夢月夜

第ニ夜(十)

 
 穏やかな昼下がり。
 浅葱は自室でまどろみに身を委ねていた。
 庭に面した室内には陽光が降り注ぎ、そよぐ風が几帳を揺らす。
 このところ彼の傍には常に誰かが控えていたが、今は珍しくその気配がない。
 比較的平穏と言える日が続く中、昨夜は久しぶりに妖の来襲があり、退魔に駆り出されあまり寝ていなかったせいだろう。浅葱はとてもよく眠っていた。
「…………」
 サアッ、と風が吹き浅葱の顔に影が落ちる。
 足音を殺して現れた影が陽光を背に立ち、冷めた眼差しで部屋の主を見下ろしていた。
 静かに寝息を立てる浅葱。
 それをしばらく眺めたあと静かに膝を折ると、影は細い指を彼の首へと伸ばす。
「何故、あなたみたいな中途半端な人が、皆に必要とされるのでしょうね……」
 唇から流れる問いに、答えが返る事が無いと知りながら目を細め、その手に軽く力を込める。
「……細い首ですね。このまま僕が、もう少し力を入れたら、あなたの苦しむ姿を見れるのでしょうか……」
「――その前に、僕が君を殺すかもしれないよ」
 背後からかけられた冷たい声。
 空間を渡り音もなく現れた朔羅に殺意を向けられ、影の主――琳が、唇の端を笑みの形に吊り上げた。
「人が離れれば、何か仕掛けてくるとは思ったけど……。目の前の餌にすぐ食らいつくなんて……君、行儀が悪いよ」
「……ふっ、何かあるとは、思いましたけどね……」
 朔羅の冷めた視線を背中に受けながら、琳が軽く肩をすくめてそう言った。
「で、試してみるかい?」
 未だ、浅葱の首にかけられた指。
 それから視線を逸らさずに朔羅が目を細めると、琳は浅葱の首から手を離し、ぱっ、と両手を広げて立ち上がった。
「冗談ですよ。やれやれ、怖いですねぇ、貴方は」
 そう言いながら振り返った顔には、挑戦的な笑みが浮かぶ。
「……君ほどじゃないよ」
 朔羅もまた、琳と同じように薄く笑いそれに応えてみせた。
 琳が目覚めてよりずっと、その動向を監視するように気を張り巡らせていた朔羅。
 そして、常に浅葱の側にいた賽貴。
 京に張り巡らされた結界の見回りのため、外に出なければならなかったとは言え、浅葱を一人にしておくということは考えにくい。
 ――何らかの、罠があるのではないか?
 それぐらいの事は、よほどの馬鹿で無ければ考えつくことであった。
 先ほどの言葉を見ても、琳自身その可能性が大きであろうことは解っていたはずだ。
(……何を考えている?)
 朔羅は、琳の考えが読めずに思案する。
 琳という少年は、どちらかというと狡猾な――そう言う型のはずだと朔羅は思っていた。何らかの行動を起こす事は予想しても、直接的な接触は避けてくるだろうと当りをつけていたのだ。
 それに、彼の影に見え隠れする人物のことも気になる。
 あれ以来、気配すら感じないのが逆に怖いくらいだ、と朔羅は思っていた。
「……ご当主殿が起きてしまわれますから、離れましょうか」
「…………」
 琳の提示に、朔羅は目だけで中庭に降りるように促し、先に動いた琳のあとへと続く。
「本当に、厭になりますね……」
 縁を難なくポン、と蹴り、中庭へと飛び降りた琳が、ぽつりと零す。
「似た者同士とは、反発するものと聞きますが、これが同属嫌悪というものなのでしょうか」
「……君と一緒にしないで欲しいな。僕は『そちら』の部類には属さないんでね」
「ふふ……相変わらず、白狐一族は自尊心が高い……」
 嘲るように鼻で笑い、くるりと振り向く琳。
 それを冷めた瞳で見下し、朔羅は足を止めた。
 朔羅の視線を涼しい顔で受け流し、琳は自室で寝息をたてる浅葱へと視線を送る。この位置からだと彼の頭と肩程度しか視界には入らないが、琳にとってはそれもどうでも良い事であった。
「我等の次期王帝と目されるお方は、事もあろうに人間にご執心で、まるで骨抜きです。その人間は中途半端……天猫を哀れだと嘆いて、何が可笑しいでしょうか」
「哀れなのは君自身だよ。……それとも、わざと間違えているのかい?」
 琳の言葉を耳にして、そう答えながら朔羅は一度目を閉じてまた細く開く。変わらぬ表情と変わらぬ口調。その中にあって、瞳の色だけが水色から金へと変容しているが、横を向いている琳にはそれに気づかなかった。
「そもそも、あれは人間だと言えるのでしょうか? ましてや妖ではありえない。どこまでも、半端で見苦しい存在。僕にとっては、塵芥(ごみあくた)にも等しい……」
「――黙って、くれないか?」
「…………」
 低く響く声に、琳はそこでようやく朔羅を横目でちらり、と覗き見る。
 顔に当てられた手。その指の隙間から覗く双眸は金の輝きを放ち、殺意に揺れていた。
 浅葱を、そして賽貴を蔑む言葉。
 極力声を抑えていても、不快感と殺意がそこに現出している。
「……ご執心なのは、我が君だけではないようですね」
 琳はそんな朔羅から視線を戻して、また小さく肩をすくめた。
 この状態である朔羅を目の前に、ここまで恐怖しない存在というのも珍しい。虚勢なども見受けられず、琳は常にあるがままであった。
「なぜ、貴方ほどの人が、こんなところに?」
「……答える義理は無いよ。それに、必要ないだろう? 君には理解する気もないんだから」
「そうですね」
 琳はあっさりと頷き、にこりと微笑むと側にある枝葉に手を伸ばしながら続ける。
「本当に、理解できません。白雪さん……でしたか。あの方もそうです。ここには何故か、魔界でも群を抜く力の持ち主が集っている。僕にはここにそれだけの価値があるとは、とても思えません。……ああ、でも……」
 雄弁に語りつつ、思い出したかのように顔を上げて、琳は朔羅を肩ごしに振り返る。
 そして。
「颯悦さん。あの方は、よくお似合いだと思いますよ。半端者同士……ね」
 ニィッ、と笑うその表情は、彼を少年だということを忘れさせるほどだ。
 どこまでも挑戦的な態度を崩さない琳に、朔羅はギリギリの理性を保つのが精一杯であった。
 ――いっそのこと、今ここで殺してしまおうか。
 そんな思いすら、脳裏に浮かぶ。
 彼はそれを自制するようにして、大きくため息をこぼした。
「……無駄話はもういいよ。遠まわしは嫌いなんだ。君の目的はなに?」
「『君の後ろにいるのは誰?』ですか。……十分、遠まわしに聞こえますけどね」
「――琳」
 低く響く声があった。
 クックッ、と肩を震わせ笑う琳の横――朔羅がいる位置とは反対側の空間が揺らぎ、そこから姿を見せたのは賽貴で、彼は険しい表情で琳を見下ろしていた。
 京の見回りを終えて、屋敷の近くまで来た時に感じた朔羅の微かな殺気。そして、その彼の側にある琳の気配。
 急ぎ空間を渡って来てみれば、朔羅の瞳が金へと変容している。自分の居ない間に何があったのか。少なくとも、良いものではない事は明確であった。
「……何用ですか、賽貴さま」
 もはや、その性を隠す様子もなく、琳は冷めた眼差しで己の仕えるべき主を見据える。賽貴の突然の姿にも、殆ど驚きは無いようだ。
「お前は、何をするつもりだ? 事と次第によっては、容赦しないと言ったはずだが」
「別に、貴方がたを困らせることはしませんよ」
 賽貴の言葉に、琳はクスリ、と笑いを漏らしつつそう答えた。そして、手にしていた葉を一枚引きちぎり、続ける。
「……ただ僕は、死にたくないだけです」
 ポツリと零された言葉とともに、彼の瞳に暗い影が落ちる。
 それに気づいた朔羅は、わずかに眉根を揺らしていた。
(……賽貴)
 心でそう呟くのは、浅葱だ。頭上で感じ取った数人の気配と会話に、流石に目を覚ましたようであった。
 未だ横たわったままであるが、ぼんやりと中庭を見つめている。
(朔羅と……琳さん……?)
 一度目を閉じて、ゆっくりと開く。それでも安定しない意識を煩わしく感じながら、浅葱は陽の光の中にある彼らの光景を、ただ眺め続けていた。
「……ああ、そうだ。知っていますか?」
 くるり、と身を翻した琳が、二人へと笑いかける。その瞳には先程の翳りは消えていた。
「天猫の双子は、必ず一人が死にます。僕のような病気持ちがね。でも……」
 そこまで告げると、琳は唇の笑みを深くする。
 朔羅がその変化にまたも反応はするが、そのままでいた。
「――健康体。つまりは片割れの血を飲めば、永きを得られるんだよ」
 ドン、と。
 厚みのある何かを貫く音がしたと同時に、琳の言葉を引き継ぐ者があった。
 賽貴の背後に生まれたその声は、一瞬にして空気を濁す。
「……っ!!」
 目の前で起こった出来事に、朔羅とそして遠くからそれを眺めていた浅葱が息を呑む。
 何の前触れもなく突如、空間を割って現れた銀髪の青年と、賽貴の腹部から伸びた刃。それがゆっくりと引き抜かれるのを呆然と見つめ、浅葱は急速に己の意識が覚醒していくのを感じていた。