1. index
  2. novel
  3. 夢月夜

第五夜ニ話

「お祖母さまは、苦しまずに逝けた?」
「健やかなお顔をされておられましたよ。最後の最後に、微笑んでおられました」
 九条邸に戻ってすぐに、浅葱は祖母の室へと足を向けた。
 浅葱の祖母、かつての藤姫は、小半時ほど前に亡くなった。
 心を病んだまま、自分の産んだ娘を他家の姫だと思い込み、更には恋敵だと勘違いしたまま、近づけさせなかった。浅葱に至っては一度だけ面会したことがあったが、やはり孫だとは思ってもらえず、更には瀞に間違われてもしまったため、それ以降は顔を見せられずのままであった。
 ただ、時折聞こえてくる箏の琴の音色だけは色褪せずに、誰もの心を癒やしていた。
 最近は寝たきりとなり、侍医から長くはないと伝えられていてからは、白雪にそばに居てもらったが、それも今日が最後となったようだ。
「……お祖母さま」
 眠っているかのような姿を見やりながら、浅葱がそう言う。出来ればもう少しだけ時間が欲しかった。そうしたら、向き合えたものもあったかもしれないのに。
 そう思ったところで、後悔先に立たずという事は何も変わらない。
「母上は?」
「……浅葱どのと入れ違いで、お別れに参られてましたよ。言葉なく静かに、母君を見つめられておられました」
「そう……」
 何となくの想像は出来た。
 母は泣かずにいたのだろう。
 だがそれでも、言い知れないものが多くある。浅葱には片鱗ですら分かり得ない、親子の関係性だ。歪が生じたままのその関係は、何よりも辛いことなのだろう。
「九条邸は、これより暫くの間、喪に服します。その間、私も役目を休ませて頂きます。……だから、この時間の使って、事を済ませます」
「御意に」
 白雪がゆっくりと頭を下げる。
 喪に服している間は、表立った依頼はこないだろう。この機会を、利用しないわけにはいかないのだ。例えそれが、不謹慎だと言われようとも。
「きちんとお送りしますから、許して下さいね。お祖母さま」
 老いても尚、美しい人であった。
 憂いの美姫(びき)は、残す者の遺恨すら知らずに、静かに天へと登るのだ。
「素服の準備は?」
「整っております」
「そう、では母上と父上に先にお渡ししてきて」
「かしこまりました」
 控えていた付き女房達にそう言えば、彼女たちもやつれているようであった。長い間、世話を押し付けたままであった。今後はもっと目にかけてやらなくてはならない。そんな事を思いながら、浅葱は静かに立ち上がり、祖母の傍を離れ、室を出た。
 悲しみは無い。だが、心には小さな穴が出来たように思える。悔恨(かいこん)と後ろめたさ。そちらの感情のほうが、今は強く現れている。
「――藍」
 この屋敷にいない、一人の式神の名を呼ぶ。
 諷貴に囚われたままの、浅葱にとっては大切な家族だ。
 取り戻さなくてはならない。何としても。
「みんな、私の部屋へ」
 廊を歩きながら、浅葱は淀みなくそう告げた。周囲に人影はない。それでも、浅葱に従う式神たちには声が届く。
 そして浅葱は、足取りも早々に、自室へと戻るのだった。

 浅葱の室で揃った式神たちは、主の前でそれぞれに頭(こうべ)を垂れた。賽貴、朔羅、颯悦、白雪、琳の順であった。
 紅炎がこの場にいないのは、身重であるために、浅葱が敢えて休ませているためであった。
「琳、大丈夫?」
「はい、お気遣いありがとうございます」
 琳はいつもどおり、澄んだ表情をしていた。心の内は決してそうではないだろう。だからこそ、浅葱は敢えて彼に問いかけたのだ。
「確かに、平気ではないのです。さすがに、肉親を人質に取られたこの状況ですからね……でも、僕一人じゃ何も出来ないこともよく解っているので、『大丈夫』なんですよ」
「……琳は、強いね。私もその気持ちに応えるために、事を進めるよ」
 琳のしっかりとした言葉に、浅葱がそう答える。
 それに呼応するかのように、他の式神たちも皆一様にして頷き、浅葱を見つめた。
「妖の住まう世に、行こうと思う」
 改めての意思を、静かに告げた。
 それに異を唱えるものは誰もおらず、彼らは主の次の言葉を待つ。
「――私は陰陽師です。いつも、どんな時にでも、それを忘れたことはない。私の大切な家族……私だけの式神が囚われている以上、行かなくちゃならない」
「我々は、そんなあなたに全力でお応えするだけです」
 浅葱の言葉の後に続いたのは、賽貴だった。
 一の式神としての務めを珍しく見せた、と思ったのは、朔羅だ。
 だが、それを音にすることは避けて、別に意識を持っていく。
 白雪も颯悦も。
 そして、別の室に籠もっている紅炎ですらも。
 皆がそれぞれに、余裕がない。
 焦燥の色では無いが、状況が状況なだけに、緊張しているのだ。
「……朔羅、不満そうだね」
「そりゃそうでしょ。僕は反対だもん。皆が黙ってるから敢えて僕が悪者になるけど、あっちがどれほど危険か、ちゃんと解ってるの? 浅葱さん」
「……うん」
「幻妖界(げんようかい)。僕らが出てきた世界の正しい名前だ。人間には『魔界』としか伝わってないよね。外に漏れないようにしてあるみたいだし。無駄にヒトの何倍も生き永らえて、ヒトを凌駕して、無限に湧き出るバケモノが棲まう地だ」
 朔羅の言葉選びは、少しだけ乱暴なものだった。それだけ、彼の感情も穏やかではなく、やはり主を心配してこそのこの行動なのだろう。
 浅葱自身もそれを解っているので、黙って彼に頷いて見せた。
「浅葱さんは、僕らにとっては最大の敵だ。そして何よりも――美味な糧だ」
 朔羅はそこで、座している膝の前に手を置き、身を乗り出す形に出た。それと同時に体を変容させ、瞳は金色になり、獣の耳と尻尾が生え、爪も伸びる。本来の姿、白狐(びゃっこ)に近い形だ。
 彼は意図的にこの姿を取ることは滅多にないが、これも一種の脅しなのだろう。
 体から溢れる妖気は、禍々しい。
 それを間近で感じつつ、それでも浅葱は平然として見せていた。
「朔羅はどんなに怖い姿になっても、綺麗だね」
「……浅葱さん」
 朔羅の頭上の耳が、ピクリと動いた。感情が昂ったこの状態では、彼はいつでも目の前の存在を手にかけることが出来る。本能が囁くままに喰らうことも、弄ぶことも可能だ。
 それでも朔羅は、出来なかった。
 目の前の主が自分を『綺麗』だと言う。その言葉だけで、観念しなくてはならなかった。
 はぁ、とため息が漏れた。
 そして彼は浅葱の肩に手を置き、かくりと頭を下げる。
「言わなくてもわかってると思うけど、『僕』が特殊なだけで、他の奴らには今のは通じないんだからね?」
「うん、わかってる。いつも、どんな時でも、心配してくれてありがとう、朔羅」
 浅葱は肩に置かれた朔羅の手に自分のそれを重ねて、静かに言葉を返した。
 朔羅は基本的に浅葱に甘い。どんなに怒っていたとしても、最終的にはその怒りを収めてくれる。今がそうだったように。
 そして金色のままだった彼の瞳の色は、徐々に水色に戻ろうとしていた。
 他の式神たちは黙ったまま、その光景を見守っているだけだった。
皆、思う気持ちは朔羅と同じなのだ。
「――ここで問答していてもどうにもならぬ。浅葱どのが決めたことなのだから、先ほど賽貴どのが申したように、妾たちはお支えするのみ」
「……だが、浅葱さまのお身体が心配だ。あちらは瘴気に覆われているだろう。それはどうするのだ?」
 白雪の言葉の後、颯悦がそう言ってきた。
 それを受けて、浅葱は二人に視線をやってから口を開く。
「幸い、今宵は朔だからね。私の中の半分だけの妖の力を、活かせると思う」
「なるほど。では、問題は無さそうですね」
 颯悦は、落ち着いて言葉を選んでいるようであった。全てにおいて問題が無いはずはないのだが、やはり問答を続けるべきでは無いと判断したのだろう。
「だからこそ、皆の負担は大きくなってしまうと思う。それでも、私についてきてほしい」
「承知致しました」
 白雪も颯悦も、そこで力強く頷いた。
 浅葱はそれを見てから、次の言葉を発する。
「……それで、白雪には無理をお願いしたいんだけど」
「門のことでございましたら、一つだけ確保しておりまする」
「さすがだね。ありがとう」
「ですが、一方通行となりましょう。長時間を保たせておくのは危険でございまする」
「そうだろうね。取りあえずは、向こうに行く事だけを第一にするよ。そういう関係もあって、白雪には門に居てもらわなくちゃいけないんだけど……」
「妾は元より、そのつもりでございましたよ。それでも、浅葱どのに危険が迫る時には、扇の一閃でお側に参りまする」
「うん。……それから、颯悦は琳と一緒に行動して欲しい」
「何か、お考えがあるのですね。承知いたしました」
 そんな会話を聞きながら、賽貴も朔羅もそして琳も、それぞれに思案顔になっていた。
 ありとあらゆる知恵と、予測できる危険回避を、考えているらしい。
 それを確認した浅葱は、小さく微笑んだ。
 その数分後に、体の変調が訪れる。『朔』が始まったようだ。
「……ッ、ごめん、皆……」
 重くなる体を抱きしめつつ、浅葱がそう言った。
 その言葉だけで、式神たちは静かに立ち上がり、姿を消す。
 変容する様を見られたくない浅葱のことを、みな知っているのだ。
 だが。
「……、さいき」
 浅葱が体を折り曲げつつ、小さく賽貴の名を呼んだ。
 小さな一言だったが、賽貴は再び姿を見せて、膝を折る。
「浅葱さま」
「っ、ごめん、見苦しいとは、思うけど、……そばに、いてほし……、ッ!」
 視界が揺れた。
 少年の体から少女の体へと強制的に作り変えられるこの感覚は、痛みが大半だった。骨が軋む音が体内から聞こえて、そこから強く瞳を閉じる。
 僅か数分のことだが、その数分が永劫のように思える時間であった。
「くっ、……っ、あ……」
「…………」
 痛みに耐える主の姿を、賽貴は黙って見守ることしか出来なかった。
 そして、浅葱の姿は、黒髪から金糸へと変わり、瞳の色もヒトのそれではなくなり、体も少しだけ小さくなる。
「……は、ぁ……」
 右手を床に付き、息を整える浅葱。その肩を支えたのは賽貴で、彼はそのまま主を自分の腕の中に収めた。
「賽貴……?」
「どうぞ、私を支えにしてください」
「……うん」
 浅葱は賽貴の行為に甘えながら、静かに深呼吸を繰り返す。
 変容の際は必ずと言っていいほど髪留めが外れてしまい、『彼女』の金の髪は降ろされた状態になった。それを指で梳いてやりながら、賽貴は腕の中の主を労った。
 出来ればこの苦しみの時間を、僅かでも和らげてやりたい。だが、生きていく限りは、おそらく一生は付き合わねばならない痛みなのだろう。
ヒトと妖とが結ばれて子を成すと、親がどちらであっても、必ずこういった事象が現れる。
 颯悦もそうだ。彼は一見普通に生まれたが、目に光が宿らなかった。
 妖の血が強すぎて、ヒトの血が反発できずにいる結果、というものらしいが、やはり哀れだと思わずにいられない。
「賽貴、もう大丈夫だよ」
「……そのようですね。では、あともう少しだけ、私だけの浅葱さまでいてください」
「え……」
 賽貴はそう告げたあと、浅葱の反応を待たずに腕に力を込めた。いつもより小さな主を抱きしめて、温もりを確かめる。
 哀れだと思っても、相手を想う気持ちは止められない。それが愛というものであり、自分が今こうしている事すらも、同じことなのだと彼は思った。
 もし浅葱が女子(おなご)として生まれてきたとしても、賽貴は同じように愛しただろうし、子も望んだだろう。
 ただ、同じような苦しみを与えてしまうと解っているこの状態であると、浅葱が男子(おのこ)で良かったのかもしれない、とも思ってしまう。
 決して、口には出来ないことであるのだが。
「……あの、賽貴……?」
「浅葱さま、お約束を。この先、決して無茶をしてはなりませんよ。今のこのお体では、あなたの霊力は、ほとんど通用しないのですから」
「うん……」
 思案を続ける中で、ふと現実を忘れそうになる。それを振り切るかのように、賽貴は浅葱にそう伝えた。
 小さな返事を耳にしてから、彼は徐に彼女の頬に手をやり、指を這わせる。
 それに過剰な反応を見せた浅葱が、あっさりと上を向いた。
「賽、……」
 触れることは、存外簡単だ。
 浅葱はいつまで経ってもこうした触れ合いには慣れないので、隙が生まれやすい。
(だからこそ、用心する必要もあるんだが……)
 賽貴は思わず、心でそう呟いた。
 眼前の浅葱はぎゅっと瞳を閉じて、賽貴の口づけに応えることに精一杯だった。健気なその姿が、誰よりも愛らしい。
 これが、自分だけの存在であり、誰にも渡せないものだ。
(そう……もう、誰にも――兄上にも、何も譲りはしない……!)
 賽貴にしては珍しい、激しい感情が内心を巡っていた。
 否、彼は常に『こう』であった。
 表に全く出さないだけで、心の中はいつだって、求めるものに激しい情愛を懐(いだ)き続けてきたのだ。
「っ、さい、き……」
「……あと少しだけ」
 浅葱が腕の中でもがく中、賽貴は静かにそう言ったあと、また浅葱の唇を塞いだ。そして、直後に彼女の体の中に息を吹き込むようにして、ふぅ、と息を吐いた。
 浅葱の体がビクリ、と足先まで震える。
 単なる口づけではなく、最初からこれは主目的でのふれあいであった。いわば、体の中にも結界を張ると言ったものだろうか。とにかくそのような事を、賽貴は浅葱に施したのだ。
「万が一、兄があなたに触れてきたとしても、何も許してはいけませんよ」
「う、うん……」
 至近距離で告げられた賽貴の言葉が、浅葱には遠くで聞こえたような気がした。
 いつもより長いと感じた触れ合いに、彼女はもう思考が回らないのだ。
 それでも浅葱は、なんとかふわふわとした気持ちを切り替えた。
 今は、強い気持ちを保たなくてはならない。
「――夜明け頃、出発しようと思う」
「はい」
 決意を口にすると、賽貴はきちんと答えてくれた。間近で見る優しい笑顔は、自分だけに見せてくれる彼の気持ちだ。それを受け止めてから、浅葱はまた言葉を告げた。
「私は、ちゃんと事を為せるかな……?」
「大丈夫です。浅葱さまは必ず、全てを成し遂げ、此処に戻られます」
「うん……ありがとう、賽貴」
 不安はいつも、浅葱の心の奥底に存在する。
 それを拭い去るのも、否定をするのも、賽貴の役目だ。
 甘やかしてくれる存在。賽貴だけではなく、自分に従ってくれる式神全てに心で感謝をして、浅葱は一度瞳を閉じた。

ページトップ