この場でずっと眠り続けなくてはならなかった」
 自然と、合わせられた二人の手のひら。
 それを互いに握り締めながら、ルカとリリは会話を続ける。その姿は、ルークとリリアーナそのものであった。
「リリー自身を、呪うつもりだった矢は私が受けた。今、改めて思うよ。私でよかったと。……こんな、永い時間を一人きりには出来ないからね」
「だけど……その代わりにルークが呪われたわ……!」
「誰かの犠牲無しには、あの時代を乗り越えられなかったんだよ、リリー。それに、あの矢が呪いの類ではなく、ただの矢であれば……君は必ず私の後を追っただろう。だから私は、君に探してくれと……言ったんだよ」
「…………」
 リリは言葉に詰まった。言い返せなかった。
 ルークを誰よりも愛していたリリアーナ。きっと、ルークがあの矢で死に至っていれば、間違いなくリリアーナは彼女の後を追い、その場で自害していただろう。
 そこまで読んでいたルークの思いに、また涙が溢れた。
「ルカ、ちゃん……これからは、また……一緒に、いられるんでしょう……?」
 ルカに涙を拭ってもらいながら、リリは静かにそう言う。
 二人を隔てるものはもう何も、無いはずだから。
「……リリ。眠り姫を起こす方法は知っているだろう?」
 座り込んだままだったリリをゆっくりと立ち上がらせ、ぽん、と背中を軽く叩き、ルカは微笑んだ。
 リリの問いかけには、答える気はないらしい。
「童話と、同じなの?」
「そう」
 誰もが知っている古い童話。その中の眠り姫は、王子の口付けで目覚めるとある。
 ルークが目覚める方法も、同じと言うことだ。
「さぁ、リリー。私を目覚めさせてくれるね?」
「……うん……」
 ゆっくりと、押される背中。
 棺の中のルークが目覚めれば、そこで全てが解放される。
 喜ばしい事であるはずなのに何故か、リリの心は晴れなかった。
 ――この、見えない不安のような気持ちは、何なのだろうか?
「ルカちゃ……」
「振り返らないで。前を進むんだ、リリー」
 後ろに居るはずのルカに振り返ろうとした途端、口調が強まった言葉が投げかけられ、リリは僅かに身をすくめた。
 それ以上を口にすることが出来ずに、彼女は棺へと歩み寄る。
 すると目の前の棺の蓋が自然に開き、次の瞬間には濃厚な薔薇の芳香がリリを包み込んだ。
 薔薇に囲まれたルークの肌の色は、過去に見た美しさのままだった。
「ルーク……」
 蘇る記憶の数々。一国の姫として育ち、ルークと出会い、そして……恋をした。
 泣けるほど幸せだった日々。辛い事も多かったが、それでもリリアーナは幸せだった。
 だからこれからもきっと、幸せが訪れる。
 リリはそう心の中で自分に言い聞かせる。そしてゆっくりと膝を折り、ルークへと手を差し伸べた。
 するり、と抵抗なく滑り込める温かな頬のライン。昔と何ら変わらない、愛しい人の肌。
「目を、開けて……ルーク……」
 リリは身を乗り出し、ルークへと口唇を近づけた。
 すると、リリの背後にいたルカがそんな彼女を後ろから抱きしめ、小さく何かを呟く。
「……リリ、すまない。私は君をまた苦しめるだろう。その時は……私を恨んでくれ」
「え……?」
 ルカの言葉がリリの耳に届くのと、リリの口唇がルークに触れるのは、ほぼ同時だった。
 彼女の言葉の意味を考えるより先に、視界に飛び込んできたのは、ルークの目覚め。
 伏せられたままだった瞳がゆっくりと開き、目の前のリリの視線をしっかりと捉える。
「――リリアーナ。これで私の呪いは解放される、有難う。だけど……すまない」
「……ルー、ク……?」
 薔薇に埋もれるようにして横たわっていたルークが、静かに身を起こした。
 そしてリリの頬へと手を滑り込ませる。だが、それは一瞬で終わった。
「……!!」
「ああ、やはり……そう、なのか。……私の体は、時代の流れには逆らえないのだな……」
 ぼろ、と音を立てて崩れたのは、ルークの指先だった。まるで砂が零れ落ちるかのようにして、彼女の指先は見る間に崩れていく。
「ルーク……! どうして……!!」
 リリが慌てて、ルークの手を取った。するとその手は簡単に崩れる。
「……あ……」
 さらさらと崩れ落ちる、手。腐り落ちるのではなく、白銀のような砂となり、そして真紅の花びらとなって、目の前のルークは形を崩していく。
「リリアーナ……私を、恨んでくれ。君を騙していた事になる。私は、こうなることを……解っていたんだ」
「ルーク……」
「時は無常にも流れていく。私はその中では『異端』だ。時代にそぐわない存在は、こうして朽ちて行くものなんだよ」
 視線を落とせば、既にルークの下半身の殆どが、花びらとなっていた。
 見る間に崩されていくルークの体を、リリは止めることが出来ない。
「リリー、私はこれでようやく転生への旅立ちが出来る。必ず新しい生を受け、君の元へ戻るよ。……もし、まだ私を愛していてくれるのであれば……」
「――待って、います。ずっと……!」
 ルークの言葉をさえぎる形で、リリは震える声を吐き出した。
 大粒の涙が、ぼろぼろと零れ落ちたままになっている。
「あなたがわたしを待っていてくれたように、わたしも待っています。だから必ず、わたしの元へ還って来ると、誓いなさい……!!」
 リリ、否、姫君リリアーナとしての、精一杯の思い。
 声を大にしてぶつけられた、愛しいものの叫び。
 それを全身で受け止めたルークは、静かに微笑んだ。
「――このルーク、約束を違えたりはいたしません。必ず貴女の元へ戻ると、お誓いいたします」
 既に、体の半分を崩しながらも。
 騎士であるルークは目の前の姫君に、重臣としての姿勢を見せ、頭を垂れた。
 苦しいほどの、愛しさ。
 互いにそれを胸に抱きながら、再びの誓いを交わす。
 逆らえない天命であるからこそ、嗄れない気持ちがある。愛情がある。
「ルーク……愛しています。ずっと、ずっと……!」
 リリの、精一杯の言葉。
 ルカであり、ルークであるその姿は、微笑みと共に崩れ去っていった。
 風もないこの部屋で、紅の花びらが舞う。
 天を仰ぎ、涙を溢し続ける姫君を包み込むかのように。

 ――こうして、『眠り姫』の伝説は人知れず忘れ去られていった。



 時は、静かに流を進める。
 かの女学園は、今も多くの学生たちを抱えていた。
 そんな中、柔らかな日の光が燦々と差し込む中庭で、一人の少女が膝を折り、目の前のもう一人の少女の手の甲に口唇を落としている光景が見える。
 それは、何かの儀式を彷彿とさせるようで、周りで見ている者たちからは溜息が漏れるほどであった。
 そして渦中の二人はそっと、こう言葉を交わすのだ。
「――ただいま戻りました。リリアーナ」
「待っていました、大好きなルーク……」

 巡り逢えた事の、喜び。
 予め決められていた奇跡だとしても、天へ感謝せずにはいられない。
 二人は互いに身を寄せ合い、瞳を閉じた。

 これからの未来を、共にあることと誓いながら。 


La fine.

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