La fine e il nome.

 あの時背中に受けた傷は、未だに残っている。

「……これも、呪いと言うことか」
 上半身を露わにしたルカが、姿見に背を向けながら、小さく呟いた。
 鏡越しに見える彼女の背中には、刺し傷のような痣がある。
「君が受けるはずだった忌まわしい呪い……。背負うのが私でよかった」
 自嘲気味に笑いながらそう言ったルカは、姿見から離れ早々に衣服を着込む。
「…………っ」
 ずきん、と背中に鈍痛が走る。
 ルカは僅かに表情を歪め、身をすくめた。
 いい加減、慣れなくてはいけないはずの痛み。意識のある限り、ずっと続いている。
「ふ……あの頃の魔術師は、悔やんでいるだろう。姫の血は、絶えなかったのだから」
 脈打つ血の流れ。
 耳元でそれがやけに大きく聞こえるような気がして、ルカは瞳を閉じた。
 自然と口元に生まれる笑みは、過去への嘲笑だった。
「時が、くる……。姫よ、わたしを……見つけられるかな?」
 そう言いながら、ルカはまたくすりと笑った。

 記憶を呼び起こす材料は揃っている。
 扉を開けるのは、彼女次第だ。



 学園内に存在する、図書館。
 館内でリリが一人、大きな本を広げ何かを調べているようだった。
 彼女が人差し指で文字をなぞりながら見ているのは、この学園の歴史。広げた本には、セピア色の城跡のような絵もある。
 リリは史跡を調べているのだ。
 一つの国があり、それを治めていた城があり。美しい自然と永遠の平和を信じ続けている人々が、過去には確かに存在した。
 やがて起こる戦争。城が崩され、残されたのは荒野。
 時間を重ね、荒野に緑が再生された頃、この場に建てられたのが、この学園――。
「……眠り姫」
 ひととおり目を通した後、リリは静かに独り言を溢した。
 学園内での噂話の一つだ。
「眠っているのは、お姫様じゃないのかも……」
 童話にあるような、美しい物語ではないもかもしれない。
 リリは静かに、広げたままの本の上で両手を組んだ。
 そして、祈るかのようにして瞳を閉じる。
 何か、何処かに大切なものを落としてきたような、感覚。
 それが彼女の胸のうちから、離れない。

 ――わたしは、『だれ』?

「…………!」
 脳裏で呟かれた、リリの言葉。
 その言葉に誰より驚いたのは、リリ自身だ。弾かれるようにして瞳を開き、辺りを見回す。
 もちろん、誰もいない。

 ――わたしは。

 ――どこかで。

 ――何かを。

「私、どうしちゃったの……?」
 ルカに夢の事で相談をしてから、何かが変わってしまったような気がしていた。
 言葉では言い表せないモノ。
 考えれば考えるほど、混沌とした感情が渦巻きを増すだけ。
 回り続ける渦は、留まることを知らないかのように。

『ヒントをあげよう。愛しい――――。』

 あの時の、ルカの言葉。
 名前のような、響きを聞いたような気がした。
 彼女は、リリの向こうに誰を見ていたのだろう。
「ルカちゃん……」
 口元に手をやり、リリは小さく彼女の名前を呟いた。
 直後、言いなれたその名前に感じたのは、僅かな違和感。
「ルカ、ちゃん」
 もういちど、名を呼ぶ。
 やはりおかしい。
「……、……」
 胸からこみ上げてくるモノがある。
 けれど、今のリリにはそれを表に出す事が出来ない。
 ――苦しかった。
「リリ、大丈夫?」
「!!」
 そっと、背中に添えられた手のひら。
 降り注ぐ優しい声音に、リリは軽く瞠目した。
「……ルカ、ちゃ……」
「うん」
 ゆっくりと振り向きながら、名を呼び存在を確かめる。
 するときちんとした答えが返ってきた。
 夢や幻ではない。
 背に添えられたままの手のぬくもりも、確かなものだった。
「ど……して、ここに……?」
「呼んだだろう? 私を」
 リリの体は、無意識に震えていた。
 喉の奥から搾り出す言葉も、震えて形にならずにいる。
 そんなリリを、ルカは困ったように笑いながら見つめていた。
「無理はしないほうがいい。……ほら、ゆっくり深呼吸してごらん」
「うん……」
 ルカに言われるままに、リリはその場で深呼吸をした。
 瞳を閉じ、数回繰り返す。
 そうすることで、自然と胸のつかえが溶けていく気がした。
「……もう、平気かな?」
「うん、ありがとうルカちゃん」
「よかった」
 リリの笑顔を受け、ルカも安心した面持ちで微笑む。
 そしてリリの背に添えたままであった手のひらを、そっと離した。
 その、瞬間。
「…………!!」
 リリの中で感じたのは、深いふかい、喪失感。
 繊細なガラス細工が、一瞬にして割れるような感覚。
「……『リリー』。そろそろ、扉は開けられそうだね」
 リリの僅かな瞳の揺らぎに気付き、ルカはそう静かに告げる。
 そして、リリの言葉を待たずに、彼女はその場から消えた。
「……え……!?」
 その光景は、まるで雪が溶けるかのようで。
 リリは一瞬だけ、反応に遅れてしまう。
 目の前にいたはずのルカが、消えてしまった。
 リリが見ていたその前で、彼女は消えて、光となったのだ。
「ルカちゃん……!?」
 がたん、と椅子が倒れる音が響き渡る。
 リリがその場から勢いよく立ち上がったためだ。
 辺りを見回すも、何処にもルカの姿は見当たらない。
「ルカちゃん……、どこ……!?」
 押し寄せてくる不安と焦り。
 リリは開いたままだった本を置き去りにして、図書館を飛び出した。
「待って……ルカちゃん!!」
 長い廊下を走りながら、彼女は叫ぶ。
 そうしてルカを探し続けるも、リリには確信していることが心根であった。

 ルカにはもう、会えない。

 認めたくないが、それが真実だった。
「……どうしてなの、ルーク……!!」
 リリの口からついて出た言葉。
 そこで、何かが弾けた。

 ――ヒントをあげよう。愛しいリリアーナ。

 ルカが告げた言葉が、脳裏に再び蘇る。
 それは、彼女が何よりも大切にしてきた名であり……。
「……あ……」
 リリの瞳が、熱くなる。
 一瞬の間に視界が揺らぎ、涙が零れ落ちた。

 この学園に眠るのは、『姫』ではない。
 それを知るのは、リリだけだった。
出会えないと解っていながらも、リリは歩みを再開させる。

 誓いを果たす為に。

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