夢月夜

第ニ夜(八)


『――半端モノ』
「え……?」
 くぐもった声に、浅葱は振り返った。
『人間でも、仲間でもない。……目障りですね』
「……誰?」
 周囲を見渡しても、姿は見えない。それどころか何も、自分の姿すら見えない。闇に塗りつぶされたかのような空間に、浅葱はいた。
『あなたは、甘ちゃんですね。ある意味、藍よりも忌まわしい存在かもしれない』
「……琳、さん?」
 ようやく、知った名前を耳にして、それを口にするのが聞き覚えのある声であることに気がつく。
「琳さん、……どこにいるの?」
 浅葱は声の主を探そうと、暗闇を彷徨い始めた。一歩先すらもわからない闇の底だが、自然に体が動いたのだ。
『――どこに行く?』
「!」
 突如響いた琳とは違う男の声に、浅葱はビクリ、と身体を震わせた。
『それより先は、行き止まりだ。それでも進みたいのか?』
 冷たい響きの、男の声。
「あなたは……誰ですか?」
 震える身体を両手で制し、浅葱が問いかける。
『誰だと思う……? この声に、聞き覚えがあるだろう?』
 くっくっ、と楽しそうに笑う声が聞こえる。どこまでも冷たいと感じる声だった。
(知らない、こんな人……。嫌だ、こんなところに居たくない……!)
 見えないことの不安と煽られる恐怖心からか、浅葱はたまらず走り出す。
『――何処へ行く?』
 全力で走る浅葱を、その声は追いかけてくる。
「琳さん……琳さん、どこですか……?」
『……どこだっていいだろう。お前はお前の身を案じたらどうなんだ?』
『こんな時に、他人の心配ですか? とことん偽善者ですね。何の力も無いくせに』
「琳さん!?」
 どこともわからない方向へと声を投げかければ、そんな言葉が返ってきた。
 浅葱はそれに怯えつつも、琳の名を呼ぶ。
『……目障りです』
『賽貴は、さぞかし苦しんでいるだろうな』
『力のないモノは、いらないとは思いませんか?』
『お前は、どうして存在している?』
「いや……っ」
(聞きたくない……!)
 二人の声が、浅葱を追い立てた。
 走っても走っても、出口が見つからずに、無限の闇が広がるばかりだ。
『……いらないでしょう? 今の貴女は役たたず。式神の手を借りないと、何も出来ない』
『お前には、何のために存在する?』
「……いや、嫌っ!」
(どうして追いかけてくるの? 何も聞きたくないのに……!)
 がむしゃらに手足をバタつかせる浅葱は、自分は本当に走っているのかという疑念を抱かずにはいられなかった。
 どこまでも、どこまでも離れようとしない声。疲れているのに、息は切れるのに、自分が動いている気がしない。
 そして声は、さらに浅葱を追い続けてきた。
『……藍も、貴女も甘ちゃんです。僕には目障りだ。……消えてください』
『お前は、どこに行く?』
「いや……!」
(誰か、助けて……賽貴!)
『――僕は、死にたくない……!』
 両手で耳を塞ぎ、座り込んだ浅葱の脳に、直接割り込んできた強烈な思念。
 不安で半泣き状態でありながらも、浅葱はその声をしっかりと耳に捉えていた。

 死にたくない――。

「――浅葱さまっ!」
「……ッ!」
 賽貴の声に、弾かれたように目を開く。
 その視界の端には、心配そうに顔を覗き込む賽貴の顔がある。
「……、さい、き……?」
「はい」
 そろり、と腕を上げれば、その手は震えていた。
 賽貴はそんな浅葱の手を取り、やさしく包み返してくれる。
 現実に戻ってきた安心感がそこで一気に広がり、浅葱の目には涙が浮かんだ。
「賽貴……、賽貴ッ!」
「浅葱さま……」
 ぼろぼろっと瞳の端から零れ落ちる雫。
 それを止めることは出来ずに、浅葱は賽貴にしがみついた。
 その体はひどく震えていて、受け止めた賽貴は優しく抱きしめてやる。
「もう、戻れないかと……思った……」
「お迎えが遅くなり、申し訳ありませんでした」
 泣きじゃくりながら言う浅葱に、そう答える賽貴には僅かな疲労の色がある。
 その脇では、白雪と朔羅が軽く肩を揺らしていた。
 どうやら、意識が闇に堕ちた主を、賽貴と彼女たちが探したようだ。
 白雪が道の痕跡を辿り、賽貴が浅葱の意識を追った。さらには同じ闇に堕ちていた琳の意識を朔羅が追って、それらが交わった場所を探り出し、浅葱を現実に引き戻す。
 人の意識下に入るという行為は、潜る者にも大きな危険が伴う。それなりの覚悟がなければ出来ない、過酷な作業だ。
 他人の精神世界深くに潜入したことにより、相当の精神力を消費したのか、白雪も朔羅も額に汗を浮かべている。
「そなたが、それほど疲れている姿を見せるとは、珍しい事もあるものよの」
「……お互い様でしょ」
 大仕事を終え、安堵した白雪が、朔羅に珍しく軽口を叩いた。
 潜行のみならず、一人で琳の意識の引き上げを行った朔羅は、隣の白雪よりも疲労の色が濃く見える。それでも彼女の言葉には唇の端を上げて答えてみせると、白雪は満足そうに微笑みを返している。
 二人とも疲労はしているが、まだ余裕があるらしい。
 そんな中。
「…………」
 部屋の隅で小さく正座をし、自然と抱き合う賽貴と浅葱を黙ったまま見つめている存在があった。
 藍であった。
 わずかに落ち着きを取り戻した浅葱が、藍のその視線に気がつき慌てて離れようとするが、体がついていかずに、かくり、と上体を崩すのみで終わる。
「……ご無理はいけません、浅葱さま」
「う、うん……」
 当たり前のようにしてそんな主の体を支え、自分の腕の中に戻すのは賽貴だった。
「琳も、もうすぐ目を覚ますよ、藍」
 眉一つ動かさずに浅葱たちを見つめていた藍に、朔羅が声をかける。
 同じ室内には、琳の姿もきちんとあるのだ。髪の色は朔羅が事前に飲ませた薬が効いているのか、闇色に戻っている。
「……そう」
 朔羅の言葉に、藍はそう短く答えたのみだった。
 そして彼女は、すっ、と立ち上がり、部屋を出て行く。
(何か、見えてきたかな? 馬鹿だけど、愚かではないようだね)
 その背中を見送りつつ、朔羅が楽しそうに再び唇の端に笑みを浮かべる。
 そしてそのまま視線を琳へと落とし、
「――さて、これからどうしてくれようか……」
 と、呟いた彼の双眸は、金色に変化していたのだった。