夢月夜

第三夜(六)


 ガタンと大きな音を立てて、燈台が倒れた。
 浅葱が内裏で女御付きの女房から話を聞き始めた頃合がほぼ同じの九条邸である。
 その燈台には火は灯されてはいなかったが、倒れたと同時に油がこぼれ落ちじわりと床に染みを作っていく。
 ――ドクン、ドクン。
 そう脈打つのは、朔羅の体の中をめぐっている血だ。
「朔羅」
「こ、ないで……危ない、から……」
 見るも無残なほどに荒れ果てた部屋の中、彼の目の色は金色に変容し、荒い息を吐いている。
 どうしても拭えない体の重みと、まとわりつく気配。
 体中の血が沸騰しそうなほどにそれに反応し、暴走しようとしている己の身を必死に抑えつつ、朔羅は賽貴の呼びかけに答えた。

 ――この衝動に身を任せてしまえたら、どんなに楽だろう?

 そんな自分の中の甘美な誘惑にさえ、気持ちが揺らぐ。
 それでも朔羅はギリギリの理性を保とうと必死にもがいていた。
「朔羅。……俺は大丈夫だ、掴まれ」
「だめ、だよ」
 手を差し伸べる賽貴に、口の端をあげて首を振る。
 こんな状態の自分には、近づけさせてはいけないのだ。それが賽貴であっても。
 だから彼は、拒絶の姿勢を見せる。
「……朔羅」
「だめ、だ。もう、ほんとに……いっぱいいっぱい、なんだよ。殺しちゃうかも、しれない……ッ」
 尚も近づこうとする賽貴を、朔羅は遠ざけようと必死だった。
 腕を振って拒絶し続けるが、その手は途中で賽貴に掴み取られてしまう。
「賽貴さん……! 離し、て……!」
 賽貴が触れた部分から、新たな衝動が生まれようとしていた。

 この男は、どんな血の色をしているのだろう?
 ――どんな、歪んだ表情を見せてくれるのだろう?

 金色の視界に映る賽貴の姿。
 誰よりも何よりも信頼を置いている存在でさえ、今の朔羅には蠱惑的なモノに見えてしまう。
 ああ、もういっそのこと全て。
 そう、この屋敷ごと全て。
 自分の手にかけて潰してしまえたら。

 ――朱に染めてしまえたら。

 自制をかければかけるほど後からこみ上げてくる感情は、朔羅の気持ちとは正反対の危険なものばかりだった。
「……っ、く……ッ」
 ギリ、と思わず歯を擦り合わせれば脳内でそれが鈍く響いて、さらに朔羅の気持ちを危ういものへとしていく。
「朔羅、大丈夫だ」
「……っ」
 どう見ても『異常』でしかない朔羅を、賽貴は顔色も変えずに自分へと引き寄せた。
 そして、ゆっくりとその体を抱きしめてやる。
「大丈夫だ」
 賽貴はその言葉を、もう一度繰り返した。自分の腕の中でビクリと大き体を震わせる存在は、未だに抵抗の色を見せている。
 彼の内情を『朔羅』の事を知り尽くしているのは賽貴だけ。
 暴走した朔羅を止めることができるのは『彼』が居ない今では、賽貴以外にいないのだ。
「大丈夫だ。大丈夫だから。俺が、信じられないか?」
「さい、き、さん……」
「……大丈夫」
 呪文のように繰り返す言葉に、朔羅はようやく落ち着きを見せ始めた。あれほど荒かった息も、ゆっくりとではあるが元に戻ろうとしている。
「はぁ……」
 しばらくのあとに大きなため息を吐いた朔羅は、賽貴の背中に手を回した。そして、その体は瞬く間に女性体に変容していく。
「朔羅?」
「……このほうが、様になるでしょ? 少しだけ甘えさせてもらうよ」
 朔羅の変化に対して賽貴が僅かに表情を動かしてそう呼べば、本人は薄く笑っている。肌に滲んだ汗を賽貴の着物に擦り付けて僅かに首を傾ければ、『彼女』の髪が細い肩でさらりと流れた。
「本当に、浅葱さんには見せられないよね」
「嘘をつく身にもなってくれ……」
 いつもどおりの楽しげな声音でそう言えば、賽貴からもため息が溢れてそんな返事がある。
 女性体になり、身長差的にもちょうど良い角度で賽貴の腕に収まっている朔羅はそれを利用して表情をうまく隠していた。呼吸も今は通常通りだ。
「……ごめん」
 その響きは賽貴と。そして主である浅葱へと。
 自分がこんな状態であるがゆえに、今日も浅葱に付き従うことができなかった。
 今頃、彼はどうしているだろうか。危険な目には遭ってはいないだろうか。ほかの式神たちが付いているとは言え、心配は尽きない。
「浅葱さまが戻ったら、今度こそ見てもらったほうがいい」
「うん、わかってるよ……」
 賽貴の言葉にゆっくりと返事をしたところで、朔羅はぐったりと体の力抜いて眠ってしまった。限界値を超えていたのだろう。
「…………」
 ――これ以上はどうにもならない。
 そう賽貴は思った。
 自分は朔羅の暴走を止めることは出来るが、根本のものを取り払ってやることは出来ないからだ。
 そしていつかは、浅葱にも悟られてしまうだろう。隠し通せる事柄ではない。
 朔羅は『わかってる』とは言ったものの、おそらくは浅葱には伝えることはしない。彼の性格上、必ず隠し通すはずだ。
 賽貴はそう考えつつ、朔羅の呼吸が安定していることを今一度確かめてから彼女をそっと寝かせて、静かに荒れたままの部屋を片付け始める。油の染みは、なかなか落ちそうにない。
 そうして粗方片付け終わったのち、彼は黙したままで朔羅の周りに結界石を突き刺した。
 刺さったあと、石は空気に溶けるようにして消えていく。床に直接刺さっていたが、傷はついていない。
「オン キリキリ バザラバジリ ホラマンダマンダ……」
「!!」
 室の外で、結界法の印を切る気配がした。
 浅葱は今、ここには居ない。だとすれば――。

 ――パシン。

 空気が弾けるようなそんな音がしたあと、室内に結界が二重に張られたのが気配でわかる。
(……桜姫さま)
「主なしに、事を片付けようとするのではありません。浅葱が何も気づいていないとでも思っているのですか」
「…………」
 締め切られた御格子の向こうに映る影。それは浅葱の母親である桜姫のものだった。
 言葉を返すことを嫌う桜姫を気遣い、賽貴はただ黙ってその場で頭を下げる。
 気づかれてはいるだろうと思ってはいたが、この場に足を向けられるとはさすがの賽貴ですら予測は出来ていなかったらしい。
「何のための浅葱の式神ですか。自覚なさい」
(――解って、います。桜姫さま)
 桜姫の口調は相変わらず、厳しいものであった。
 彼女はそれだけを言うと、その場を離れて行く。賽貴は桜姫の足音が遠くになるまで、ずっと頭を下げ続けていた。



「……では、ひと月ほど前からずっと?」
 座して女房の話を聞いていた浅葱が、思案するようにしながら口を開いた。その傍らで疲れて眠る女御は、浅葱の着物を固く握り締めたままだ。
「はい、ほぼ毎日このような空気で……。わたくし共ではどうする事も出来ず、主上の御計らいで色々と手を尽くしては見たのですが……」
「わかりました」
 女房の言葉に、浅葱がそう告げる。すると女房は静かに頭を下げ、控えるようにして彼の前から下がっていった。
「……琳」
 浅葱がぽつり、とその名を呼んだ。
 すると黒猫の姿である琳が、軽々と端近へと上がり姿を見せる。彼は常に、浅葱が行動する傍にいるようだ。
「どう思う?」
『……それを僕に訊くのですか』
 浅葱の問いに琳はふぅ、とため息を吐いてから彼の膝の上に乗った。
 そこが、現在の琳の特等席であるらしい。
『貴方のことです。何かを掴んでいるのでしょう?』
 見上げるように琳が首を上げると、小さな鈴の音がちりん、と鳴った。それは浅葱が琳へと与えた、首輪に取り付けられているものであった。
「……うん」
 琳の言葉を受けて、浅葱がそんな返事をする。まだ、僅かに思考の波の中にいるのか、声音は弱い。
 チリ、と燈台の中の灯芯(とうしん)が燃え進む音がした。
 浅葱がそれに気づいて視界を動かせば、煙たいほどであった護摩がいつの間にか控え目になっている。燿が取り計らってくれたのだろう。
「九条殿。何かお持ちいたしましょうか?」
「ああ、では白湯をお願いできますか。この子にも」
「かしこまりました」
 先ほどの女房からの申し出に浅葱は、膝の上にいる琳の背を撫でつつ、そう応えた。
 『九条殿』とは浅葱のことを指す敬称だ。浅葱が九条邸の主であるということから、そう呼ばれることも珍しいことではない。
 所作も優美に浅葱に頭を下げた女房は、静々と白湯を用意するために室を出て行く。
 それを見送ったあと、浅葱は女御に視線を落とした。
 至上の美姫と謳われた彼女の、やつれた寝顔。縋りつつ泣き止む気配が見られないために、浅葱が半ば強引に女御の意識を落としたのだが、眠っている今でも眉間にしわが寄っている。
「…………」
 夜な夜な訪れる気配。
 女御を悩ませる声と、形無き存在。
「颯悦の報告の件と、ぶつかるな……」
『そのようですね。ですが、承香殿どのには関わりはないでしょう……。彼女自身には、接点が見当たらない』
「強い思念……生霊なのかもしれないけど、女御さまは誰かに間違われてるんだと思う。接点は、きっと……」
 そこまで告げて、浅葱は言葉を一旦切った。
 数日前の颯悦の報告を思い出しつつ、結ばれようとしている思考のかけらたちを脳内でゆっくりと繋いでいく。
 幸いと言うべきか、九条邸には良くない空気が淀めいている。そして、式神の一体の波長がそれに合わせるかのようにして乱れたままだ。
『どちらにしても、今日はここに留まるんですね』
「うん。……状況もわかったし、此処で炙り出すよ」
 室内を満たす荷葉の香。
 女御の好む香りであり、衣にもしっかりと燻らせてある。そして浅葱はこの香を好むものを、もう一人知っている。
 かたり、と女房が白湯を持ってきた物音が合図になったかのように、浅葱はそこで一度深呼吸をしたあと、気持ちを改めて薫物の用意を願い出るのだった。