夢月夜

第四夜(四)



 卯の正刻、東の空が明けの色に染まり始める頃。
 九条の屋敷で誰よりも早く行動を開始するのは賽貴だった。
 物音を立てずに自室を出て自分で水を汲み、控えめな装飾の角盥にそれを入れてその場で洗顔をする。
 冷たい空気の中、よく冷えた真水は彼にとっては気持ちを切り替えるための道具の一つでもあった。
「…………」
 パシャン、と跳ねる水音。
 彼の頬を伝い顎で雫を作った水滴は、再び盥の中に戻っていく。
 それをどこか遠くで見るようにしながら、水面に映る自分の顔を覗き込んだ。
 代わり映えのない冷めた顔。
 決して豊かではない己の表情はこんなにもつまらないものなのかと改めて感じて、賽貴は小さく自分を嘲笑した。
 その歪んだ顔が、自分の兄と重なる。
 同じ血を、同じ顔を分けたただ一人の片割れ。
 兄弟だと忘れてしまいそうなほど、まともな会話をしなくなってもう数十年。
 ゆっくりと昔の記憶を呼び起こしても、彼との思い出などほとんど浮かんでこない。
 禁忌の双子として生まれているためなのか、兄の諷貴はやはり狂気じみた性格だった。
 脆く儚いものを何より嫌い、賽貴が拾ってきた小鳥なども見つけてはわざわざ彼の目の前で殺した。

 ――お前、なんでそんなに何でもない顔ばっかり出来るんだよ、つまらない。

 残虐な行為を幾度か繰り返した後、彼はそう言って賽貴から距離を置くようになった。
 諷貴は賽貴を弟として認識していたのではなく、『同じ顔をした玩具』だと思っていたらしい。
 その玩具が何をしても無表情のままであるために、彼の傍にいることに飽きてしまったのだろう。
 あのまま、自分をなんてことはないただの存在だと捨て置いてくれればよかったのに、と賽貴は思った。

 ピチョン。

 再び、水の跳ねる音がした。
 左半分の自分の伸びることのない髪。
 半狂乱の兄に切られてから、呪いのようにその髪は怯えたままだ。
 兄と同じように同じくらい伸びていたあの頃。
 『あの人』が綺麗ですねと褒めてくれたそれは、もう聞こえない。
 ズキリ、と眉間が痛む。
 それに素直に表情を歪めた賽貴は、右手で顔を覆い俯いた。
 過去を思い出せば出すほど、記憶が悲鳴を上げる。これ以上、思い出したくはない。
 ――諷貴のことを思い浮かべたくはない。
 そう思ってはいるのに、自身の脳裏は常にゆらゆらと揺れ動いている。
「相変わらず早いな、賽貴」
 ゆるく首を振ったところで、背中にそんな声がかけられた。
 静かに振り向けば、袿を羽織った紅炎の姿がある。
「……そう言うお前も、いつもどおりだな」
「体に染み付いた習慣だから、どうしようもない」
 軽く体を動かしつつそう言う紅炎は、これから朝の鍛錬に出かけるところだった。
 炎狼族である彼女は、常に体を動かしていないと落ち着かない性格らしく自己鍛錬は毎日の勤めでもあった。
「紅炎」
「なんだ」
「……少し、雰囲気が変わった気がするんだが」
「――――」
 形の良い誰もが羨む悩ましい肢体。
 その線を隠すことなく晒す紅炎ではあるが、最近の彼女はどこか控えめであった。
 今日も桜姫のものを借りているのか袿を羽織ったままであるし、いつもまっすぐ前を見据えている視線も俯きがちだ。
「朔羅も気にしていたが、体調が悪いのではないか」
「そんなことはない。先ほどお前も言っただろう、私はいつもどおりだ」
 紅炎は賽貴に背を向けた状態でその言葉を返した。
 賽貴はそんな彼女の行動に違和感を拭えずに、眉根を寄せる。いつもであれば浅葱以外の人物にさほど興味を示さない彼ではあるが、やはり長い付き合いというものがあるために見過ごせないようだ。
「紅炎」
「……何でもない、放っておいてくれ」
 彼女は賽貴を見ずにそう言う。そして早くこの場から離れてしまいたいと言うような空気を醸し出し、賽貴を拒絶した。
「そんな体調で出るのか。……熱があるだろう」
「触るなッ」
「!」
 見れば見るほど紅炎の調子が平行線ではないことに気づいた賽貴は、彼女の肩に手を置いた。
 すると紅炎はその手を乱暴に払い除けて激昂する。
 そんな反応を見て、賽貴は軽く瞠目した。
「す、すま、ない……」
 紅炎は珍しく動揺して、それだけを言ったあとで口ごもる。
 片手で口元を隠して、とても気まずそうだった。
 賽貴は軽くため息を吐いたあと、彼女から一歩下がり僅かに困り顔を浮かべる。
 特に気分を害しているわけではなさそうだ。
「……あまり無理や無茶はしないことだな。浅葱さまに気づかれる前に治しておけ」
 彼はそう言ったあと、くるりと踵を返した。
 紅炎の返事は無く、彼自身もそれを求めていなかったので必然的に会話もそこで終えられる。
 その場に残された形となった紅炎は、苦渋の表情を浮かべつつも何も出来ずにしばらくその場に立ち尽くしていた。



「紅炎さんって、前からあんな感じだった?」
 手習いの上達具合を見てもらいつつそう問いかけたのは、藍であった。
 そばで筆の入りを音で確認していた颯悦が、僅かに瞳を揺らがせる。
「…………」
 最初は、騒がしいだけの少女だと思っていた。
 だがここに来てからの彼女は変わりつつあった。あれだけ嫌がっていた『人間』である桜姫には薫物を習い、白雪からは裁縫を教わりそして自分からは、知識と書を習っている。
 そして藍には天性の洞察力があった。兄の琳にも備わっているものなので、血筋なのかもしれない。
「元からあんまりお話とかしないけど……なんていうか、元気がないっていうか……」
「そうだな、それは私も気になっていた」
「浅葱は気づいてるかな?」
「……いや、浅葱さまには気づかれぬようにしているようだからな」
 会話をしている間にも、藍は目の前の書をきちんと書き進めていた。基本は出来ているので、飲み込みも反映も早い。
 行儀はあまり良いとは言えないが、それでも颯悦は会話を止めることはしなかった。
 紅炎本人を除く式神の誰もが、彼女の小さな変化にそれぞれに気づいていた。
 どうしたものかと模索しているところにきっかけを与えてくれたのが藍であったために、颯悦もそれを利用したといった様であった。
「あれは自尊心も高いから我らにもあまり自分のことを進んでは話たがらん。それゆえに内情を詳しく知ることも難しい。一番近しいのは桜姫さまだが……」
「うーん、余計に言わなさそう。紅炎さんって、最初の主が桜姫さまでしょ? だったら絶対、言わないと思う」
「……なるほど、それもそうだな」
 琳と共に人間界に来て半年ほどであるが、よく見ていると颯悦は思った。おそらく無意識に観察しているのだろうが、そこからの記憶力と知識欲が並以上だ。
「まぁ、あたしが悩んでも仕方ないんだけどね。なんか、気になっちゃって」
「本人の問題だからな。だが、家人がこれほど気にかける事態になってしまった今では隠し通せるものでもない、浅葱さまに報告しておいたほうがいいだろう」
「そうだよね。紅炎さんは浅葱の式神で、戦闘になったらあの人が一番動けるしね」
 彼女はそう言いながら、課題の文字を書き上げてそっと筆を置く。
 最初はふらふらとしていた筆跡も、大分立派になってきた。まだまだ兄の琳には到底及ばないが、数ヶ月続ければ追いつくくらいまでには成長できるだろう。
「浅葱も、こうやって颯悦さんに書を習ったの?」
「ああ、そうだ。ほんの数年前までは傍でお教えしていた」
 ふー、とゆっくり足を崩しつつ藍は颯悦を見やった。
 光を映さない茶色の瞳。最初から何も見えないとは聞かされているが、彼はきっと様々な感覚を視てきたのだろう。
 空気を感じ世界を視て、ヒトを視て、主を視て。
「颯悦さん、浅葱のこと好きなんでしょ?」
「……っ」
 藍の的確な言葉に、颯悦の肩が震えた。
 滅多に見られない動揺の証だった。目の当たりにした藍は、その動揺に小さな笑みを浮かべる。
「……笑っただろう」
「うん。だって、可愛いなって思ったから」
「大人に向かって可愛いはないだろう」
 藍の口元の変化に気づいた颯悦は、若干不満そうであった。
 あっさりと自分の気持ちを言い当てられた事もそうだが、そんな自分を可愛いと言ってのける彼女を理解できないようだ。
「まぁ颯悦さんから見ればあたしはまだまだお子様だろうけど、これでも浅葱より長く生きてるし、その分ヒトよりはちょっとだけ勘は良いと思ってるんだけどな」
「お前は素直すぎる」
「一人ぐらいそう言うのが居てもいいじゃない」
 リン、と鈴の音が室内で響く。
 藍の髪を束ねている組紐からの音だ。彼女が横に首を傾けたその時に響いたのだが、颯悦はその音色にはっとした。
 純真で純粋な一人の少女の本音。
 嘘をつけないからこそ、思ったことを素直に吐露する。
 曇りのない涼やかな響きは、生真面目な男の心を僅かにくすぐったのだ。
「……そうだな、悪くはない」
「でしょ?」
 藍は文机の前で足を伸ばしながらそう言う。若干痺れていたのかもしれない。
 ちらりと颯悦を見やれば、彼はやはりいつもよりかは気まずそうな表情をしていた。
「浅葱さまのことは、……その、内密に頼む」
「伝える気はないんだね。なんでも出来る颯悦さんでも、恋は不器用なんだ」
 軽く肩をすくめつつ藍はそう言う。
 すると颯悦は益々の困り顔になった。
 普段崩れることのない整った顔を、藍はもっと崩してみたいと純粋に思った。
「し、仕方ないだろう。後にも先にも私が心に誓ったのは浅葱さまだけだ」
「――じゃあ、あたしに誓えばいいじゃない」
 天井を見上げながら、さらり、と何でもないことのようにして藍は言う。
 そしてまた横目で書の師を盗み見た。
 颯悦は返事を忘れるほどの衝撃を受けているようだった。その表情は、おそらく浅葱には見せたことはないのだろうと彼女は察する。
「どう? あたしに誓ってみない? ちょうど、空いてるよ」
「し、しかし……お前は……」
「うん、賽貴さまのこと……今でも少しだけ、引き摺ってる。完全に吹っ切れたわけじゃないんだ。確かに家の事情で北の方候補として育てられて、その通りにしようって思ってたけど……それじゃ、ダメだった」
 藍はそこで膝を曲げて、両腕で抱え込んだ。
 僅かに抱いていた恋心を思い起こして、寂しそうに笑う。
「賽貴さまのことはもう一人の、年の離れた兄様っていう感じだった。向こうにいる時、一族の半端ものとして扱われてたあたしに唯一優しくしてくれたのが賽貴さまだったから、それで勘違いもしてた。でも、いいんだ。賽貴さまの想い人が浅葱だったから。浅葱じゃないとダメで、そんな『兄様』を見ることが出来たから、もう満足してる」
「藍……」
 彼女は決して、同情心を買うためにそう言っているわけでなかった。
 想い人の行く末をきちんと見極めて気持ちに答えを見いだせたからこその言葉だった。
 颯悦にも、似たような整頓された思いがある。自分は随分と時間がかかったものだが、と心の奥で呟くと彼は音もなく口元に笑みを浮かべた。
「お前の良いところは、その前向きさだな」
「惚れちゃうでしょ?」
 ふふ、と彼女は笑いながらそう言った。
 ――叶わない思いをずっと抱いたままではなく、転化させていく。
 そんな藍の姿を、颯悦は羨ましいと思った。
「……まぁ、成長を見続けるのも悪くない。だが、私はお前を見ることは出来ないんだぞ」
「でも、颯悦さんはあたしがわかるもの」
 颯悦にはわからなかった。
 他の式神に比べれば、自分には特記すべきものが何もない。そして目も見えない。どちらかといえば日陰者であると思っていただけに、藍が自分に興味を持ったこの今の現実を理解し難いようだ。
「あたしにも、わからないんだ。……だけど、誰でもいいってわけじゃない。ただ、もっと色んな顔を見てみたいって……そう思ったの」
 藍のその言葉が、妙に心に突き刺さるかのような気がした。
 そして、痛感したことがあった。
「――私に埋められると思うのか、お前のその寂しさを」
「颯悦さんには、私の『色』を見つけてもらえればそれでいいよ」
 颯悦に見えない藍の表情は、どんなものなのだろう。
 笑っているような空気は小さなものにしか感じられなかった。
 だが、向けられる気持ちが例え一時の迷いのようなものであっても、跳ね除けてしまってはいけないようなそんな気がした。
 だから彼は、次の言葉をこう繋げるしかなかった。
「お前には、敵わないな」
 それをハッキリと耳にした藍は、そこで小さく笑ったのだった。