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第五夜三話

 ――そもそも俺は、そんなに多くのものを望んじゃいなかった。
 微睡みの中、心でそんな事を言うのは諷貴であった。
 彼が望んだものは、唯一だった。
 賀茂瀞という一人の人間のみであった。
「一緒に、来ないか」
 遠い昔、瀞にそう言ったことがあった。
 それを耳にした瀞は、嬉しそうに微笑んだ後に、首を横に振った。
「あなたの手を取ることは簡単です。でも私は……京を守らぬば」
 瀞の言葉は、寂しい響きだった。
 だからこそ、諷貴は彼を連れ出したいと強く思うようになった。
 求めた相手は、きちんと気持ちを返してくれていた。「愛している」と伝えれば、「私もですよ」と答えてくれた。
 言葉に裏があったわけでもなく、偽りがあったわけでもない。二人の気持ちは確かに通じ合っていたし、瀞は決して器用ではなかった。
 慈愛に満ちた、光のような存在。初めて触れた温かい手のひら。未来のない自分に、それ以上に寿命の短いはずの人間が、与えてくれたもの。
 それは、誰よりも何よりも尊いものであった。
「諷貴。――私は、行けません。陰陽師ですから」
 もう一度、同じことを言った。
 その時の返事も、拒絶であった。
「お前は、いつまで陰陽師であり続けるんだ」
「……そう、ですね。皆に必要とされ続ける限りは」
「『俺』が『お前』を必要としている」
 瀞はヒトとしての当然の答えを返し、諷貴はそれを否定した。
 穏やかな笑顔に騙されそうになる。だからこそ諷貴は、彼の言葉を否定した。
 陰陽師が一人や二人減ったところで、実際はさほど問題は無いはずだ。なのにそれでも、瀞は陰陽師であることを選ぶ。己の感情より、思ってくれる人達よりも。
「……なぁ、瀞。じゃあ俺は待っててやる。幸い俺はお前よりかは長生きが出来る。だから、お前が陰陽師で無くなるまで、待っててやる」
「見る影もない、老いぼれになっているかもしれませんよ」
 瀞は楽しそうに笑いながら諷貴の言葉に返事をした。見る限りは、嬉しそうであった。
 諷貴はそこで、ある程度の妥協と安心を得ていた。
 ヒトの寿命など、自分にとっては刹那でしかない。瀞がその立場を辞するまで、待つ事は余裕だと思っていた。
 ――いつかは、『自分だけの瀞』に。
 そんな事を思っていた。そうなると信じて疑わなかった。

 だが。

「兄上。瀞さまは、貴方と共には行けない」

 自分と同じ顔の弟から告げられた言葉が、衝撃的であった。それがいつ頃だったのかは、朧気であった。
 いつまでも待つ、と瀞自身に告げて、数ヶ月過ぎた頃であったのは、確かだった。
「……許してください、諷貴。私は恐らく一生、あなたのそばには行けないと思います」
「――――」
 賽貴より一歩を引いた後ろに立っていた瀞は、伏し目がちにそう言ってきた。
 諷貴には何か起こったのか理解できずに、そこで思考が停止した。
 ブツ、とこめかみあたりで音がしたような気がした。
(瀞、嘘だ。それはお前の意思じゃない。嘘なんだろ?)
 その言葉を、口にしたかと思った。だが実際は、音にはならなかったようだ。
 実際、彼は口は開いたが、言葉というモノを、形作るどころの状態では無かったのだ。
 自分の爪が割いたモノは、長い黒髪と、柔らかい肉の感触だった。
「……しずか」
 名前を呼んでも、応えてくれるはずの声は、発せられない。
 それが狂気から至る行為であったのか、それとも元からそのつもりであったのかは、諷貴自身にも判断がつかなかった。
 あの時、強烈なまでに脳裏にこびりついたものは、爪の感触だけだった。
 賽貴もその場に居たはずのその他の存在も、どうでも良かった。
 己の爪が、たったの一振りだけで、ヒトを地に沈めた。あまりにも脆い、と思いつつ、それがヒトという存在の儚さであり愛しさでもあると、諷貴はそこで感じ取ってもいた。
「瀞……、お前は、俺が……」
 独り言のように、そんな言葉を漏らした。
 側近くに立つ賽貴は、瀞の血を浴びて、半身が真っ赤であった。彼は未だに呆然としていて、わずかに体が震えている。
「……勘違いするなよ、賽貴」
「兄、上……」
「――お前じゃない、俺だ。『俺』が、『瀞』に選ばれたんだ!」
 声を荒げて、弟にそう言った。
 元々、感情を表に出すことが少なかった弟の反応は、皆無に近かった。
 髪を切られても、それは同じであった。
「お前にも、他の誰にも……瀞は渡さない!」
 そう言い捨てて、諷貴は自分の爪が一振りで落とした愛しい存在の首を持ち去ったのだ。
 そうすることで、転生を待とうと思った。
 生まれ変わりの存在が、自分の記憶が無くとも、首をすげ替えればどうにかなる――そんな浅はかな考えだったかもしれない。とにかく、瀞だと分かる何かが無ければ、駄目だと思ったのだ。
 だから彼は、瀞の首を結界の中に閉じ込めてずっと隠し持っていた。
 待てるはずだ、と信じていた。
 それから数年、諷貴は人間界に居を構えて静かに時間を過ごしてきた。瀞に妻がいて、姫が生まれていた事を聞いたのは、その辺りの時期であったか。
 それについては、あまり感情は揺れなかった。文のやり取りをしている、とまでは本人から聞いてもいたので、別段なんとも思わなかった。
 また、時間が流れる。
 幾年が過ぎたか忘れてしまった頃、寂しさを紛らわせるために気まぐれを起こした。
 一人の炎狼族の女に興味を抱いたのだ。
 紅く強い瞳をしていた。邂逅した時、その瞳に殺されてしまうかと、一瞬気持ちが負けそうになったほどだ。
 それが、紅炎であった。
 行きずりの関係は、意外なほど長く続いた。
 何より驚いたのが、彼女の好意であった。言葉は何も向けられなかったが、自分に向けられるひたむきな感情が、心地よかったのだ。
 だから諷貴は、『彼女だけ』を彼なりに愛した。その結果、彼女が身籠ることとなった。
 思いもよらぬ形で、自分が『父親』になろうとしている。おそらく子は見ることが出来ないであろうが、その現実が諷貴には少しだけ嬉しかった。
 そんな中で、一つのことに気がついた。
 瀞の魂が、巡ってはいないという事だ。
 理由は解らなかった。だが、自分が首を持っていることに繋がっているのだろうと諷貴は思った。
 それを悟ってから、彼は急激に何もかもが冷めていく感覚を憶えて、人間界を去った。あれだけ厳重にしていた最愛の人の首すら、置き去りにしてだ。
 ――そうして、現在に至る。

『……っ、眠っていた、のか……?』

 かくり、と己の頭が揺れた。
 座したままで、微睡んでいたらしい諷貴の声は、相変わらず淀んだままだ。
 彼の体は、その場から『動けない』状態であった。
 異形の姿は、諷貴自身をも蝕んでいる。
 彼自身が琳たちに言った、『王の座の拒絶』が如実に現れている証拠である。
 父を手に掛け、寝殿の母屋であったこの空間に踏み込んだその瞬間から、その拒絶があった。
 認めない、と空間全体から罵られているかのような気分だ。
 それでも諷貴は、その拒絶を面白がり、敢えて受け入れた。だが、余裕はあっという間に崩れ去れリ、意識を保つことが何よりの彼の問題となった。
 体に、脳内に、ねじ込まれるかのごとく押し寄せる、憎悪に似たモノ。
 声に似た音。悲しい音。そして拒絶と、拒絶――ひたすら、拒絶されるという病(や)みのような感情。
 とにかくそれは、言葉というものには当てはめることが出来なかった。
(このまま、何も出来ずに死ぬのか。……それでもまぁ、いいさ……)
「……諷貴、さま……」
 俯きがちに思案を巡らせていると、か細い声が聞こえてきた。視界のみ動かせば、自分が捕らえた少女の姿がそこにはあった。
 髪の一部で彼女の体を固定したままだが、全身を覆い続けるのはいつの間にかやめていた。
「その姿、つらい?」
『……なんで、そう思う。お前の今の現状のほうが、ずっとつらいだろう』
「ごめんなさい。……その、少し、覗き見しちゃった」
『なんだと……?』
「……アタシはこれでも、人間界で色々学んだの。桜姫さまや白雪さん、紅炎さんと颯悦さんから、たくさんのことを教わった」
 囚われた存在であるはずの少女は、思った以上に元気であった。そして強い意志を前面に曝け出してくる。
 諷貴はそこで、捕らえるべき者を違えたかと心で毒づいた。だが、何故か嫌悪感のようなものは浮かばなかった。
 それより、少女――藍――の言う覗き見、という言葉のほうが気になった。
 自分たち、天猫族にそのような能力は無い。
 あるとすれは鳥人族が可能か、と思い当たるくらいだ。
「心の声を、読むんだよ。精神を統一して、目を閉じる。すると人の動きを読むことが出来る。それをもっと研ぎ澄まさせると、感覚が開けてくるの」
『…………』
「アタシはただ、その先で諷貴さまの声に耳を傾けただけ。そうしたら、光景や風景が見えてしまうことがある。今だったり、過去だったり……」
『未来は?』
「……それは、無理だよ。アタシは鳥人族じゃないもの」
『やはりあの半妖の入れ知恵か』
 諷貴はそこで、彼女の師である颯悦を嗤った。
 眼の前でその姿を見た藍は、一瞬の瞠目の後に一呼吸をして、再び口を開いた。
「ヒトであっても、妖であっても、根本的なものは何も変わりないのよ、諷貴さま」
『……散々、陰陽師・浅葱たる存在を見下してたお前が、それを言うとはな』

 ――人間のくせに。

 確かに、藍はそういう事をはっきりと口にする少女であった。何も知らなかったからこそ、知らない存在、ましてや何の妖力や能力が無い人間を低く見ていた。だからこそ、彼女は学んだ後の吸収や反省が多かった。
「諷貴さまだって、瀞さんをずっとずっと愛しているのは、そういう事を解っているからでしょ?」
『……どうだろうな。実のところ、俺には判断が付いていない。むしろ、何も見てこなかった節もある』
 目に見えるものも、感じ取れることも、全て。
 視界に留めなければ良いこともある。それを選択してきたようにも思える。
 だが諷貴は、そんなことはどうでも良かったのだ。
『……っ、……』
 ぐら、と視界が揺れた。
 意識が揺れ始めている。このまま耐えたとて、諷貴は諷貴自身では無くなるのかもしれない。そう思いながら、彼は低く己を笑う。
『お前も、笑え……』
「笑わないよ。アタシも浅葱も、アナタを笑わない」
『阿呆が。忌むべき相手に情を傾ければ、命取りだぞ』
「そうかな? アタシは、諷貴さまを嫌いだとは思ったこと無いよ。……ずっと、怖かったけどね」
 この少女と話せば話すほど、諷貴の心の中が掻き乱される。彼女の兄である琳もそうであったが、口の減らない存在というのは、何かと煩わしい。
『……、ぐ、……』
「!」
 藍を拘束していた諷貴の髪が、緩められた。そこで身動きが出来るようになった藍は、躊躇うこと無く諷貴へと足を向けた。
『……来るなッ!』
「ダメだよ、諷貴さま!」
 諷貴の姿が、またさらに異形の形状へと変化した。それでも藍は、恐れを見せずに彼へと駆け込む。
 怖いという感情は、既に無い。
 今はただ、『諷貴』という存在が、ここで絶えてはいけないと思っただけなのだ。
「……浅葱、おねがい。この人を助けて……!」
 藍の言葉が、空にそう放たれた直後。
 諷貴の姿が形を崩し、そして藍も、その場から消えた。
「――藍。その願い、確かに聞き入れました」
 僅かな静寂の後、賽貴の結界に守られながらも姿を見せた金糸の少女は、ちいさくそんな言葉を放つのだった。

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