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第五夜四話

「匂うな」
 誰かがそういった。
 瞳を巡らせたが、どの『影』がそれを言ったのかは解らなかった。
「ニンゲンのにおいがする」
「喰いモノのにおいだ」
 その言葉は、自分に向けられているのだろうと浅葱は思った。
 朔の影響で妖の姿に近くなろうとも、混じりけのない存在ではない。
「――ああ、コレは半端モンのニオイだ」
「そうだ、混じってる。美味いのと俺らのが混じってる」
「!」
 あっさりと言い当てられて、浅葱は小さく肩を震わせる。
 白雪が確保してくれていたという『門』を潜り抜け、妖たちの世界へと初めて足を踏み入れた浅葱は、まず空の色に驚いた。不気味な色合いだ。琳からは、かつては橙色のそれであり、こちらの『昊』は、統べる者の本質により色が変化するということも聞いていた。
 それに適応するようにして、個々の妖たちも本質が崩れてしまったり、低俗な者が増えていったりするという。
「――これが、諷貴さんが齎した世界なの?」
 思わずの言葉が漏れた。
 それに応えるものが、今ここにはいない。
 浅葱の強い希望で、「彼女」はひとりきりでこの地を踏んでいるのだ。
 自身の従えている式神が、こちらの世界では高位にあたる存在でもあるために、敢えての希望であった。
「おいお前、どこから来た? ヒトの匂いがするぞ」
「……私は」
「ん? いや、お前のその金の髪と瞳……微々たる妖気……どこかで」
 声をかけてきた者がいた。
 鬼のような姿をした男だった。
 浅葱が応えようとすると、その男は首を傾げつつ何かに気づいたような顔をした。
 そして。
「お前、あの蒼唯のニオイがする……まさか、関係者か?」
「父上をご存知なのですか?」
「父う……うわ、こりゃマズい。し、失礼しました~!」
「?」
 男はそう言いながら逃げるようにして走り去っていく。
 遠巻きに見ていた者たちも、ざわついた。
「……あいつの……?」
「間違いないのか? 同胞殺しのアオイに子供?」
 物騒な言葉が飛び交う。皆、興味はあれども何故か浅葱を怖がっているかのような空気へと変わった。
「――やれやれ。蒼唯さんの噂がこんな時に蒸し返されるとはねぇ」
「朔羅……」
 次の瞬間、浅葱の肩を自然に抱いたのは朔羅だった。
「もう、そろそろいいよね。これ以上は誰かが側にいないと、あなたが危ない」
 彼はわずかに遅れて門を潜ってきた。これも、浅葱が命じたことであった。
 そして彼は、自分が羽織っていた袿を浅葱の頭から被せて、その姿を隠すようにしてから道を歩かせる。
「ねぇ、朔羅。父さまって、もしかして有名だったりする?」
「まぁねぇ。あの人、若い頃は「異端児」だったからね」
「初耳だけど……」
「蒼唯さんからは多分、言わないだろうね。君の母上に出会って変わった人だから」
「……そう」
 浅葱の記憶の限りでは、父は「優しい人」でしかない。いつも笑顔を絶やさず、争いごとにも関わりを持たず、穏やかそのものだ。
 そんな彼にも、過去にそれなりの理由があったのだろう。そもそも、人間の女を妻にという時点で、「変わり者」だ。
 浅葱はそこで、一旦は父に対する思考を止めた。今はもっと優先すべきことがある。
「――賽貴は?」
「ちょっと先に様子見してくるって。さすがにこの辺りを普通に歩いていい人じゃないからね」
「ええと、その……王帝は、やっぱり人間界の主上と同じ扱いなんだよね。賽貴はその息子さんだから……」
「あの人は、特別扱いされるの嫌いなんだけどね。まぁでも、そういう元に生まれてきちゃったんだから、どうしようもないんだけど」
 朔羅の言葉の響きが、どこか冷たいような気もした。だがしかし、これが元々の彼であり、浅葱もそれを知り尽くしている。
 そんな朔羅に促されるままに歩みを進めていると、いつの間にか周囲にいた存在がいなくなっていた。
 ざわめき一つ聞こえなくなっている。
「……あれ?」
「アハハ、僕に恐れをなしちゃったのかなぁ?」
「朔羅のそれは、冗談にはならないと思うよ……」
 朔羅は笑ったままだった。見上げる浅葱は、その表情を優しさではなく、狂気じみたものだと感じる。
 世界の空気がそうさせるのか、朔羅はやはり人間界にいるより妖気が強かった。そんな彼は、後ろ手に鋼糸を器用に操り、浅葱の気づかない範囲での『清掃』を行ったばかりでもあった。
 つまりは、遠巻きに浅葱を狙っていた者たちを、屠ったのだ。
「……颯悦と琳も、予定通りかな?」
「ああ、うん。浅葱さんの言いつけどおり……というか、琳の判断なんでしょ?」
「うん。事情は明かせないみたいだったから、琳にも颯悦にも色々と任せてあるよ」
「転機に繋がるんだったら、何でもいいけどね」
 朔羅はそうは言いつつも、浅葱の肩に置いたまま手の力が、僅かながら強いものになっていることに自分で気づいて、苦笑した。
「……瘴気っていうのは、厄介だよね」
「朔羅?」
「浅葱さんだって、多少は感じてると思うけど……良くないモノって身体に影響を受け易いんだよね」
「ああ……この、肌がざわざわする感じ……」
 ピリ、と空気が頬を撫でる感触が、この世界に来てからずっと、纏わり付いてきていた。
 痛みにも似たそれは、気を抜くと意識を持っていかれそうになる。憎悪のような、良くないものの感情へと。
「これもここを統治する者によって、変化があるんだよ。僕の場合は、長いことこっちに帰ってなかったし、耐性が落ちたのかもしれないね」
 朔羅は少しだけ遠くを見やりながら、そう言った。
 彼には故郷と呼べるものが既に無い。
 それを浅葱も知っているので、うまい言葉を選べずにいる。
「あのね、浅葱さん。僕はあなたの傍に要られることだけが唯一の幸せなんだよ。だからその他のことは、気を使わなくてもいいんだからね」
「あ、う、うん……ええと、その、ありがとう……」
「……ただ、こっちにいる間は、気をつけてね。僕も、そして賽貴さんにも、何も影響が無いとは言い切れないから」
「うん……」
 朔羅はそんな浅葱を見ながら、少しの安堵をした。主が変わりないのであれば、まだ大丈夫だ。
(……あんまり、長居はしたくないけど。やっぱり、余計なことまで思い出しちゃいそうだし……)
 心でそんな呟きをしつつも、朔羅は浅葱を導く立場を変えずに彼女と共に道を進んだ。
 長い小路を抜けた先に、その屋敷は佇んでいた。
「…………」
 角のその先、姿を見せたのは賽貴だった。
 その顔色は、あまり良いとは言えなかった。
「賽貴」
「……浅葱さま」
 浅葱が賽貴の名を呼ぶと、彼の表情は若干強張ったように見えた。
 心情ゆえなのか、朔羅が言っていた瘴気の影響なのかは、判断が出来かねる。
「賽貴さん、まさか当てられたんじゃないよね?」
「いや……と、はっきり言えたらいいんだが、正直なところ、自信がない」
 浅葱を囲むようにして、賽貴と朔羅がそんな言葉をかわした。浅葱は頭上で語られるその響きに、わずかに眉根を寄せる。
 賽貴は浅葱には笑顔をくれた。
 だが――。
「思っていた以上に深刻です。なんと申せばいいのか、私の屋敷であったモノから出ている『気』は、非常に危険です」
「賽貴の結界石での応用は?」
「……先程からいくつかの方法を試していたのですが、石も構築するたびに、このように」
 賽貴はそう言いながら、浅葱に向かって自分の手のひらを差し出した。その中にあったものは薄い青緑――白群色の石の成れの果てであった。
「いつもの菱形のかたちに成れないんだね」
「私の力さえ否定してくるとなると、状況が少し変わってきます」
「……ねぇ、見る間に怪しくなってきてるんだけど」
 二人の会話を聞きつつ、屋敷の様子をうかがっていた朔羅がそう言ってきた。
 上空で混濁した色が渦を巻きだしている。
「あの気配、諷貴さんのものじゃないような……それをも上回るかのような……そんな、気がする」
 浅葱が前を見据えながら、そんな事を言った。
 その言葉に、賽貴も朔羅も、否定することが出来なかった。
「――行こう」
 二人より一歩先を、浅葱が踏んだ。
 ここに留まっていても、何も解決はしない。
 そう割り切って、式神の二人も、主のあとに続いた。

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