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第五夜五話

 思い出せ。
 そんな声が聞こえるような気がした。
 思い出せ、思い出せ、思い出せ――。
 幾重にも重なって聞こえる声。
 声なのか、感情の根源なのかはわからない。
 ただ、腹の底から響くような、忌まわしい響きであることには変わりなく、とにかく不快であった。
「…………」
 賽貴が無言のまま、右手の指先を額に添える。
 経験したことのない不快さが、付きまとってくる。浅葱を挟んで隣を歩く朔羅を横目で見れば、彼も同じように眉根を寄せていた。
 思い出せ。
 忘れるな。
 全てを憎め。
 押し寄せるような声に、平静を崩される。
「――うるさいなぁ」
「!」
 はぁ、と大きなため息を吐きながらそんな言葉を発したのは朔羅だ。
 そんな朔羅を再び見やれば、彼の口元には笑みが浮かび、妖気が乱れ始めている。
「殺していいなら、なんでも殺すけど」
「朔羅、飲み込まれちゃ駄目だよ」
「はぁ? あんた誰……、っ、浅葱、さん……」
 朔羅は明らかに豹変しようとしていた。
 現実(いま)を忘れ、過去を引きずり出そうとして、主の言葉と言動に正気に戻る。
 浅葱は、朔羅の手を優しく握ってやった。
 たったそれだけだったが、彼は忘れることをやめた。
「……ごめん。やっぱり、この状態じゃあまり長居は出来ないよ、僕ら」
「うん、そうだね……」
「…………」
 賽貴は黙ったままであった。
 表情には、若干の焦りの色もある。
 飲み込まれてはいけない――。そう、解ってはいるのだが、耳に届く声が甘言のように響き渡り、脳内を支配しようとしてくる。
「……賽貴?」
「あ、あぁ……大丈夫です」
 気遣ってくれる主の声が、遠かった。

 思い出せ、思い出せ、思い出せ――。

 その言葉に抗わなくてはいけない。
 浅葱には大丈夫だと告げたが、やはり朔羅の言う通り、長くは保たないと実感する。
 そして彼らは、屋敷の一室――諷貴がいるはずの場所へと辿り着いた。
 御簾の向こうで、藍の声がする。
「ダメだよ、諷貴さま!」
「!」
 その光景は、なんと言い表したらいいのか、誰にも解らなかった。
 先程の上空で見たように、渦を巻いている。
 端的に言えば、それのみだ。
 闇。昏いモノ。憎悪たる厭悪。
 肌にチリチリと、這い寄ってくる。浅葱も朔羅も賽貴も、それを全身で受け止めて表情を歪めた。
「まずい……!」
 そう言いながら、主へと新たな結界を施すのは賽貴だ。石は構築できなかったが、こちらはなんとかなっている。
「藍!」
「……浅葱、おねがい。この人を助けて……!」
 御簾を押し除けて中へと入った瞬間、諷貴らしき影と藍が闇の中に吸い込まれていくかのような光景の中、消えた。
「……どうなってるんだ、この状況……!」
「兄上!」
 賽貴が一歩を進んだ。
 円座の上に銀の髪が渦巻いている。それが見る間に暗色に染まり、球体となってその場に存在した。
「藍! 聞こえるか!」
 呼びかけてみても、反応はない。
 代わりに蠢いたものは、球体から伸びてきた手のようなものであった。
『……王の担い手よ。時が来た』
「!」
『全てを憎み、全てを壊せ。眼の前の難き仇を、己の力で握り潰せ』
「なんだと……?」
 昏い声だった。
 諷貴のそれではなく、全く知らぬ声音だ。
 朔羅も聞き覚えはないらしく、浅葱を庇いながら表情を厳しくした。
「賽貴さん、父君からこういう状況に陥った場合の対処法とか、聞いてなかったりする?」
「……前例が無かった。父もおそらく、体験したことは無いだろう」
 背中にかけられる声に、振り向かずに賽貴はそう答えた。朔羅と浅葱には、それ以上こちらに近づくなとの意味合いで腕を後ろに振る。
 浅葱はそれを見ながら、少しだけ思案した。
 何かをしなくてはならない。
 こんな状況化であっても、自分だけがあまり気の乱れの影響を受けていない。それであれば、動ける自分が何かをしなくてはと思ったのだ。
 最初は、藍を人質に取った諷貴との交渉のつもりで此処に来たはずだった。だが今は、そんなことすら投げ捨ててしまえるような状態であった。
 このまま時間だけを要すれば、諷貴も藍も、助からない。
 そう確信して、彼女は朔羅の腕を押しのける。
「浅葱さん?」
「……朔羅、もう少しだけ賽貴の傍に行かせて」
「無茶はダメだよ」
 こくり、と朔羅の言葉に頷いた浅葱は、賽貴のその向こうに見える闇の渦に向かって、口を開いた。
「憎しみの向こうには、何がありますか」
 迷いのない澄んだ声が、響いた。
 賽貴はそれを聞いて僅かに振り向き、主を見る。
 彼はその瞬間、言い知れない嫌な気持ちになった。
 このままではいけない。そう思うのと同時に、押し寄せてくる感情があった。

 ――ああ、そうだ。俺は……。

 心の声がそんな事を呟いた後、賽貴の意識はその場で一瞬だけ闇に落ちた。
「――憎しみの向こうには、安定だろう」
「……賽貴?」
「憎しみが昇華するんだ。安定然るべきだろう。人の子よ」
「賽貴さん……?」
 賽貴の急変に、朔羅も眉根を寄せる。
 浅葱に完全に振り向いた形となる賽貴は、金の瞳を輝かせて薄ら笑いを浮かべた。
「……やっと、やっと俺の憎しみが昇華されるんだ。この手で、或いはあなたの手で、諷貴(あにうえ)を消せる」
「!」
 口調がおかしくなったので、朔羅も浅葱も彼が完全に濁った妖気に中てられたかと最初は思った。
 だがしかし、今の言葉は完全に賽貴のものでもあった。
「賽貴……どうしちゃったの……?」
「……どうにもなってませんよ、浅葱さま。単に俺は、思い出しただけです」
「思い……出した……?」
 浅葱はその場で震えた。
 目の前の賽貴から、感じたことのない強い気を感じてしまったからだ。
「俺はこの瞬間のためだけにあなたに仕えてました。何よりの方を奪った、兄に復讐するためだけに」
「っ!」
 辛辣とも取れる言葉の響き。
 それを聞いた朔羅は、自分の耳を疑った。
「……何、言ってるの。賽貴さん」
「聞いての通りだ。お前はまだ愚かにも俺を制しようとするのか?」
「!」
 記憶のない笑みを浮かべている、と思った。
 彼の兄からは同じような笑い方を見てきたが、それがこの男にも出来ることに、朔羅は素直に驚いて見せる。
「さぁ、浅葱さま。この悪の根源を消し去ってください」
「どうして、私が……?」
「別に俺がやってもいいんです。ですが、あなたの手にかかるほうが、兄も幾ばくかは救われるでしょう」
「……っ」
 信じられなかった。信じたくはなかった。
 だが、自分の目の前にいるのは賽貴自身で、口にする言葉にも偽りがない。
 彼と一緒に過ごした今までの時間は、全て偽りだったのだろうか?
 そう思うと、浅葱の目尻に涙が浮かんだ。
「賽貴……私を誰よりも愛してるって言ってくれたのは、嘘だったの?」
「確かにそういった感情もありました。あなたは何よりあの人の血縁者だ」
「賽貴さんっ!」
 賽貴の言葉の並びに先に絶えられなくなったのは、浅葱より朔羅のほうであった。
 水色から金の色になった瞳が、賽貴を睨みつける。
「お前は俺の理解者だと思ってた」
「……理解者だったよ。ほんの少し前までは、誰もよりあんたの理解者であるはずだった。けど、もう理解できないよ」
「そんな状態になったお前を止められるのは、俺だけだったな」
「黙ってよ、もう」
 朔羅の指先が一瞬光った。
 直後、彼は一歩を踏み出し、賽貴の喉元に針を突きつける。
 鋼糸を使わなかったのは、この空間ごとを引き裂いてしまいそうだったからだ。
「……それでは俺を殺せないぞ」
「わかってるよ。だけど、浅葱さんを裏切るなら、僕はあんたを許さない」
 自分の心が冷静だと朔羅は思った。暴走状態に入っているというのに、妙に心自体が凪いでいる。怒りが超越した証なのかはわからないが、目の前の男を殺してしまえる自信は静かに湧いている。
「……朔羅」
 浅葱が小さく彼の名前を呼んだ。
 そしてゆらり、と体を動かし、手のひらを朔羅の腕に置いてくる。
「駄目だよ。それじゃさっきと同じで、飲み込まれちゃう」
「浅葱さん」
 浅葱の表情は、穏やかだった。
 頬に一筋の涙を流してはいたが、それでも微笑んでいた。
 それを視界に入れた朔羅は、針を持った手をおろして浅葱の傍へと寄り、彼女を守るように抱きしめる。
「……賽貴」
「…………」
「私には、出来ません。そして、貴方にも、そんなことはさせません」
「……藍を気遣っているのですね。申し上げにくいのですが、彼女はもう見捨てるべきかと。おそらく、助かりません」
 丁寧な言葉づかいも、声音も、いつもどおりだった。
 だがしかし、彼の放つ響きは、どれも無慈悲だった。
「私は、諷貴さんも藍も、二人とも救い出すと約束したんです」
「……これだから人というのは。どこまでも莫迦で低能だ」
 クッ、と賽貴が浅葱を嘲笑った。
 それでも浅葱は、口を開く。
「今の私の力は、何にも及ばないでしょう。だったら、貴方の後ろにあるその球体の一部にしてください」
「何を言っているのです」
「賽貴、前に言っていたよね? 人間は『糧』だって。そして、私の魂は輝いてるって」
「そうですね」
「食べてもいいよ。でも、諷貴さんと藍は助けてあげて。――出来るんでしょう?」
 浅葱は静かにそう言ったあと、朔羅の腕を逃れるようにして前を進んだ。
 賽貴は一瞬だけ目を細めて、残忍な笑みを再び浮かべる。
「浅葱さん……っ」
「……ごめん、朔羅。あんなに偉そうなことを言ったのに、最後の最後で、陰陽師としての立場を選べなくて」
「…………っ」
 ――ダメだよ、と伝えたくとも出来なかった。
 浅葱の覚悟を感じてしまったからだ。
 そして、今この場所では、彼女は無力に近く、やはりそれを覆すことが出来ないからだ。
 それでも。
「じゃあ僕も、好きにさせてもらうよ。――先に逝くけど、許してよね」
「……朔羅、駄目……っ!」

 ――ああ、なんて僕は愚かなんだろう。賽貴さんの言うとおりだ。

 一瞬の独白があった。
 その後、彼の体は青く光って、変容する。
 白銀の狐は、迷いなく賽貴へと向かって突進した。

『――どいつもこいつも、馬鹿ばかりか』
 賽貴の爪が朔羅の体を引き裂こうとしたその瞬間、時が止まったかのような感覚を得て、誰もが瞠目した。
「……諷貴、さん」
 浅葱が一番先にその声に反応した。
 球体の中から聞こえてきたのだ。
 そしてその球体はぐにゃりと変容して、手のひらのようなものが浮かび出た。
『浅葱、俺の手を取れ!』
「……っ、させるか、兄う――」
 賽貴の言葉よりも先に、浅葱は駆け出して腕を伸ばしていた。そして彼女は、声の主の元へと飛び込み、姿を消した。

「――――」
「琳、どうした?」
「……いえ、気のせいだったようです」
 別行動を取っていた琳と颯悦が、とある行き先の前で立ち止まった。
 鈴の音を、琳が聞いたような気がした。
 知っている音色だったが、何の気配も無い。
「向こうには朔羅も賽貴もいる。大丈夫だろう」
「ええ、そうですね。僕らの目的地ももうすぐです。行きましょう」
 琳の言葉の後、二人は再び歩みだす。
 長く伸びた川沿いの先を進む琳と颯悦。寂れた風景しか無いこの辺りに、一体何があるというのか。琳の後に続く颯悦には、未だに真相が伝えられてはいない。
「――琳坊、こっちだ」
「景爺」
「まずは中に収まってくれ。そちらの御仁も」
 しばらく進むと、あの八束脛が姿を見せた。彼は人目を酷く気にしているようで、琳も颯悦も小走りで先へと進んだ。
 そして彼らは、一つの小屋のような屋敷へと見を滑らせ、影を消した。

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