夢月夜

第ニ夜(十三)


「ごめんなさい」
 そう、再びの謝罪を告げたのは浅葱だ。
 藍に体を預けたままで、気だるげにしている。やはり貧血気味であるようだ。
「――離していいよ」
 ゆら、と影が出来たと思った直後に、浅葱の体を後ろから支えた声があった。
 それは藍の返事を待つ前に、軽々と浅葱を抱き上げる。朔羅であった。
「賽貴さんの傍に。……君は血の繋がりがあろうだろう。何かできるかもしれない」
「う、うん……」
 朔羅が藍にそう言うと、彼女は素直に頷いて賽貴の元へと駆け寄って行く。
 琳はそれを、黙って見つめているだけだった。
 彼からは悪意も敵意も、今はもう感じられない。
「……諷貴さん。もう、どこかに行ってくれない? 遊んでるだけなんでしょ?」
 諷貴には背を向けたまま、先程までとは違う落ち着き払った声で朔羅がそう言った。
 抱きかかえた浅葱を諷貴の目に止めたくないのか、まるで自分の体で庇うようにしてその背を動かさない。
「俺が、何かするとでも?」
 諷貴はゆっくりと自分の首をかしげて、朔羅の言葉に応えた。高い位置で括られた長い銀糸がさらりと揺れる。
 声音は変わらずの、嘲りが含まれたままだ。
「貴方の強さは知ってるよ」
 朔羅はそう続けながら、浅葱を抱く腕に力を込め、
「でも、今は部が悪いでしょ」
 と、顔だけを諷貴に向けて目を細めた。
 いつの間にか、颯悦と紅炎が彼ら二人の周りを囲んでいる。
 決意と静かな怒りに揺れる颯悦の気と、赤く光る紅炎の瞳。
 それらを一瞥し、諷貴は『ふん』と笑った。そして面白そうに口元を歪める。
「賽貴に伝えておけ。また遊んでやるよ、とな」
 そして、朔羅の肩口から頭部だけを覗かせている浅葱へと、その視線は向けられた。
 諷貴の『新しい興味』は、やはり浅葱にあるままのようだ。
「……『浅葱』?」
「!」
 名前を呼ばれて、ビクリと体が震えた。
 朔羅に抱き抱えられているとは言え、距離が近いせいか恐怖心が煽られるのかもしれない。
 浅葱は諷貴から隠れるようにして、朔羅の胸に顔を埋めた。
「気安く、呼ばないでくれる? 僕の当主は繊細なんだ」
 代わりに答えたのは、朔羅だった。彼は不機嫌そうな表情をあからさまに浮かべつつ、そう言い放つ。
 諷貴はまるでそれが耳に入らなかったと言うように、口元に笑みを浮かべながら浅葱へと近づいてきた。そして腕を伸ばして、彼は朔羅の腕から浅葱を引き摺り下ろす。
「……っ!」
 一瞬、ぽんと腕に手を乗せられた。
 そのたった一瞬の行動に、朔羅はどうしても反応できなかった。彼の中に根付いている諷貴に対する嫌悪感と、どうしようもない恐怖心がそうさせたのかもしれない。
 ぞわり、と背中が騒ぐ。
「……やっ」
「諷貴さん、何をするんだ!」
 浅葱の小さな声に、朔羅は非難の声をぶつける。
 傍にいる紅炎や颯悦も、諷貴が浅葱に近づきすぎていて手を出せない状態だ。
 あっさりと諷貴に両腕を掴まれた浅葱は、何とか自分でもがいてみるが、到底適うことは無かった。感じる気もその力も、彼には未知すぎるほどなのだ。
 ――賽貴と同じ顔をしていると言うのに、これほどまで彼は『違う』。
「離して、ください……、痛……ッ」
 ビリ、と二の腕に痺れが走った。
 諷貴はそんな浅葱の反応に、楽しそうな表情を浮かべて顔を近づけさせる。
「お前、俺の声に憶えはないのか……?」
 その声音を耳元で囁かれた瞬間、浅葱は『何か』を感じ取った。
 心が無理やりにでも動いてしまうような、そんな感覚だ。だがそれは、瞬時に掻き殺された。
 背筋に走る冷たい声。
 浅葱はそこで、目を見開く。
「あ、あなた、は……」
 脳裏に蘇るのは、暗闇の恐怖。どこまでも昏く、冷たい男の声。
 自然と体が震えた。記憶からくる恐ろしさが、浅葱の記憶を鮮明にしていくためだ。
「……お前。前は髪が金色だったよな。どっちが本物だ?」
 楽しげに浅葱の黒髪へと伸ばされる右手。指がその糸を絡め取ろうとしたところで、何かが風を切る音がした。
 直後、諷貴の右手の甲に何かがぶつけられる。
 ガッ、と音を立てて勢いよく当たったそれは、閉じられた扇だ。
「…………」
 よくよく見覚えのあるその扇に目をやりつつ、諷貴はまた小さく笑った。
「立ち去れと申したであろう。汚らわしいその手で、我が当主に触れるな!」
 珍しく声を荒げてそういうのは白雪だ。
 賽貴の治療を終えたあとであるのか、彼からは数歩離れた場所で立つ姿はまさに威厳そのものだった。整った眉目に剣を湛え、はっきりとした怒りを露わにしているのがよく解る。
 朔羅はその隙に、浅葱を自分へと奪い返していた。そして位置的に諷貴より距離が取れる颯悦へと浅葱を預けて、その前に立つ。
「…………」
 諷貴はその行動に、ごく僅かな焦燥感を抱いた。自分の手からすり抜けた『存在』を目で追えば、それを容赦なく遮るのは朔羅だ。
「……まったく。此処の連中はいつになっても扱いにくいな」
 ふぅ、とわざとらしくため息を吐いて、諷貴はそこで一歩を引いた。
 扇を受けた手の甲を摩りつつの行動には、まだまだの余裕が見て取れたがここは一旦立ち去るようだ。
 そして彼は、忘れていたと言わんばかりの視線で琳へと瞳を動かした。彼にとって、もう既に琳は、『過去のもの』になっているらしい。
「そいつの始末は、お前らに任せる。……俺にはもう、いらないからな」
「……そんな、言い方……っ」
「いけませんっ!」
 クックッ、と嗤う諷貴に、先刻までの恐怖を忘れて身を乗り出そうとする浅葱を止めるのは、颯悦だった。
 当の琳は、諷貴の言葉に何も反応は返さずに地に座したままで静かに目を閉じている。
「……浅葱、お前が気に入った。また来る」
 諷貴は最後にそれだけを告げて、ゆっくりと姿を消した。空気に溶けるように静かなそれは、弟の賽貴が持ち合わせる空間を渡る能力と同じものだ。力が強ければ強いほどその能力もまた強く、消えた先を追えるものはこの場には居ない。
「……掴めぬ男だ」
 扇を拾い上げて諷貴の消えた方角へと視線をやりながら、白雪がぽつりとそう零す。
 『門番』である彼女でも、諷貴の行動の先は読み取ることが出来ないらしい。
「……、……」
(結局、何も出来なかったな)
 朔羅の心の中には、そんな言葉が漏れる。後悔のように渦巻く自責の念だ。

 ――また来る。

 諷貴はそう言っていた。言ったからには、必ず来る。
 彼の性格から言えば、口にしなくても……。そういう男なのだ、諷貴は。
 その時こそ、何か出来るだろうか?
 当主である浅葱を、そして仲間たちを守ることは出来るだろうか。
 紅炎も颯悦も、それぞれにそんな思いを抱き言葉なく新たな決意をする。同じことを繰り返さないために。
 強大な精神的な圧迫感に晒された疲労感の中、皆が一様に視線を向けるのは琳だ。
「今は、琳の処遇をどうするか……だな」
 そう、言葉にしたのは紅炎だったか。
 颯悦に守られるようにして立っていた浅葱も、その言葉に釣られるようにして琳を見やるのだった。