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  3. 夢月夜

第五夜一話

 ――夢の中にいるようだ、と思った。
 あまりにも永い時間、その場に留まっていた。自分からでは、動くことが出来なかった。
「……ああ……」
 思わずの声が出た。
 何もない、何も聞こえないはずの虚無とも言えるその場が、崩壊を始めたのだ。
 それが、どのようなものなのか、予想すら出来なかった。ただ静かに、真っ白であった壁が割れたかのような、視界的にはそのような表現が一番わかり易いのかも知れない。
 ――そう、瀞は思った。
 いつかは訪れるかもしれない。否、逆に永遠にその時は訪れず、自分もまた時間の中に埋もれ、やがては魂の形すら、忘却の彼方に追いやられてしまうのかもしれない。
 いつまでも待てる覚悟はあった。生前、多くの人を裏切り、自分だけの幸せを選ぼうとした結果、こうなってしまったのだ。贖うには、多くの時間を要するだろうとは、確信していた。
 悲しいこと。
 だが、幸せでもあること。
 自らが招いた結果を、瀞は素直に受け入れたままだ。
 許しなどないかもしれない。永遠に許されないかもしれない。
「――本当に、あなたは愚かなお方ですね」
「え?」
 一つ目の壁らしきモノが壊れきった先から、そんな声が聞こえてきた。瀞は目を凝らしつつそちらを見ると、そこには遠い記憶の中にしか無かった、一人の姫の姿があった。
「藤……姫……」
「……良かった、あなたはわたくしを憶えていてくださったのですね」
「もちろんですとも……いえ、私が言えたことがではないと、解ってもいるのですが……」
「ふふ……あなたがそんな風に、慌てるなど……初めてみた気が致します」
 目の前の姫は、瀞の妻であった。
 藤姫と呼ばれる、美しい人だ。
 かつて瀞は、この姫の熱心な恋文に折れて、彼女を『北の方』として九条邸へと迎え入れた。本来であれば、身分違いで反対され、婚姻すらままならないはずであったが、それほど姫は瀞を好いてしまったのだ。慕い想い乞い続けて、姫はとうとう倒れてしまった。そういう理由を経て、二人は夫婦となった。
 一緒に過ごした時間は、ほんの僅か。瀞はその年に死に、悲しみに耐えられなくなった姫は心を病んだ。
「……わたくしはとんでもなく、我侭でしたね。その事に、最後の最後まで気づけませんでした」
「最後、とは……まさか、姫は……」
「ええ、先ほど。心を現実に向き合わせること侭ならず、その生を終えました」
「…………」
 姫は、満足そうに微笑むだけであった。
 自分が没した後、彼女がどう過ごしてきたかなど、当然知るよしもなかった。瀞は、彼女には申し訳ないという感情が、未だにあるだけだった。
「姫……」
「――瀞さま。わたくしの背の君。あなたの目から見て、今のわたくしは老いて醜い女でしょうか?」
「いえ……いいえ、あなたは以前と変わらず、誰よりも美しいですよ」
「……そうですか。良かった」
 瀞の言葉を受けた姫は、ぽろぽろと涙を零して泣いた。その涙さえ、輝く石のような貴重なものに見えた。
 こんなにも、自分を愛してくれてた人がいる。それだけでも充分な幸せであったはずなのに、それでも瀞は、愛をまともに受け取ることが出来なかった。
「姫……私は……」
「仰らないで、瀞さま。あなたからその言葉を聞いてしまったら、わたくしはきっと、後悔のまま消えてしまいます」
「ですが……」
「どうか、これが最後ですから。わたくしの我侭を聞いてくださいませ。わたくしの背の君のままで、いてくださいませ」
 しず、と姫が一歩を進んだ。そして彼女は瀞の手を取り、愛おしそうに頬に持っていく。その瞳の端には、また新しい涙が溢れ出て、ほろりと輝き落ちる。
 瀞はたまらない気持ちになり、その一滴を指に受け止めた。そして彼女をゆっくりと抱きしめてやる。
「……姫。私の唯一人の妻。私はあなたを迎えることが出来て、幸せでしたよ」
「ああ、瀞さま……嬉しゅうごさいます。……この世で一人きり、わたくしの愛した貴方様……出来ればもう少しだけ、一人占めさせて頂きたかった……」
「姫……?」
「愛しております、愛しております……さようなら……」
 姫はゆっくりと言葉を紡ぎ、そしてゆっくりとその体の形を崩していった。
「姫……!」
 瀞が慌てたが、彼女は微笑んだままで白い灰となり、指の隙間をするすると抜けて、消えていった。
 空(から)を抱く瀞は、その場で膝を折り、表情を歪めた。
「なんて、我侭な人だ……私に一言も、謝らせてもくれないとは……!」
 手のひらにかろうじて残った白い灰を握りしめて、瀞はその言葉を吐き捨てた。
 自分のしてきたこと全て。
 許されざる事全て。
姫の笑顔が持っていってしまった。
姫は、瀞の裏切りも何もかも、知っていた。それなのに、最後まで彼女は責めてくることは無かった。
その優しさが、瀞にとっては少しだけ辛かった。名家を汚した卑怯者、と罵られてもおかしくはなかったのに、姫はそれ以上に、自分の想いを押し通したことに責を感じてもいた。だからこそ、瀞を責めることをしなかった。
 これもまた、確かに愛の証なのだ。
「……そうですね、藤姫。私も確かに、あなたを愛おしく思っていましたよ」
 祈るように、言葉を紡ぐ。もう届かないかもしれない。それでも、言葉にせずにはいられない。
「……、……」
 ガラ、と音を立てて瀞の背後にあるらしい壁が崩れた。
 そもそも、これは何なのか。
 自分は魂であり。彷徨っているのだろうとは思う。ただ、そんな事は本来は有り得ることなのだろうか?
 現世を彷徨っている感覚とも言えず、難しい。
 『解き放たれる』という感覚が一番近いのだろう。その中での姫との僅かな邂逅は、果たして自然の流れであったのか、それとも人為的な力が齎したのか――。
「……おそらくは」
 多くの疑問の中でも、瀞には確信していたものがあった。
 『浅葱』が事を起こしてくれたのだろう。そうでなくては、自分のいるこの空間は変わらないはずなのだ。
 強い光が灯された。
 瀞はその光に向かって、迷わず歩き出す。
「何から何まで、面倒をかけてばかりですね。……ですが、今はありがとう、と言わせてください」
 一歩一歩を着実に踏み込む感触を確かめつつ、瀞はそう告げた。
 その言葉が、相手に届いたかどうかは解らない。瀞には知るすべもない。
 それでも瀞は、光の元へと歩き続けた。そして彼の体は、ゆっくりとその場から姿を消した。

「……こんなところに、隠してたなんてね」
 そう言うのは、朔羅であった。
 古びた屋敷内、朽ちかけた御簾の向こう、ぼろぼろになった几帳を押し退けると、そこには結界で守られた一つの箱のようなものがあった。黒漆の器の上に静かに置かれたそれは、置き土産とでも受け取れば良いのだろうか。
「天猫の結界石だね」
「――急々如律令」
 結界石そのもので出来た箱であると確かめた後、朔羅の隣に立っていた浅葱が膝を折り、懐から出した符をそれに充てた。発動を意味する言葉しか告げながったのは、それだけで霊符が役目を果たしてくれるからだ。
 ジュ、と音を立てて符が燃える。術に反応した証拠であった。
 符を手にしていた浅葱の手を無言で掴み取ったのは、賽貴だ。
「賽貴」
「……大丈夫です。それより、あなたこそ無茶をなさらないでください」
 燃える符を持ち続けようとしていた浅葱と、その炎を指で潰し消す賽貴。符から出(いず)る炎は妖にとっては危険でもあるのだが、賽貴はお構いなしらしい。
「さすがに、諷貴さん自身が施したらしい結界は、強力だね」
「でも、破れないわけじゃない。さっきの霊符にも手応えがあった」
「……私の方で、なんとか致しましょうか?」
「賽貴も朔羅も、手出し無用だよ。これは、私が解除しなくちゃ意味がないもの」
 浅葱は傍に従えた式神二人にそう言い切って、一歩を下がらせた。賽貴も朔羅も、肩を竦めつつ従うしか無い。
(破邪の法で打ち破れるかな……霊符と一緒なら、もう少しだけ状況が動かせるかもしれない)
 心でそう呟きながらも、浅葱の右手は手刀を作り、格子を描き始めている。
「青龍・白虎・朱雀・玄武・勾陳……」
「――この屋敷、元々は宮家のお屋敷だったんだって?」
「位を剥奪された、かつての親王がお住まいだったらしい」
 九字を言霊にする浅葱の数歩後ろで、朔羅と賽貴はそんな言葉を交わしていた。
 ここは、諷貴が人間界での住まいとして使っていた場所であった。
 位置は把握していたらしい二人だが、やはり結界が災いしたのか、中に入るのはこれが初めてだった。
 例外として、紅炎だけが出入りを許されていたらしいが、それでも彼女にはこの箱の存在までは知られてなかったようだ。
「綺麗な反物とか集めに集めて無造作に転がしてたみたいだけど、それらしいものは何もないね。傷んだ畳と放置された調度品だらけだ」
「おそらくは幻術を使って目眩ましをしてたんだろう。反物は、紅炎が一つ持ち帰ってきているところを見ると、本物だったんだろうが」
「……意外、だったよ。あの人が瀞さん以外に興味を示して、しかも結構執着してたこと」
 朔羅がしみじみそう言った直後、浅葱の手元が強く光り、少しだけ拡散したように見えた。
 賽貴も朔羅も遅れずに反応し、歩みを寄せる。
「浅葱さま」
「だ、大丈夫……なんとか、解除出来たよ」
 浅葱の手元にあるのは、やはり箱であった。結界が解かれ、視界的な遮りも無くなったそれには、美しい螺鈿細工が施されている。
 ――だが。
「二人とも……この中身を知っている?」
「……もちろん」
「はい」
 浅葱が箱の蓋に手をかけたところで、その場の空気が一変した。
 本来ならば開けさせるべきではない。浅葱が見るべきものではない。賽貴も朔羅も、そう思っている。
「浅葱さんも、わかってるんだよね?」
「……うん。もしかしたら、これは冒涜行為なのかもしれない。でも、開かなくちゃ、先々代は……」
「――お開けください。瀞さまもそれを望んでおられるでしょう」
 少しの躊躇いを見せた浅葱に対して、背中を押すような言葉を投げかけたのは、賽貴だ。
 それを受け止めて、浅葱は気持ちを新たに、指先に触れたままの箱の蓋を持ち上げた。
 ――箱の中身は、賀茂瀞の首だ。あの日あの時、諷貴に奪われたまま、行方知れずとなっていたそのものであった。
「我の声を聞き入れよ。今、この時よりあなたの魂は自由だ」
 懐から数珠を取り出しつつ、浅葱はそう言った。二連のそれを大きく広げ、箱の周りを覆うようにして通す。床に数珠玉全てが着いた瞬間、再びそれを手元に戻す。
 すると箱の中身がゆっくりと輝きだし、その光を保ったままでその場で浮いたあと、溶けるようにして消えた。
「……先々代」
 おそらくは、浅葱のみに届いた声があった。彼はそれを祖父のものだと確信して、顔を上げる。
 永い時の縛(いまし)めから、瀞という存在が開放された瞬間でもあった時は、あまりにも呆気なく、そして簡素なものだった。
「……だがこれで、瀞さまの魂は流転する」
「そうだね。いつかどこかで、また会えるかもしれない。それは、偉大な希望だよ」
「うん」
 式神二人の言葉に応えるようにして、浅葱はゆっくりと立ち上がりながら短い返事をした。
 今のこの状況を、喜んでいる時間は無い。
「一旦、帰ろう。お祖母さまの事もあるし」
 浅葱がそう言うと、二人は同時に頷いて、賽貴が浅葱に手を差し出した。
 一人の陰陽師と式神二人は、その場から動くこと無く、空間から姿を消したのだった。

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